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前回はエゼキエル書24章から、「もう黙っていてはならない」、とのテーマで学びました。エゼキエルは自分の愛する妻の死を通して、約3年間、その身に苦しみを背負いながら、エルサレムが滅ぼされるその日を待つこととなります。しかし、エルサレムが滅ぼされるその日からは、エゼキエルはイスラエルの回復のメッセージを語るようになります。次回からは、回復をテーマにいくつか選んで学んでみます。エルサレムが滅ぼされる日を待つ間の約3年間、エゼキエルはエルサレムの周辺の国々への神の裁きのメッセージを語りかけます。今日はその中でも、26章から28章にかけて預言されているツロに対する神の裁きのメッセージを学んでみます。

ツロは地中海の沿岸近くに浮かぶ岩地の島に造られた町で、大いに繁栄した町です。古からダビデ王やソロモン王との深い交流があり、彼らはイスラエルの民とも長く交流を持った民でもあります。このツロを神は裁かれるのですが、その理由をいくつか拾ってみます。

26章2節で、「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった。』と言ってあざけった。」とあります。昔からエルサレムと親しくしていたツロは、エルサレムが滅ぼされたことにより、世界からの商人の流れがエルサレムからツロに移ることになり、自然に多くの利益が入るようになったのです。そして、エルサレムの民が倒れたことを商売繁盛の良い機会として理解し、神の都エルサレムを嘲ったとあるのです。このような間違った民の姿勢を、神がエゼキエルを通して指摘します。そして、人の不幸を喜ぶような民の上に神の厳しい裁きが下されることとなります。出エジプト記20章17節には、「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。・・」との戒めが書かれています。これはむさぼりの心を戒めている十戒の一節です。エルサレムが滅んで、その結果、自分たちに多くの利益が入ってくる、そんな思いでツロの民はエルサレムを見ていたのです。彼らの愛のない利己主義の姿勢を神は裁かれるのです。

2番目に、27章3節に、「人の子よ。あなたはツロに言え。海の出入り口に住み、多くの島々の民と取り引きをする者よ。神である主はこう仰せられる。ツロよ。『私は全く美しい。』とおまえは言った。」とあります。エゼキエルは、多くの島々の民と取り引きをし、豊かになったツロ、そして自分の美しさを誇るツロを、神は裁かれると語りかけるのです。27章には、商業都市として地中海を用いて多くの富が集まってくる、そのような町の繁栄した姿が描かれています。それも美しいとの表現で地上の豊かさを誇っています。

続いて、28章2節に、「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神の心のようにみなしたが、あなたは人であって神ではない。」とあります。豊かさのゆえに、ツロの王は、自分はダニエルよりも知恵があり、私は神であると自分を誇ったと言うのです。確かにツロの町は、13節でエデンの園に例えられています。神の祝福を頂いた美しい町であったのでしょう。しかし、そこに住む王が自らを神とする、そのような愚かさのゆえに、神の裁きが望むのです。

今日のメッセージの大きなテーマは、神は、高慢になって自分の富や地位を誇る、そのような民を裁かれる、そのことです。『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言ったツロの王の叫びに、彼の高慢さがよく現れています。

詩篇の73編には、悪者たちが繁栄していく姿を見た詩篇の作者の苦しみが表現されています。しかし、信仰のゆえに、神に祈り、彼らの行先には希望がないことに気づき、神の近くに生きることこそ幸いだと言うことにこの作者は気づくのです。そのような内容が美しく表現されています。少し見てみます。1節にあるように、「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。」と彼は頭では分かっているのです。でも、2節で、「しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。」とあります。3節で、「それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。」とあります。詩篇の作者は、一時的な富を得て、地上で豊かな生活をする悪者の姿にねたみ、心を迷ってしまったのです。6節には、「それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。」とあります。高慢、暴虐と悪者の姿を表現しています。神は、このような者たちを確かに裁かれるのです。神を信じるこの作者は、神の神殿に入り、祈りを通してこのような悪者の最後を悟るのです(17)。そして、神の近くにいることが、しあわせだと、28節で告白をしてこの詩篇は終わっています。

豊かな富を得て高慢になって行く者たち、自分は人であって弱い存在であることを忘れ、自分を神のように誤解する者たちの結末は明らかです。私はツロの裁きのメッセージを読んで、神の裁きの確かさを覚えて、ますます謙遜にさせられます。地中海の岸辺の近くの島に浮かんだ美しい都ツロは、今では岩地に戻り、漁師の網を干す場所となっています。アッシリヤもバビロンも一時的な繁栄を味わいましたが、高慢になり滅んで行ったのです。私たちも、これらの歴史を直視して自分たちの信仰を顧みて行きたいと思います。

ユダヤ人の歴史家ヨセフォスによると、ネブカデネザル王がエルサレムを陥落させた後、この島を攻撃しましたが、13年間包囲したものの落とせなかったと記録しています。しかし、紀元前332年にアレクサンドロス大王の攻撃によってツロは滅ぼされたことが記録されています。私たちは、神は高ぶる者を砕き、へりくだる者を高められると言う聖書の教えを知っています。バビロンのネブカデネザル王は自分の権力を誇り、その結果、理性を失い、露に濡れて、牛のように草をはむ者とされたことがダニエル書4章28から33節に書かれています。私たち信仰者は、高ぶる者ではなく、キリストの十字架によって救われ、神の恵みを喜ぶ者です。そして神に栄光をお返ししたいとの願いを持って生きる者たちです。

旧約の申命記8章12から14節を読んでみます。そこには、「あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、・・金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。」と書かれています。さらに、17節に、「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。』と言わないように気をつけなさい。」と書かれています。

さらに、箴言30章8と9節には、「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」と書かれています。皆さん、これらの御言葉を心に留めて行きましょう。キリストが歩まれたように、謙遜な歩みを目指して、神と隣人を愛することに思いを傾けてまいりましょう。神に栄光があるように、そのような思いを持って日々歩んでまいりましょう。

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「私は神だ。海の真中で神の座に着いている。」エゼキエル書28章2節