↓メッセージが聞けます。(日曜礼拝録音)
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今まで2回にわたり、ルカの福音書17章21節から、「神の国は、あなた方のただ中にあるのです。」とのみ言葉を取り上げました。確かに、イエスを信じる私たち一人一人の内に神の国がスタートしました。今私たちは、その一かけらを体験しているに過ぎないのですが、いつか一瞬にして神の国に入れられて神の国の素晴らしさの全体を見ることができるのです。そのような希望を持って生きる者、それが私たちです。どんな試練や困難の先にも希望が与えられている、そう信じて歩んでまいりましょう。

今日から旧約のアモス書に入ります。アモスは、北イスラエルも、南ユダも経済的に大いに祝福された時代に活躍した預言者です。ソロモン王の後にユダの民は2つの国に分かれます。北イスラエルと南ユダですが、北イスラエルの王は、人々がエルサレムに登り神を礼拝しようとする、その習慣を止めさせるために、北イスラエルの2つの町に、金の子牛を作り、新たな礼拝場を設けました。その一つの町がベテルです。彼らは、誠の神の教えから離れ、偶像を礼拝する国となってしまったのです。神は、そのような北イスラエルを喜んではおられません。そのような時、南ユダの南部にあるテコアに住む農夫であったアモスに神はメッセージをゆだね、北イスラエルに派遣されたのです。アモス書7章14節で、アモスはベテルの祭司アマツヤにこう答えています。「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。」と。誠の神は、農夫であったアモスを召し、北イスラエルの民を救おうとされたのです。

今私たちは、様々な出来事から神の御心を知ることができます。決して神は、無駄な出来事は起こされない。そう信じて物事を見る時に、いろいろな出来事の中に神の大きなご計画があることに私たちは気づきます。農夫であったアモスは、自然の驚異からも神の教えを受け取ったようです。

さて、今まで旧約聖書の根底にある変わらない神の御心を学んで参りました。それが最も明らかにされる箇所はミカ書の言葉です。ミカ6章8節には、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」とあります。公正を愛する、神の恵みを愛する。そして、へりくだってあなたの神と共に歩むこと、そのことを神様はあなたに求めておられます。皆さんも覚えておられるでしょう。これは私たち信仰者の生きるべき姿です。その視点で世界を見る時に、様々な国の指導者たちが神の御心から離れてしまっていることに気づきます。アモスもその視点に立って諸国を見たのではと私は思います。そして、このメッセージの発信先が神の都エルサレムであることを、1章2節で、「主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。」と明らかにしています。アモスは、北イスラエルの裁きだけではなく、諸外国に対する裁きをまず述べます。その際に、1章3節にあるように、「ダマスコの犯した3つのそむきの罪、4つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。」と言う表現を用いています。3つ、4つのそむきの罪とは、文字通りの意味ではなく、むしろ民が罪に罪を重ねていく姿を表しています。本来なら3つも罪を犯したならば、立ち返って悔い改めて、新たに人生を始めても良いのではとの思いが隠されているのではと思います。

まず、イスラエルの周りの国々への裁きが、1章と2章に書かれています。そして、その中にユダやイスラエルへの裁きが含まれています。ユダへの裁きは、まだまだその時代には起こらないのですが、約200年後、紀元前586年にエルサレムの滅亡として起こります。2章4節には、ユダの犯した罪として、彼らが主の教えを捨て、そのおきてを守らずとあるのです。神の教えを捨ててしまった。神のおきてを守らなかった。そして、民の上に立つ者が、民を正しく導かなかった。そのような内容であると思います。この時点で、南ユダに対する神の裁きが述べられているのは驚きです。

そして、2章6節から北イスラエルに対する裁きのメッセージが書かれています。その特色の1つは、貧しい者を助けなかった。弱い者を助けようとしなかった。そのような視点が強調されています。物質的に豊かになった民は、弱い者たちのケアーを忘れてしまったのです。私たちは、神は貧しい者や弱い者を愛されている、そのことに気づいて具体的な助けを考えていくべきです。特に、上に立つ指導者は、そのような人への支援を忘れてはならない。これは大きなメッセージであると思います。さあ、それではもう少し深く、北イスラエルに対する神のメッセージを見てみましょう。

今日私が選んだテーマは、「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(アモス書4章12節)とのみ言葉です。4章ではこのみ言葉が、「わたしのもとに帰って来なかった。」とのフレーズの対比として用いられています。神様は様々な出来事を起こして、私たちが立ち止まって、神を見上げる機会として用いようとされるのです。まず偶像礼拝の故に、神に目を向けることを忘れ、間違った教えに従って歩んでいる北イスラエルの現状を示します。4章4節には、「ベテルへ行ってそむけ。ギルガルへ行って、ますますそむけ。」とあります。間違った教えに従って、偶像礼拝に陥った者への警告です。形式的な宗教儀式をしている彼らへの警告の言葉です。自分たちは間違った教えに従っている、そのことに気づいてほしい。それがアモスの願いです。何を通して、彼らはそれに気づくのでしょうか。大変なことですが、さまざまな試練や困難を通して、神はそのことを民に気づかせようとされるのです。

4章6節には、「あなたがたのすべての場所でパンに欠乏させた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。」とあります。7,8節には、かんばつやまた大雨によって。そのような出来事の中に、神の導きを見なさいとアモスは語りかけます。8節で「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。」とあります。9節には、立ち枯れと黒穂病であなた方を打った。また噛みつくいなごが食い荒らしたとあります。自然界には様々な被害が起こります。そのような被害の中で、信仰者は静まって祈り、神の導きを求めるのです。しかし、それでも、あなた方は私のもとに帰ってこなかったと続きます。また10節には、疫病をあなた方に送り、とあります。11節では、「あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようであった。」とあります。きっと、ソドムとゴモラが経験したような何かしらの崩壊状態の中から、彼らは奇跡的に助け出されたのでしょう。それでも、あなた方は私のもとに帰ってこなかったとあるのです。さぁ、様々な出来事が私たちの人生の周りにも起こります。悲しい出来事や、また自然界の脅威にも私たちは直面します。アモスはそのような時にこそ、あなたが神に目を向けて、自分の人生を振り返って、神に立ち返る時ですよと語りかけています。もう一度、私たちは神の教えを考えて生きる、そのような機会が様々な出来事の中に与えられているのです。

「私たちの国籍は天にあります。・・・私たちの卑しい体をご自分の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3:20‐21)」「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また飽くことにも餓えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:12-13)」加えて、ヘブル書13章16節には、「善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」とあります。皆さんは様々な出来事の中でどのような心を持って生きておられるのでしょうか。皆さんには、天国の約束が与えられているのです。創造主なる神がおられるのです。嵐を収めたイエスがおられるのです。私たちは様々な出来事の中に、キリストに立ち返る機会を見出して行こうではありませんか。あなたはあなたの神に会う備えをせよ。このみ言葉を覚えて歩んで行きましょう。
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「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」アモス書4章12節