(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)

先月、私たちはクリスマスを祝いました。私の出身国であるマレーシアでは、国民の大多数がイスラム教徒ですが、それでもクリスマスは祝日となっています。なぜなら、国民のおよそ10%がキリスト教徒だからです。

それにもかかわらず、一部の過激なイスラム系の政治家たちは、イスラム教徒はキリスト教徒に「メリークリスマス」と言うべきではないと呼びかけ、論争を巻き起こしています。彼らにとって「メリークリスマス」と言うことは、キリスト教の主張を認めることを意味するからです。

イスラム教もイエスを偉大な預言者として尊敬していますが、神の子や救い主であるとは認めていません。イスラム教において、イエスは偉大な人間の教師ではありますが、決して救い主ではありません。救いは、神への従順と善い行いによってもたらされると考えられています。これは、イスラム教とキリスト教の重要な違いの一つです。

ここ数か月、私は4世紀にまとめられたニケア信条と、そこに示されている三位一体――すなわち、父なる神、子なる神、そして聖霊――について話してきました。

先月は、子なる神、特に「受肉以前の御子」について学び始めました。「受肉(インカーネーション)」という言葉は、人間の姿を取る、あるいは人間として現れるという意味です。子なる神は、人間の姿を取る前から永遠に存在しておられました。すなわち被造物が造られる以前から存在しておられ、完全に神であり、父なる神と完全に等しいお方でした。

今日のメッセージは「受肉された御子」――すなわち、人間の姿を取られた子なる神についてです。

今日は、ニケア信条から三つの主要な点を見ていきます。それは、御子の受肉、苦しみ、裁きです。最後に、神についてのこれらの信仰がなぜ重要なのか、そしてそれが私たちの日々の生活にどのような影響を与えるべきなのかについても考えたいと思います。まず、ニケア信条を共に唱えたいと思いますが、その前にお祈りします。

<受肉>

まず最初に、御子の受肉についてお話ししましょう。ニケア信条の次の一節には「主は私たち人間のため、また私たちの救いのために、天より降り、聖霊によって、おとめマリアより肉体を取って、人となり、」とあります。

この「肉体を取って、人となり」という表現は、3世紀に広まったドケティズムと呼ばれる考えに対抗するものでした。ドケティズムの人々は、「イエスは神であって、本当の意味では人間ではなかった。従って本当に苦しんだり、本当に死んだりしたのではない。」と主張しました。だからこそニケア信条は、イエスが「肉体を取って、人となり」、すなわち完全に神であり、同時に完全に人であることを、はっきりと強調しているのです。

このことから、ニケア信条の考え方を取るナジアンゾスの聖グレゴリウスは、有名な言葉を残しました。それは、「(イエスが)引き受けなかったものは、癒されていない。」という言葉です

簡単に言えば、もしイエスが私たちの人間性を本当に引き受けてくださらなかったのなら、私たちの人間性は壊れたままです。もしイエスが体だけを引き受け、人間の心を引き受けなかったのなら、人間の心は贖(あがな)われていません。もし弱さや痛みを経験されなかったのなら、人間の弱さや痛みは救いに触れられないままです。しかし、御子が真に人となられたからこそ、人間のあらゆる部分が癒されるのです。

聖書は、イエスが人であり、神であることの両方を証ししています。福音書の中で、イエスが人々に「あなたの罪は赦(ゆる)された」と言われたとき、宗教指導者たちは憤(いきどお)り、「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるのか」と問いかけました(マルコ2章7節)。彼らの言うとおりです。もしイエスが神でないなら、罪を赦す権威はありません。

それ以前、イスラエルの民の罪は、神殿での動物のいけにえによって赦されていました。これらの動物は罪人の身代わりとして死に、罪人の代表として捧げられたのです。しかし、この贖いは一時的なもので、繰り返されなければなりませんでした。神はこの制度を通して、罪の重大さ、つまり正義には血が流されることが必要であることを教えられたのです。

そしてイエスが、最終的な代表として来られました。十字架の上でイエスは罪人として死なれました。しかし、十字架の前からすでに救いは始まっていました。なぜなら、人間の姿を取ることで、御子イエスは、人間の性質とご自身を一体化させ、人間の内側から回復してくださったからです。

神として、イエスの犠牲には無限の価値があり、ただ一度で罪を完全に贖(あがな)います。そして人として、イエスは真に私たちの代表となってくださいます。神であり人であるお方は、私たちが生きることのできなかった人生を生き、本当は死なねばならなかった私たちの代わりに死んでくださったのです。

<苦しみ>

次に、御子は人となられただけでなく、人間の苦しみを実際に通られました。ニケア信条には次のように書かれています。「私たちのためにポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って、三日目によみがえり、天に昇られました。」

この苦しみは、特にイザヤ書53章に記されている苦難のしもべの預言を成就するものでした。預言者イザヤは、そのしもべが「さげすまれ、人々からのけ者にされ」(53:3)、私たちの悲しみをにない(4節)、「私たちのそむきの罪のために刺し通され」(5節)と語っています。さらに、「主は私たちすべての咎(とが)を彼に負わせた」(6節)、「自分のいのちを死に明け渡し、…多くの人の罪を負い」(12節)とも語っています。

ニケア信条は、イエスが本当に死に、そして葬られたことを強調しています。イスラム教が主張するように、ただ死んだように見えただけなのではなく、イエスは完全に死の中に入られたのです。そして、死の中に入って再び生き返っことによって、死に打ち勝ちました。

御子ご自身が、痛み、不義不正、そして死を通られたからこそ、私たちは苦しみの中で一人ではありません。神ご自身がそれを経験し、私たちの感じていることを知っておられるのです。

しかし、イエスの物語は苦しみで終わりません。イエスは死の中に留まることも、ただ元の普通の命に戻ることもありません。新しく、変えられた体をもって、死者の中からよみがえられたのです。そして、天に昇られますが、人間性を置き去りにするのではなく、新しい体を携えて昇られました。

ここで私は、ダニエル書7章13~14節にある「人の子」についての預言を思い起こします。ダニエルの幻の中で、「人の子のような方」が「天の雲に乗って来られ、年を経た方」の前に進み出て、主権と栄光と永遠の御国を与えられるのです。

これは、私たち自身の物語でもあります。私たちも苦しみ、そして死にます。しかし、新しい命を受け、永遠の御国で神と共にいるようになるのです。

<裁き>

では次のニケア信条の一節に目を向けましょう。

「(主は)生きている者と死んだ者とを裁くために、栄光をもって再び来られます。その御国は終わることがありません。」

この表現は、初代教会の時代にあった、もう一つの誤った考えに対する応答でもあります。当時、御子は父なる神から一時的に現れた存在にすぎず、やがて消えてしまうと考える人々がいました。これに対してニケア信条は、御子の御国には終わりがない、すなわち御子は永遠であることを強調しています。

王としての役割の一部として、御子は生きている者と死んだ者とを裁きます。そしてイエスが再び来られるとき、この世界に正義と回復がもたらされます。裁きは、悪を行う者にとっては悪い知らせですが、不正に苦しむ者にとっては良い知らせです。しかし同時に、聖書は私たちすべてが裁きを受けなければいけない存在であることを、はっきりと示しています。神の前に無実な者は一人もいません。だからこそ、私たちにはイエスが必要なのです。

ニケア信条そのものは地獄について明確には述べていませんが、聖書は二つの結末しか示していません。それは、神の御国において神と共にある永遠の命か、あるいは、御国の外で神から永遠に離されてしまうかのどちらかです。中立の立場はありません。

キリスト教の作家C・S・ルイスは、「地獄の扉は内側から施錠されている」と書きました。人々を神から無理やり引き離すのは神ではなく、むしろ人が神と共にいることを選ばないのだ、という意味です。

裁きがあるのは、神が悪を真剣に受け止めておられるからです。神は、残酷なことや不義不正が永遠に続いたり、それに対する答えが与えられないでいることをお許しになりません。もし裁きがなければ、苦しみには何の解決もないことになってしまいます。

<正しい信仰が正しい生き方へと導く>

私が語ってきた三位一体についての説教は、とても抽象的に感じられるかもしれません。日々の生活と、これがどう関係しているのか、わかりにくいと思われる方もいるでしょう。それは、もしかすると、私があまり上手な説教者ではないからかもしれません。

しかし、神学は本来、日常生活と深く関わるものです。 そのことを、三つの点から説明したいと思います。第一に、私たちが神について何を信じているかが、日々の生き方を形づくるということ。第二に、それが私たちの行動のあり方を決めるということ。第三に、それが私たちの人格そのものを形づくるということです。神学は、机上の空論のような抽象的な議論であるべきではありません。

第一の、私たちが神について何を信じているかが、日々の生活を形づくるという点についてですが、例えばイエスはまことの神ではないと主張したアリウスの教えを考えてみましょう。

もしイエスが神ではないのなら、十字架での死は、私たちを本当に救うことはできず、ただの道徳的な模範にすぎなくなります。その場合、救いは、私たち自身の努力によって、イエスのようになることにかかっていることになります。私たちは、十分にやったのかどうか確信を持てないまま、いつまでも努力し続けることになるでしょう。

これは、未来の確信が与えられていないイスラム教や、イエスが完全な神であることを否定し、救いの重荷を人間の努力に委ねるエホバの証人の考え方と似ています。これに対して、ニケア信条が告白するキリスト教信仰は、イエスが私たちに代わって救いを成し遂げてくださったと教えます。私たちは、救われるために神に従うのではありません。すでに救われ、神の愛に感謝しているからこそ、神に従うのです。

私たちがまだ救われていないという不安から神に従うのか、それともすでに救われたという確信に根ざしているから神に従うのか、神学がそれを決めるから重要なのです。

同時に、神の恵みがあるからといって従わなくてよい、ということになりません。もし私たちが本当に救われているのなら、自然とイエスと共にいたいと願い、イエスがなさったように行い、イエスのようになりたいと願うようになります。

そのため、キリスト者は、祈り、聖書を読む、悔い改め、交わり、福音を分かち合う、休むといった霊的な鍛錬を通して練(ね)られていきます。私たちは、救いを得るためにこれらを行うのではありません。すでに救いを受け取っているからこそ、喜びをもって実践するのです。

第二に、神学は、私たちがどのように行動するかを決定します。神のご性質、そして私たちに対してなさった神の行いが、私たちの倫理や生活習慣の土台となるのです。

私たちが礼拝しているのは、遠く離れたままでおられた神ではありません。神は降りて来られ、私たちの弱さの中に入り、私たちの重荷を担ってくださいました。

ですから、パウロはピリピ人への手紙2章3~7節で次のように書いています。「何事も自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自身を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」

私たちは、親切や謙遜、自己犠牲を、ただそれが役に立つから、あるいは自分の気分がよくなるから実践するのではありません。それらが、私たちの礼拝している神のご性質を映し出すものだからこそ、実践するのです。

子育て中の親である私にとって、このことは、特に実感させられます。時々子どの世話をする代わりに、自分の成長のために時間を使いたいと思うことがあります。子育ては、毎日大体が疲れ果て、いら立つ日々です。しかし、この時期、子どもたちのそばにいるよう、神は私を召しておられます。

神が私に対して同じことをしてくださったのだと思い起こすと、子どもに仕えることが少し楽になります。神の御子がご自身を低くして、私たちに仕えてくださったことを心に留めていると、皿洗いやおむつ替えといったごく普通の行いにおいても、神と出会い、神に似た者にされていく、聖なるひとときとなるのです。

繰り返しますが、神学は、私たちの日々の生活を形づくります。イエスが人間となられたことは、私たちに謙遜を教えます。十字架は、苦しみの中で神が私たちに近づいてくださることを示しています。復活は、壊れた世界の中にあっても希望が与えられること、イエスの再臨は、神に対して忠実に生きていくことが、いかに大切であるかを確信させてくれます。

神学は、ただ私たちに情報を与えるためではなく、私たちを形づくるためにあるのです。もし神学が、私たちをより知識豊かにはしても、キリストに似た者にしないのであれば、私たちはそれを誤解しています。教会が長く語り継いできたように、正しい信仰は、正しい生き方へと導いてくれます。

ニケア信条は、神がどのようなお方であるかを教えるだけでなく、私たちがどのような者となるべきかも示しています。ニケア信条の擁護者であった聖アタナシオスは、こう語りました。「神は人となられた。それは、人が神のようになるためである。」 私たちのために肉となり、人間となってくださった神を真に知るとき、私たちは少しずつ、神に似た者へと変えられていくのです。

私はまた、4世紀のニケア信仰の擁護者の一人である大バシレイオス(聖バジル)のことを思い起こします。彼は高度な教育を受けた知識人でしたが、学ぶことだけに人生を費やしたわけではありませんでした。バシレイオスは、おそらく最も初期の病院と言える施設を建てました。それは「バシレイアス」と呼ばれ、当時は治療の見込みがないと考えられていたハンセン病(らい病)の人々を含む入院患者の世話も行っていました。彼の信仰は、行動への原動力だったのです。

最後、結論ですが、ニケア信条は、イエスの物語とイエスがどなたなのかを示すだけでなく、私たち自身の物語、つまり、私たちがどのような者へと成長していくよう召されているのかの一端を教えているのです。

祈りましょう

<祈り>

全能の神さま、

私たちが闇のわざを捨て去り、光のよろいを身にまとうことができるよう、恵みをお与えください。

あなたの御子イエス・キリストは深くへりくだり、この世に来てくださいました。

主が栄光のうちに再び来られ、生きている者と死んだ者とを裁かれるその終わりの日に、どうか私たちが永遠のいのちにあずかることができますように。

父なる神と、聖霊とともに、今も、そしてとこしえに生き、治めておられる、

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

ニケア信条と三位一体(第4回):受肉された御子なる神