(音声メッセージは第一礼拝後にアップする予定です。)
聖書箇所: マルコの福音書14章27節~51節、66節~72節
聖書の中でダビデ王はこう言います。「敵に攻撃されるよりも、友に裏切られる方が辛い」と。詩篇55篇12~13節にはこう記されています。「まことに私をそしるものが敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。」
あなたは友人に失望させられたことがありますか? または家族や会社や、グループの人たちに失望させられたことがあるでしょうか? 支えてくれるはずだった人たちが、そうしてくれなかった。もしそのような経験があるなら、イエスが最も親しい弟子たちに裏切られ、失望させられた時の痛みを少し想像できるかもしれません。
今日はマルコの福音書14章の一部を読みます。そこには、イエスが十字架の死の前にどのように裏切られ、捕らえられたかが書かれています。今日のテーマは悲しい内容ではありますが、皆さんが希望と、そして「神は私たちのそばにおられる」という思いを持てるよう願っています。祈りましょう。
章が長いので、4つに分けて読んでいきましょう。まずはマルコ14章27節から31節です。
<マルコ14:27–31>
先月、弟子のひとりであるユダの裏切りを、イエスが預言した箇所を読みました。今日の箇所の27節では、12人すべての弟子たちが自分を見捨てるだろうとイエスは預言します。
しかし、これは単なる弟子たちへの非難ではありません。何故なら、そのイエスの預言の結末は悲しいものではないからです。28節で、イエスは復活すると語り、「復活」の後には、「故郷のガリラヤに弟子たちより先に行っている」と告げておられます。
つまり、たとえ弟子たちが自分を見捨てたとしても、それによってイエスの使命が失敗に終わることはないということです。そして、散らされてしまっても、弟子たちはイエスと共に再集結すると言っています。
弟子たちの失敗があっても、イエスによる神の救いのご計画は妨げられません。イエスは羊飼いのように、散らされた羊たちを再び集めます。迷い出た者たちは回復されるのです。今日の箇所は、人間の弱さと失敗の物語ですが、同時に驚くほど、神は素晴らしいお方であることが書かれています。
マルコの福音書が書かれた頃の読者たちは、この内容に慰められたことでしょう。彼らの中には、同胞のユダヤ人やローマ帝国による迫害を受けた人もいたでしょうし、信仰を捨てたり、隠さなくてはならなかった人もいたかもしれません。
では、次に32節から42節を読みましょう。
<マルコ14:32–42>
ゲツセマネの園で、心の苦しみが非常に大きかったイエスは、倒れてしまいます。34節でイエスは弟子たちに「私は悲しみのあまり死にそうだ」と告げ、36節では、父なる神に「この苦しみの杯を取り除いてください」と祈ります。
この時、耐え難い苦痛と死に対して心を備えておられたイエスは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネに支えてほしいと願っていました。ただ共にいて、目を覚まし祈ってほしいと願っていたのです。
マルコ3章では、イエスが12人の弟子を選んだ理由として、「イエスと共にいるため」(マルコ3:14)と書かれています。イエスの働きをするためだけではなく、「共にいるため」に弟子は選ばれたのです。
しかし37節では、弟子たちは眠ってしまったので、イエスはがっかりしたと書かれています。弟子たちは共にいたけれども、イエスを支えることがあまりできませんでした。彼らはイエスに何と言葉をかけてよいのかわからなかったのです。
もしあなたが一人で苦しんでいるなら、イエスを呼び求めてください。イエスはあなたのことをちゃんと理解しておられます。私たちは人に失望させられることはありますが、イエスは誠実なお方です。孤独、将来への不安、困難な課題に直面すること、あきらめてしまいそうになること、心が引き裂けるような悲しみ――イエスはすべてをご存じで、あなたと共にいてくださいます。
私たちの心を前に進ませるのは、祈りによってです。イエスは祈りの中で苦しみと向き合い、怖れと望みをまず神に表しました。イエスは、最終的には人間としての思いを明け渡し、父なる神の御心に自らを委ねました。イエスは、父なる神から与えられた使命を果たすことを選んだのです。その使命とは、私たちの救いのために十字架で命を捧げ、苦しみの盃を飲むという使命です。
では、次に43節から50節を読みましょう。
<マルコ14:43–50>
イエスは群衆に屈服します。それはイエスが弱いからでも、逮捕されて当然だったからでもありません。聖書を成就させるためです。
これ以前には、イエスは病気や自然、悪霊に対して大きな力を示してきました。しかし、神の偉大さはドラマチックな奇跡にだけ現れるわけではありません。地上における神の最大の働きが、この時、イエスの「従順」という形でなされたのです。敵を打ち倒すことではなく、深い愛によって、イエスは力と偉大さを示したのです。
イエスは捕らえられ、偽りの罪で責められ、辱められ、そして命を捧げてくださるほどに、私たちを愛しておられます。
しかし残念ながら、その時、弟子たちはそれを理解できず、イエスが敗北したように見えました。50節では、弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまったとあります。
次に、66節から72節を読みましょう。
<マルコ14:66–72>
弟子たちは逃げましたが、ペテロは多少勇気を見せて、大祭司の中庭に忍び込み、イエスの運命を確かめようとします。
しかし、3度も人々に「あなたはイエスの仲間だ」と言われ、ペテロはそれを否定します。31節で「たとえ死んでも、あなたを知らないなどとは決して言いません」と誇らしげに誓ったペテロでしたが、何という変わりようでしょうか。わずか数時間後にイエスを1度ならず3度否定したのです。
福音書が真実と感じられるのは、このペテロのように、初期のリーダーたちの弱さを隠さないところです。キリスト教の信仰において、人間のリーダーがまるで何の失敗もミスも犯さないかのように、神のように扱われませんし、そうするべきではありません。むしろ、私たちは神の基準に達することはできないと認めるところから、クリスチャンとしての信仰が始まるのです。
ペテロの物語は、警告でもあり、励ましでもあります。私たちが主に従おうと決心しても、失敗することがあります。しかし主は、そんな私たちを回復させ、みもとへと迎え入れてくださるのです。どんなに絶望的な状況でも、イエスは私たちを受け入れてくださいます。
ユダもペテロもイエスを裏切りました。二人とも後悔しました。しかし、ユダは自己嫌悪に沈み、自ら命を絶ちました。一方ペテロは、自分の弱さを認め、イエスのもとに戻ることを選びました。私たちも、ペテロのようでありたいと思います。
ここまで、マルコ14章からお話しました。ここからは、「赦しと和解」について話していきたいと思います。最初に他者との和解について、次に神との和解について話します。
<他者との和解>
まず、あなたが誰かに傷つけられたなら、神の平安があるように祈ります。
ダビデは、多くの詩や祈りの中で、怒りの感情を神にぶつけました。今日最初に紹介した詩篇55篇でも、「敵を滅ぼしたい、地獄に落ちてほしい」といった感情を、ダビデは神に向けて正直に吐き出しています。
私たちも、自分の気持ちを神に表現することで、慰めを得ることができます。そして、神がこの世のすべての悪に対して、正しい裁きをくだす日が来ると信じます。私たちにあやまちを犯した人に対する苦い感情を手放せるように、神に助けを求めることで、私たちの心は自由になります。
何度も何度も同じ相手を赦さなければならないこともあるでしょう。しかし赦すことは、相手を好きになることではありません。関係が元通りになることでも、相手の悪い行いを許容し続けることでもありません。暴力や虐待をする相手と一緒に暮らし続けることでもありません。赦した後でも、自分の健康や安全のために、そういう人から距離を取らなければならない場合もあるでしょう。
また、赦すことができても、和解するチャンスがないこともあります。和解は、両者が赦したい、赦されたいと願うときにのみ起こるものです。必ずしもこうなるとは限りません。
それでも私たちの側としては、赦しなさいと聖書は教えています。弟子たちが「どのように祈ればよいですか」と尋ねたとき、イエスはマタイ6:12でこう祈るよう教えました。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
そして、少し後にこのように付け加えました。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
<神との和解>
そうです、私たちはみな神に対して罪を犯しています。裏切ったのはユダやペテロだけではありません。聖書は、人類すべてが創造主なる神を裏切ったと言っています。
神は私たちに命の贈り物と多くの祝福を惜しみなく与えてくださいましたが、私たちはその恵みに気付くことができずに、自分自身が神になろうとしたり、あるいは他の神々――お金や成功、人間関係など――を求めてしまいます。
神ご自身が創造したものが神に背いたのです。しかし神は、ダビデとは違って、怒って敵を滅ぼそうとはなさいませんでした。神は、すべての罪、悪の記録そのものを消し去ることを望まれました。とはいえ、神の裁きはあるので、罪、悪は代償を必要とします。だからこそイエスは自ら捕らわれの身となることを選んでくださいました。私たちが自由になるために。イエスが私たちの罪を負ってくださったので、私たちは「無罪」と宣言されることになりました。私たちは赦され、新たなスタートを切ることができるのです。
神が私たちと和解したいと願っておられ、そして私たちが神と共にいることを神ご自身が願っておられるとは、本当に驚くべきことです。
たとえば、未来を予知する能力があなたにあったとします。ある人に出会って「良い人そうだな」と思っても、将来その人があなたを深く傷つけることがわかっていたら、友達になりますか? 時間をかけてその人と関係を築こうと思いますか?
イエスは、ユダやペテロがどうするかを知っていました。それでも彼らを弟子として選び、イエスのそばにおきました。主も私たちのすべてをご存じです。その上で、主は私たちと共にいたいと今も願っておられます。
<結び>
最後になりますが、私たちは弱く、罪深い存在です。でもそれ以上に神の愛は偉大です。イエスは人間の人生と痛みを経験されたので、私たちのことをよく理解しておられます。そしてイエスは誠実なお方であり、私たちを決して見捨てません。イエスは裏切られ、背かれたにもかかわらず、すべての人を回復させ、みもとに迎えてくださるお方です。イエスが私たちを赦してくださったように、私たちも赦す者となりましょう。
祈りましょう。
全能の父なる神よ、私たちの主イエス・キリストのゆえに、神の家族とされたこの者を憐れんでください。主は、私たちのために悪しき者たちの手に渡されることを受け入れ、十字架の死を耐え忍んでくださいました。感謝します。父なる神と聖霊と共に唯一の神として、今も、そしてとこしえに生きておられる、栄光なる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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聖書箇所: マルコの福音書14章27節~51節、66節~72節
聖書の中でダビデ王はこう言います。「敵に攻撃されるよりも、友に裏切られる方が辛い」と。詩篇55篇12~13節にはこう記されています。「まことに私をそしるものが敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。」
あなたは友人に失望させられたことがありますか? または家族や会社や、グループの人たちに失望させられたことがあるでしょうか? 支えてくれるはずだった人たちが、そうしてくれなかった。もしそのような経験があるなら、イエスが最も親しい弟子たちに裏切られ、失望させられた時の痛みを少し想像できるかもしれません。
今日はマルコの福音書14章の一部を読みます。そこには、イエスが十字架の死の前にどのように裏切られ、捕らえられたかが書かれています。今日のテーマは悲しい内容ではありますが、皆さんが希望と、そして「神は私たちのそばにおられる」という思いを持てるよう願っています。祈りましょう。
章が長いので、4つに分けて読んでいきましょう。まずはマルコ14章27節から31節です。
<マルコ14:27–31>
先月、弟子のひとりであるユダの裏切りを、イエスが預言した箇所を読みました。今日の箇所の27節では、12人すべての弟子たちが自分を見捨てるだろうとイエスは預言します。
しかし、これは単なる弟子たちへの非難ではありません。何故なら、そのイエスの預言の結末は悲しいものではないからです。28節で、イエスは復活すると語り、「復活」の後には、「故郷のガリラヤに弟子たちより先に行っている」と告げておられます。
つまり、たとえ弟子たちが自分を見捨てたとしても、それによってイエスの使命が失敗に終わることはないということです。そして、散らされてしまっても、弟子たちはイエスと共に再集結すると言っています。
弟子たちの失敗があっても、イエスによる神の救いのご計画は妨げられません。イエスは羊飼いのように、散らされた羊たちを再び集めます。迷い出た者たちは回復されるのです。今日の箇所は、人間の弱さと失敗の物語ですが、同時に驚くほど、神は素晴らしいお方であることが書かれています。
マルコの福音書が書かれた頃の読者たちは、この内容に慰められたことでしょう。彼らの中には、同胞のユダヤ人やローマ帝国による迫害を受けた人もいたでしょうし、信仰を捨てたり、隠さなくてはならなかった人もいたかもしれません。
では、次に32節から42節を読みましょう。
<マルコ14:32–42>
ゲツセマネの園で、心の苦しみが非常に大きかったイエスは、倒れてしまいます。34節でイエスは弟子たちに「私は悲しみのあまり死にそうだ」と告げ、36節では、父なる神に「この苦しみの杯を取り除いてください」と祈ります。
この時、耐え難い苦痛と死に対して心を備えておられたイエスは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネに支えてほしいと願っていました。ただ共にいて、目を覚まし祈ってほしいと願っていたのです。
マルコ3章では、イエスが12人の弟子を選んだ理由として、「イエスと共にいるため」(マルコ3:14)と書かれています。イエスの働きをするためだけではなく、「共にいるため」に弟子は選ばれたのです。
しかし37節では、弟子たちは眠ってしまったので、イエスはがっかりしたと書かれています。弟子たちは共にいたけれども、イエスを支えることがあまりできませんでした。彼らはイエスに何と言葉をかけてよいのかわからなかったのです。
もしあなたが一人で苦しんでいるなら、イエスを呼び求めてください。イエスはあなたのことをちゃんと理解しておられます。私たちは人に失望させられることはありますが、イエスは誠実なお方です。孤独、将来への不安、困難な課題に直面すること、あきらめてしまいそうになること、心が引き裂けるような悲しみ――イエスはすべてをご存じで、あなたと共にいてくださいます。
私たちの心を前に進ませるのは、祈りによってです。イエスは祈りの中で苦しみと向き合い、怖れと望みをまず神に表しました。イエスは、最終的には人間としての思いを明け渡し、父なる神の御心に自らを委ねました。イエスは、父なる神から与えられた使命を果たすことを選んだのです。その使命とは、私たちの救いのために十字架で命を捧げ、苦しみの盃を飲むという使命です。
では、次に43節から50節を読みましょう。
<マルコ14:43–50>
イエスは群衆に屈服します。それはイエスが弱いからでも、逮捕されて当然だったからでもありません。聖書を成就させるためです。
これ以前には、イエスは病気や自然、悪霊に対して大きな力を示してきました。しかし、神の偉大さはドラマチックな奇跡にだけ現れるわけではありません。地上における神の最大の働きが、この時、イエスの「従順」という形でなされたのです。敵を打ち倒すことではなく、深い愛によって、イエスは力と偉大さを示したのです。
イエスは捕らえられ、偽りの罪で責められ、辱められ、そして命を捧げてくださるほどに、私たちを愛しておられます。
しかし残念ながら、その時、弟子たちはそれを理解できず、イエスが敗北したように見えました。50節では、弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまったとあります。
次に、66節から72節を読みましょう。
<マルコ14:66–72>
弟子たちは逃げましたが、ペテロは多少勇気を見せて、大祭司の中庭に忍び込み、イエスの運命を確かめようとします。
しかし、3度も人々に「あなたはイエスの仲間だ」と言われ、ペテロはそれを否定します。31節で「たとえ死んでも、あなたを知らないなどとは決して言いません」と誇らしげに誓ったペテロでしたが、何という変わりようでしょうか。わずか数時間後にイエスを1度ならず3度否定したのです。
福音書が真実と感じられるのは、このペテロのように、初期のリーダーたちの弱さを隠さないところです。キリスト教の信仰において、人間のリーダーがまるで何の失敗もミスも犯さないかのように、神のように扱われませんし、そうするべきではありません。むしろ、私たちは神の基準に達することはできないと認めるところから、クリスチャンとしての信仰が始まるのです。
ペテロの物語は、警告でもあり、励ましでもあります。私たちが主に従おうと決心しても、失敗することがあります。しかし主は、そんな私たちを回復させ、みもとへと迎え入れてくださるのです。どんなに絶望的な状況でも、イエスは私たちを受け入れてくださいます。
ユダもペテロもイエスを裏切りました。二人とも後悔しました。しかし、ユダは自己嫌悪に沈み、自ら命を絶ちました。一方ペテロは、自分の弱さを認め、イエスのもとに戻ることを選びました。私たちも、ペテロのようでありたいと思います。
ここまで、マルコ14章からお話しました。ここからは、「赦しと和解」について話していきたいと思います。最初に他者との和解について、次に神との和解について話します。
<他者との和解>
まず、あなたが誰かに傷つけられたなら、神の平安があるように祈ります。
ダビデは、多くの詩や祈りの中で、怒りの感情を神にぶつけました。今日最初に紹介した詩篇55篇でも、「敵を滅ぼしたい、地獄に落ちてほしい」といった感情を、ダビデは神に向けて正直に吐き出しています。
私たちも、自分の気持ちを神に表現することで、慰めを得ることができます。そして、神がこの世のすべての悪に対して、正しい裁きをくだす日が来ると信じます。私たちにあやまちを犯した人に対する苦い感情を手放せるように、神に助けを求めることで、私たちの心は自由になります。
何度も何度も同じ相手を赦さなければならないこともあるでしょう。しかし赦すことは、相手を好きになることではありません。関係が元通りになることでも、相手の悪い行いを許容し続けることでもありません。暴力や虐待をする相手と一緒に暮らし続けることでもありません。赦した後でも、自分の健康や安全のために、そういう人から距離を取らなければならない場合もあるでしょう。
また、赦すことができても、和解するチャンスがないこともあります。和解は、両者が赦したい、赦されたいと願うときにのみ起こるものです。必ずしもこうなるとは限りません。
それでも私たちの側としては、赦しなさいと聖書は教えています。弟子たちが「どのように祈ればよいですか」と尋ねたとき、イエスはマタイ6:12でこう祈るよう教えました。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
そして、少し後にこのように付け加えました。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
<神との和解>
そうです、私たちはみな神に対して罪を犯しています。裏切ったのはユダやペテロだけではありません。聖書は、人類すべてが創造主なる神を裏切ったと言っています。
神は私たちに命の贈り物と多くの祝福を惜しみなく与えてくださいましたが、私たちはその恵みに気付くことができずに、自分自身が神になろうとしたり、あるいは他の神々――お金や成功、人間関係など――を求めてしまいます。
神ご自身が創造したものが神に背いたのです。しかし神は、ダビデとは違って、怒って敵を滅ぼそうとはなさいませんでした。神は、すべての罪、悪の記録そのものを消し去ることを望まれました。とはいえ、神の裁きはあるので、罪、悪は代償を必要とします。だからこそイエスは自ら捕らわれの身となることを選んでくださいました。私たちが自由になるために。イエスが私たちの罪を負ってくださったので、私たちは「無罪」と宣言されることになりました。私たちは赦され、新たなスタートを切ることができるのです。
神が私たちと和解したいと願っておられ、そして私たちが神と共にいることを神ご自身が願っておられるとは、本当に驚くべきことです。
たとえば、未来を予知する能力があなたにあったとします。ある人に出会って「良い人そうだな」と思っても、将来その人があなたを深く傷つけることがわかっていたら、友達になりますか? 時間をかけてその人と関係を築こうと思いますか?
イエスは、ユダやペテロがどうするかを知っていました。それでも彼らを弟子として選び、イエスのそばにおきました。主も私たちのすべてをご存じです。その上で、主は私たちと共にいたいと今も願っておられます。
<結び>
最後になりますが、私たちは弱く、罪深い存在です。でもそれ以上に神の愛は偉大です。イエスは人間の人生と痛みを経験されたので、私たちのことをよく理解しておられます。そしてイエスは誠実なお方であり、私たちを決して見捨てません。イエスは裏切られ、背かれたにもかかわらず、すべての人を回復させ、みもとに迎えてくださるお方です。イエスが私たちを赦してくださったように、私たちも赦す者となりましょう。
祈りましょう。
全能の父なる神よ、私たちの主イエス・キリストのゆえに、神の家族とされたこの者を憐れんでください。主は、私たちのために悪しき者たちの手に渡されることを受け入れ、十字架の死を耐え忍んでくださいました。感謝します。父なる神と聖霊と共に唯一の神として、今も、そしてとこしえに生きておられる、栄光なる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。(上のバーから聞けない方は青いボタンから)
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聖書箇所: マルコの福音書14章27節~51節、66節~72節
聖書の中でダビデ王はこう言います。「敵に攻撃されるよりも、友に裏切られる方が辛い」と。詩篇55篇12~13節にはこう記されています。「まことに私をそしるものが敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。」
あなたは友人に失望させられたことがありますか? または家族や会社や、グループの人たちに失望させられたことがあるでしょうか? 支えてくれるはずだった人たちが、そうしてくれなかった。もしそのような経験があるなら、イエスが最も親しい弟子たちに裏切られ、失望させられた時の痛みを少し想像できるかもしれません。
今日はマルコの福音書14章の一部を読みます。そこには、イエスが十字架の死の前にどのように裏切られ、捕らえられたかが書かれています。今日のテーマは悲しい内容ではありますが、皆さんが希望と、そして「神は私たちのそばにおられる」という思いを持てるよう願っています。祈りましょう。
章が長いので、4つに分けて読んでいきましょう。まずはマルコ14章27節から31節です。
<マルコ14:27–31>
先月、弟子のひとりであるユダの裏切りを、イエスが預言した箇所を読みました。今日の箇所の27節では、12人すべての弟子たちが自分を見捨てるだろうとイエスは預言します。
しかし、これは単なる弟子たちへの非難ではありません。何故なら、そのイエスの預言の結末は悲しいものではないからです。28節で、イエスは復活すると語り、「復活」の後には、「故郷のガリラヤに弟子たちより先に行っている」と告げておられます。
つまり、たとえ弟子たちが自分を見捨てたとしても、それによってイエスの使命が失敗に終わることはないということです。そして、散らされてしまっても、弟子たちはイエスと共に再集結すると言っています。
弟子たちの失敗があっても、イエスによる神の救いのご計画は妨げられません。イエスは羊飼いのように、散らされた羊たちを再び集めます。迷い出た者たちは回復されるのです。今日の箇所は、人間の弱さと失敗の物語ですが、同時に驚くほど、神は素晴らしいお方であることが書かれています。
マルコの福音書が書かれた頃の読者たちは、この内容に慰められたことでしょう。彼らの中には、同胞のユダヤ人やローマ帝国による迫害を受けた人もいたでしょうし、信仰を捨てたり、隠さなくてはならなかった人もいたかもしれません。
では、次に32節から42節を読みましょう。
<マルコ14:32–42>
ゲツセマネの園で、心の苦しみが非常に大きかったイエスは、倒れてしまいます。34節でイエスは弟子たちに「私は悲しみのあまり死にそうだ」と告げ、36節では、父なる神に「この苦しみの杯を取り除いてください」と祈ります。
この時、耐え難い苦痛と死に対して心を備えておられたイエスは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネに支えてほしいと願っていました。ただ共にいて、目を覚まし祈ってほしいと願っていたのです。
マルコ3章では、イエスが12人の弟子を選んだ理由として、「イエスと共にいるため」(マルコ3:14)と書かれています。イエスの働きをするためだけではなく、「共にいるため」に弟子は選ばれたのです。
しかし37節では、弟子たちは眠ってしまったので、イエスはがっかりしたと書かれています。弟子たちは共にいたけれども、イエスを支えることがあまりできませんでした。彼らはイエスに何と言葉をかけてよいのかわからなかったのです。
もしあなたが一人で苦しんでいるなら、イエスを呼び求めてください。イエスはあなたのことをちゃんと理解しておられます。私たちは人に失望させられることはありますが、イエスは誠実なお方です。孤独、将来への不安、困難な課題に直面すること、あきらめてしまいそうになること、心が引き裂けるような悲しみ――イエスはすべてをご存じで、あなたと共にいてくださいます。
私たちの心を前に進ませるのは、祈りによってです。イエスは祈りの中で苦しみと向き合い、怖れと望みをまず神に表しました。イエスは、最終的には人間としての思いを明け渡し、父なる神の御心に自らを委ねました。イエスは、父なる神から与えられた使命を果たすことを選んだのです。その使命とは、私たちの救いのために十字架で命を捧げ、苦しみの盃を飲むという使命です。
では、次に43節から50節を読みましょう。
<マルコ14:43–50>
イエスは群衆に屈服します。それはイエスが弱いからでも、逮捕されて当然だったからでもありません。聖書を成就させるためです。
これ以前には、イエスは病気や自然、悪霊に対して大きな力を示してきました。しかし、神の偉大さはドラマチックな奇跡にだけ現れるわけではありません。地上における神の最大の働きが、この時、イエスの「従順」という形でなされたのです。敵を打ち倒すことではなく、深い愛によって、イエスは力と偉大さを示したのです。
イエスは捕らえられ、偽りの罪で責められ、辱められ、そして命を捧げてくださるほどに、私たちを愛しておられます。
しかし残念ながら、その時、弟子たちはそれを理解できず、イエスが敗北したように見えました。50節では、弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまったとあります。
次に、66節から72節を読みましょう。
<マルコ14:66–72>
弟子たちは逃げましたが、ペテロは多少勇気を見せて、大祭司の中庭に忍び込み、イエスの運命を確かめようとします。
しかし、3度も人々に「あなたはイエスの仲間だ」と言われ、ペテロはそれを否定します。31節で「たとえ死んでも、あなたを知らないなどとは決して言いません」と誇らしげに誓ったペテロでしたが、何という変わりようでしょうか。わずか数時間後にイエスを1度ならず3度否定したのです。
福音書が真実と感じられるのは、このペテロのように、初期のリーダーたちの弱さを隠さないところです。キリスト教の信仰において、人間のリーダーがまるで何の失敗もミスも犯さないかのように、神のように扱われませんし、そうするべきではありません。むしろ、私たちは神の基準に達することはできないと認めるところから、クリスチャンとしての信仰が始まるのです。
ペテロの物語は、警告でもあり、励ましでもあります。私たちが主に従おうと決心しても、失敗することがあります。しかし主は、そんな私たちを回復させ、みもとへと迎え入れてくださるのです。どんなに絶望的な状況でも、イエスは私たちを受け入れてくださいます。
ユダもペテロもイエスを裏切りました。二人とも後悔しました。しかし、ユダは自己嫌悪に沈み、自ら命を絶ちました。一方ペテロは、自分の弱さを認め、イエスのもとに戻ることを選びました。私たちも、ペテロのようでありたいと思います。
ここまで、マルコ14章からお話しました。ここからは、「赦しと和解」について話していきたいと思います。最初に他者との和解について、次に神との和解について話します。
<他者との和解>
まず、あなたが誰かに傷つけられたなら、神の平安があるように祈ります。
ダビデは、多くの詩や祈りの中で、怒りの感情を神にぶつけました。今日最初に紹介した詩篇55篇でも、「敵を滅ぼしたい、地獄に落ちてほしい」といった感情を、ダビデは神に向けて正直に吐き出しています。
私たちも、自分の気持ちを神に表現することで、慰めを得ることができます。そして、神がこの世のすべての悪に対して、正しい裁きをくだす日が来ると信じます。私たちにあやまちを犯した人に対する苦い感情を手放せるように、神に助けを求めることで、私たちの心は自由になります。
何度も何度も同じ相手を赦さなければならないこともあるでしょう。しかし赦すことは、相手を好きになることではありません。関係が元通りになることでも、相手の悪い行いを許容し続けることでもありません。暴力や虐待をする相手と一緒に暮らし続けることでもありません。赦した後でも、自分の健康や安全のために、そういう人から距離を取らなければならない場合もあるでしょう。
また、赦すことができても、和解するチャンスがないこともあります。和解は、両者が赦したい、赦されたいと願うときにのみ起こるものです。必ずしもこうなるとは限りません。
それでも私たちの側としては、赦しなさいと聖書は教えています。弟子たちが「どのように祈ればよいですか」と尋ねたとき、イエスはマタイ6:12でこう祈るよう教えました。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
そして、少し後にこのように付け加えました。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
<神との和解>
そうです、私たちはみな神に対して罪を犯しています。裏切ったのはユダやペテロだけではありません。聖書は、人類すべてが創造主なる神を裏切ったと言っています。
神は私たちに命の贈り物と多くの祝福を惜しみなく与えてくださいましたが、私たちはその恵みに気付くことができずに、自分自身が神になろうとしたり、あるいは他の神々――お金や成功、人間関係など――を求めてしまいます。
神ご自身が創造したものが神に背いたのです。しかし神は、ダビデとは違って、怒って敵を滅ぼそうとはなさいませんでした。神は、すべての罪、悪の記録そのものを消し去ることを望まれました。とはいえ、神の裁きはあるので、罪、悪は代償を必要とします。だからこそイエスは自ら捕らわれの身となることを選んでくださいました。私たちが自由になるために。イエスが私たちの罪を負ってくださったので、私たちは「無罪」と宣言されることになりました。私たちは赦され、新たなスタートを切ることができるのです。
神が私たちと和解したいと願っておられ、そして私たちが神と共にいることを神ご自身が願っておられるとは、本当に驚くべきことです。
たとえば、未来を予知する能力があなたにあったとします。ある人に出会って「良い人そうだな」と思っても、将来その人があなたを深く傷つけることがわかっていたら、友達になりますか? 時間をかけてその人と関係を築こうと思いますか?
イエスは、ユダやペテロがどうするかを知っていました。それでも彼らを弟子として選び、イエスのそばにおきました。主も私たちのすべてをご存じです。その上で、主は私たちと共にいたいと今も願っておられます。
<結び>
最後になりますが、私たちは弱く、罪深い存在です。でもそれ以上に神の愛は偉大です。イエスは人間の人生と痛みを経験されたので、私たちのことをよく理解しておられます。そしてイエスは誠実なお方であり、私たちを決して見捨てません。イエスは裏切られ、背かれたにもかかわらず、すべての人を回復させ、みもとに迎えてくださるお方です。イエスが私たちを赦してくださったように、私たちも赦す者となりましょう。
祈りましょう。
全能の父なる神よ、私たちの主イエス・キリストのゆえに、神の家族とされたこの者を憐れんでください。主は、私たちのために悪しき者たちの手に渡されることを受け入れ、十字架の死を耐え忍んでくださいました。感謝します。父なる神と聖霊と共に唯一の神として、今も、そしてとこしえに生きておられる、栄光なる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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聖書箇所: マルコの福音書14章27節~51節、66節~72節
聖書の中でダビデ王はこう言います。「敵に攻撃されるよりも、友に裏切られる方が辛い」と。詩篇55篇12~13節にはこう記されています。「まことに私をそしるものが敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。」
あなたは友人に失望させられたことがありますか? または家族や会社や、グループの人たちに失望させられたことがあるでしょうか? 支えてくれるはずだった人たちが、そうしてくれなかった。もしそのような経験があるなら、イエスが最も親しい弟子たちに裏切られ、失望させられた時の痛みを少し想像できるかもしれません。
今日はマルコの福音書14章の一部を読みます。そこには、イエスが十字架の死の前にどのように裏切られ、捕らえられたかが書かれています。今日のテーマは悲しい内容ではありますが、皆さんが希望と、そして「神は私たちのそばにおられる」という思いを持てるよう願っています。祈りましょう。
章が長いので、4つに分けて読んでいきましょう。まずはマルコ14章27節から31節です。
<マルコ14:27–31>
先月、弟子のひとりであるユダの裏切りを、イエスが預言した箇所を読みました。今日の箇所の27節では、12人すべての弟子たちが自分を見捨てるだろうとイエスは預言します。
しかし、これは単なる弟子たちへの非難ではありません。何故なら、そのイエスの預言の結末は悲しいものではないからです。28節で、イエスは復活すると語り、「復活」の後には、「故郷のガリラヤに弟子たちより先に行っている」と告げておられます。
つまり、たとえ弟子たちが自分を見捨てたとしても、それによってイエスの使命が失敗に終わることはないということです。そして、散らされてしまっても、弟子たちはイエスと共に再集結すると言っています。
弟子たちの失敗があっても、イエスによる神の救いのご計画は妨げられません。イエスは羊飼いのように、散らされた羊たちを再び集めます。迷い出た者たちは回復されるのです。今日の箇所は、人間の弱さと失敗の物語ですが、同時に驚くほど、神は素晴らしいお方であることが書かれています。
マルコの福音書が書かれた頃の読者たちは、この内容に慰められたことでしょう。彼らの中には、同胞のユダヤ人やローマ帝国による迫害を受けた人もいたでしょうし、信仰を捨てたり、隠さなくてはならなかった人もいたかもしれません。
では、次に32節から42節を読みましょう。
<マルコ14:32–42>
ゲツセマネの園で、心の苦しみが非常に大きかったイエスは、倒れてしまいます。34節でイエスは弟子たちに「私は悲しみのあまり死にそうだ」と告げ、36節では、父なる神に「この苦しみの杯を取り除いてください」と祈ります。
この時、耐え難い苦痛と死に対して心を備えておられたイエスは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネに支えてほしいと願っていました。ただ共にいて、目を覚まし祈ってほしいと願っていたのです。
マルコ3章では、イエスが12人の弟子を選んだ理由として、「イエスと共にいるため」(マルコ3:14)と書かれています。イエスの働きをするためだけではなく、「共にいるため」に弟子は選ばれたのです。
しかし37節では、弟子たちは眠ってしまったので、イエスはがっかりしたと書かれています。弟子たちは共にいたけれども、イエスを支えることがあまりできませんでした。彼らはイエスに何と言葉をかけてよいのかわからなかったのです。
もしあなたが一人で苦しんでいるなら、イエスを呼び求めてください。イエスはあなたのことをちゃんと理解しておられます。私たちは人に失望させられることはありますが、イエスは誠実なお方です。孤独、将来への不安、困難な課題に直面すること、あきらめてしまいそうになること、心が引き裂けるような悲しみ――イエスはすべてをご存じで、あなたと共にいてくださいます。
私たちの心を前に進ませるのは、祈りによってです。イエスは祈りの中で苦しみと向き合い、怖れと望みをまず神に表しました。イエスは、最終的には人間としての思いを明け渡し、父なる神の御心に自らを委ねました。イエスは、父なる神から与えられた使命を果たすことを選んだのです。その使命とは、私たちの救いのために十字架で命を捧げ、苦しみの盃を飲むという使命です。
では、次に43節から50節を読みましょう。
<マルコ14:43–50>
イエスは群衆に屈服します。それはイエスが弱いからでも、逮捕されて当然だったからでもありません。聖書を成就させるためです。
これ以前には、イエスは病気や自然、悪霊に対して大きな力を示してきました。しかし、神の偉大さはドラマチックな奇跡にだけ現れるわけではありません。地上における神の最大の働きが、この時、イエスの「従順」という形でなされたのです。敵を打ち倒すことではなく、深い愛によって、イエスは力と偉大さを示したのです。
イエスは捕らえられ、偽りの罪で責められ、辱められ、そして命を捧げてくださるほどに、私たちを愛しておられます。
しかし残念ながら、その時、弟子たちはそれを理解できず、イエスが敗北したように見えました。50節では、弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまったとあります。
次に、66節から72節を読みましょう。
<マルコ14:66–72>
弟子たちは逃げましたが、ペテロは多少勇気を見せて、大祭司の中庭に忍び込み、イエスの運命を確かめようとします。
しかし、3度も人々に「あなたはイエスの仲間だ」と言われ、ペテロはそれを否定します。31節で「たとえ死んでも、あなたを知らないなどとは決して言いません」と誇らしげに誓ったペテロでしたが、何という変わりようでしょうか。わずか数時間後にイエスを1度ならず3度否定したのです。
福音書が真実と感じられるのは、このペテロのように、初期のリーダーたちの弱さを隠さないところです。キリスト教の信仰において、人間のリーダーがまるで何の失敗もミスも犯さないかのように、神のように扱われませんし、そうするべきではありません。むしろ、私たちは神の基準に達することはできないと認めるところから、クリスチャンとしての信仰が始まるのです。
ペテロの物語は、警告でもあり、励ましでもあります。私たちが主に従おうと決心しても、失敗することがあります。しかし主は、そんな私たちを回復させ、みもとへと迎え入れてくださるのです。どんなに絶望的な状況でも、イエスは私たちを受け入れてくださいます。
ユダもペテロもイエスを裏切りました。二人とも後悔しました。しかし、ユダは自己嫌悪に沈み、自ら命を絶ちました。一方ペテロは、自分の弱さを認め、イエスのもとに戻ることを選びました。私たちも、ペテロのようでありたいと思います。
ここまで、マルコ14章からお話しました。ここからは、「赦しと和解」について話していきたいと思います。最初に他者との和解について、次に神との和解について話します。
<他者との和解>
まず、あなたが誰かに傷つけられたなら、神の平安があるように祈ります。
ダビデは、多くの詩や祈りの中で、怒りの感情を神にぶつけました。今日最初に紹介した詩篇55篇でも、「敵を滅ぼしたい、地獄に落ちてほしい」といった感情を、ダビデは神に向けて正直に吐き出しています。
私たちも、自分の気持ちを神に表現することで、慰めを得ることができます。そして、神がこの世のすべての悪に対して、正しい裁きをくだす日が来ると信じます。私たちにあやまちを犯した人に対する苦い感情を手放せるように、神に助けを求めることで、私たちの心は自由になります。
何度も何度も同じ相手を赦さなければならないこともあるでしょう。しかし赦すことは、相手を好きになることではありません。関係が元通りになることでも、相手の悪い行いを許容し続けることでもありません。暴力や虐待をする相手と一緒に暮らし続けることでもありません。赦した後でも、自分の健康や安全のために、そういう人から距離を取らなければならない場合もあるでしょう。
また、赦すことができても、和解するチャンスがないこともあります。和解は、両者が赦したい、赦されたいと願うときにのみ起こるものです。必ずしもこうなるとは限りません。
それでも私たちの側としては、赦しなさいと聖書は教えています。弟子たちが「どのように祈ればよいですか」と尋ねたとき、イエスはマタイ6:12でこう祈るよう教えました。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
そして、少し後にこのように付け加えました。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
<神との和解>
そうです、私たちはみな神に対して罪を犯しています。裏切ったのはユダやペテロだけではありません。聖書は、人類すべてが創造主なる神を裏切ったと言っています。
神は私たちに命の贈り物と多くの祝福を惜しみなく与えてくださいましたが、私たちはその恵みに気付くことができずに、自分自身が神になろうとしたり、あるいは他の神々――お金や成功、人間関係など――を求めてしまいます。
神ご自身が創造したものが神に背いたのです。しかし神は、ダビデとは違って、怒って敵を滅ぼそうとはなさいませんでした。神は、すべての罪、悪の記録そのものを消し去ることを望まれました。とはいえ、神の裁きはあるので、罪、悪は代償を必要とします。だからこそイエスは自ら捕らわれの身となることを選んでくださいました。私たちが自由になるために。イエスが私たちの罪を負ってくださったので、私たちは「無罪」と宣言されることになりました。私たちは赦され、新たなスタートを切ることができるのです。
神が私たちと和解したいと願っておられ、そして私たちが神と共にいることを神ご自身が願っておられるとは、本当に驚くべきことです。
たとえば、未来を予知する能力があなたにあったとします。ある人に出会って「良い人そうだな」と思っても、将来その人があなたを深く傷つけることがわかっていたら、友達になりますか? 時間をかけてその人と関係を築こうと思いますか?
イエスは、ユダやペテロがどうするかを知っていました。それでも彼らを弟子として選び、イエスのそばにおきました。主も私たちのすべてをご存じです。その上で、主は私たちと共にいたいと今も願っておられます。
<結び>
最後になりますが、私たちは弱く、罪深い存在です。でもそれ以上に神の愛は偉大です。イエスは人間の人生と痛みを経験されたので、私たちのことをよく理解しておられます。そしてイエスは誠実なお方であり、私たちを決して見捨てません。イエスは裏切られ、背かれたにもかかわらず、すべての人を回復させ、みもとに迎えてくださるお方です。イエスが私たちを赦してくださったように、私たちも赦す者となりましょう。
祈りましょう。
全能の父なる神よ、私たちの主イエス・キリストのゆえに、神の家族とされたこの者を憐れんでください。主は、私たちのために悪しき者たちの手に渡されることを受け入れ、十字架の死を耐え忍んでくださいました。感謝します。父なる神と聖霊と共に唯一の神として、今も、そしてとこしえに生きておられる、栄光なる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。(上のバーから聞けない方は青いボタンから)
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