↓メッセージが聞けます。(日曜礼拝録音)
【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】
もう一度ホセア書の背景を述べます。ダビデ王、そしてソロモン王の時代の後、イスラエルは2つの国に分裂します。北イスラエルと南ユダ国です。北イスラエルの10部族を率いたのがヤロブアム王です。彼は自分についてきた民が南のエルサレムに上って、神の神殿で礼拝をすることを妨げようと企てます。彼は、北イスラエルの領土の北部と南部の町に金の子牛の像を造り、そこを新たな礼拝の場所としたのです。その結果、心では神を信じていると思っていても、偶像を礼拝する民になってしまったのです。真の神を知っていながら、他の偶像の神を礼拝する民を、姦淫をおかしている民としてホセアは表現しています。残念ながら、金の子牛を礼拝する民は、カナン人が礼拝するバアルにも心を奪われてしまいます。北イスラエルの民は、真の神と偶像なる神の区別ができなくなってしまったのです。
2章1節にこのようにあります。「あなたがたの兄弟には、『わたしの民』と言い、あなたがたの姉妹には、『愛される者』と言え。」と。裁きと回復が確かに起こります。国民の多くがバアル礼拝を受け入れてしまった民に向かって、神はいくつかの奇跡を起こします。私が最も心に残る奇跡は、第一列王記17と18章に書かれている預言者エリアによる奇跡です。エリアは当時のアハブ王に向かって、「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私の言葉によらなければ、ここ2 、3年の間は、露も雨も降らないであろう。」と語りかけます。そしてエリアは、王から隠れ、カラスが運んでくるパンと肉によって命をつないでいきます。そして川が枯れると、貧しいやもめの助けによって命を保たれます。これもエリアにとっては大変な試練と訓練の時であったと思います。しかし、創造主である真の神こそ、私の命を守ってくださっているとの貴重な体験をするのです。このユニークな体験が17章に書かれています。第一列王記18章では、エリアとバアルの預言者とのカルメル山での戦いが出て参ります。エリアは、カルメル山で450人のバアルの預言者と戦うのです。彼は、神に祈ります。37節で、「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」そう祈ると、続く38節には、「すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水をなめ尽くしてしまった。」と書かれています。彼は、バアルの預言者たちとの戦いに勝利するのです。39節では、「民はみな、これを見て、ひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です。』と言った。」とあります。民は、バアルへの信仰から創造主である主への信仰へと立ち返ります。しかし、これも残念なことに長くは続かなかったようです。バアルへの信仰と真の神への信仰が混じり合い、偶像礼拝を継続する、そのような状態が続いていきます。
前回も指摘しましたが、このホセア書の大きなテーマは、神の無条件の愛、無条件の赦しです。ご自身に背を向けて、偶像を拝んでいるそのようなイスラエルの民を神は愛し続けるのです。バアルに心をひかれてしまうイスラエルの民の特色がいくつか2章では明らかにされています。当時のカナン人は、農作物の豊作をバアルの偶像に祈っていたのです。豊かな豊作があるように、家畜が増えるようにと祈る宗教です。そして悲しいことに、その礼拝行為として、儀式的な売春行為を伴う、これがバアルへの礼拝であったのです。そのような宗教にイスラエルの民は陥ってしまったのです。
2章5節の後半には、「私は恋人たちのあとを追う。彼らは私にパンと水、羊毛と麻、油と飲み物を与えてくれる。」とあります。彼らは、バアルに作物の豊かな収穫を祈ります。この5節の言葉は、彼らがバアルに求めた内容を含んでいます。パンと水、羊毛と麻、油と飲み物など、そのような自然界の報いをバアルの偶像に求めたのです。2章6節は、「それゆえ、わたしは、いばらで彼女の道に垣を立て、彼女が通い道を見いださないように、石垣を立てよう。」とあります。イスラエルの民を愛する神は、様々な奇跡を通して、ここでは具体的には石垣を立てて、創造主である真の神に戻るようにと働きかけたのです。その一つがエリアの奇跡です。雨の神と信じられていたバアルが雨を降らせるのではありません。主なる神です。稲妻の神と信じられていたバアルが天から火をもたらすのではありません。主なる神です。主なる神こそ、雨を降らせ、豊かな収穫をもたらしてくださる方です。真の神は、その力を持っておられるのです。
ホセア書2章16節には、「その日、主の御告げ。あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。わたしはバアルたちの名を彼女の口から取り除く。その名はもう覚えられることはない。」とあります。イスラエルの民がバアルから離れて、真の神への信仰に戻る。そのような日が来ると言う約束です。その日とありますが、神の救いが成就する日です。もう一度確認しますが、その日とは、イスラエルの民が捕囚から解放されてエルサレムに戻る日、イエスがエルサレムに立たれる日、そして、終末の日、イエスが王の王として戻られる日、そう理解することができると思います。
19節では、「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。」とあります。永遠の契り、それは、イエスが十字架を通して与える新たな契約でもあります。神は、新しい契約をイスラエルの民と結ぶのです。ところで、私たちは聖餐式を通してキリストとの新しい契約の中に生きています。イスラエルの民もいつか、イエスとの新たな契約の中に生きるようになるのです。私たちは、今キリストを信じ、十字架での恵みを通して、罪の赦しをいただき、確かに神との新しい契約の中に生きています。イスラエルの民もこの契約に招かれているのです。20節には、「わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。」とあります。私たちは、主との生きた交わりの中に生かされています。聖餐式もその一つの現れです。21節には、「その日、わたしは答える。主の御告げ。わたしは天に答え、天は地に答える。」とあります。イスラエルの民の回復を、また、私たち一人一人の信仰の回復を、天も自然界も共に喜んでいるのです。私たち一人一人、まだ信仰の完成は程遠い者たちですが、私たちの心の中に生きておられるイエスが日々私たちを変えてくださっています。
様々な出来事を通して、私たちはイエス・キリストの恵みを経験し、成長します。清められた歩みを私たちは経験します。そして23節にあるように、いつか、「あなたは私の神」と告白する、その日が来るのです。23節は、ホセアに与えられた3人の子供の名前を通して示された神の裁きが終わり、神とイスラエルの契約関係が回復するとの預言の言葉です。
さぁ皆さん。皆さんの人生はどうでしょう。時に神の恵みを忘れ、高慢になり、神から離れた人生を生きることもあったでしょう。でもこのホセア書は、神は無条件の愛で私たちを愛してくださり、無条件の赦しで私たちの人生を導こうとされることを明らかにしています。もう一度神の恵みに立ち返って、イエス様、私と一緒に生きてください。そう祈りながら人生を再スタートして参りましょう。たとえ放蕩息子のようになってしまった者も、私たちを待ち続けてくださる父なる神様に帰ることができるはずです。なんと幸かなと思います。必ず回復の時が来ます。必ず神の助けがあります。そのような信仰を持ってキリストと共に生きて行こうではありませんか。
最後にルカの福音書15章からの一節を読んで終わります。父なる神の大きな愛を覚えていきましょう。
「そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」
ルカによる福音書 15:3-7 口語訳
(上のバーから聞けない方は青いボタンから)
iPhone