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エリコで盲人であったバルテマイの信仰について考えてみます。そして、このバルテマイに自分たちの信仰を重ねて、イエスに感謝する者、イエスに従う者とさせていただきたいと思います。マルコ10章46-52節を読んでいただきたい。まず、この出来事の文脈的な意味を考えてみよう。イエスの一行はエルサレムに上る途中である(32節)。イエスは弟子たちに、自分は十字架につき、三日の後に、よみがえることを語る(33,34)。以前皆さんにシェアーした事であるが、皆さんは覚えておられるだろうか。マルコ10章45節には、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」とある。贖いの代価とは、奴隷を自由にするために支払う身代金のことを意味する。イエスが、贖いの代価として、自分のいのちを与えるとは、つまり罪の奴隷となっている人間を解放して、神のものとするために支払う身代金を支払ってくださること、それが十字架での犠牲であることがここで明らかにされている。弟子たちは、これらのイエスの言葉を通して、エルサレムでは、大変なことがおこるのではと感じ始めたのではと私は思うが、定かではない。そして、11章からは、イエスの受難週の記事が始まっていく。受難週とは、イエスが十字架につく週のことである。受難週を前にして、バルテマイの癒しだけではなく、彼の信仰が私たちクリスチャンに多くと励ましとチャレンジを与えている。
バルテマイは盲人でこじきであった。毎日道ばたにすわり、多くに人たちに支援を求める人生を長年に渡っておくる。盲人であることのゆえに通常の仕事にもつけない状況が続いている。彼は多くの人が通る通りで、イエスの奇跡やイエスの語られる言葉を耳にすることとなる。彼は、このイエスこそ、ダビデの子としてお生まれになるメシア(救い主)では、との希望を込めた信仰を持つようになる。イエスが近くを通られたのに気づくと、彼は、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」(47)と叫び始める。多く人が彼に静かにするようにとしかりつけるが、聞く耳を持たない。彼はますます、「私をあわれんでください。」と叫び立てた、と表現されている。彼の信仰は、ただただダビデの子として生まれたイエスに、そして、癒しを行うことのできる救い主に目を注いでいる。多くの方を癒すことのできるイエスこそ、旧約聖書が指し示す方であり、ユダヤ人たちが待ち望んできたメシアに違いない。盲人であったバルテマイであったからこそ持つことのできた信仰ではと私は思う。あわれみを求めたこの盲人に対して、イエスはあわれみをもって答えられる。「あの人を呼んで来なさい。」と。バルテマイの反応に目を止めてほしい。50節には、「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。」と書かれている。イエスは彼に聞かれる。「わたしに何をしてほしいのか。」と。イエスは彼の口から彼の願いを聞き、イエスに対する信頼を明白にしようとされる。わたしたちも、口に出して、神に願いを語ることを時に要求されている。口に出すことを通して、内容の確認と神への信仰、信頼が明らかにされることが多いからだ。盲人は答える。「先生。目が見えるようになることです。」(51)と。そして、今日のテーマの言葉、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」との言葉が、イエスの口から発せされることとなる。振りかえると、バルテマイの行動には、彼の信仰が隠されている。マタイ20章29-34節にも同じことが書かれているが、そこには2人の盲人がいたことがわかる。そして、イエスは、かわいそうに思って、彼らの目をさわられたことが明らかにされる。二人の盲人、その一人、特別にバルテマイは、上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た、そのことを生き生きとマルコは明らかにしている。「上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。」とは、バルテマイの信仰、つまり、イエスの言葉に応答する姿を明らかにする表現である。そして、彼は、イエスの癒しを経験し、イエスの新たな弟子として、イエスの行かれる所についていく者とされていく。この盲人の証がどんなに力強いか、考えてほしい。「わたしの目をイエスはあけてくださったのです。このイエスが十字架につき、復活した姿を私はこの目で見ることができたのです。イエスこそ、わたしのために、いや、すべての人の罪を赦すために十字架につき、死なれ、よみがえった唯一の救い主なのですよ。」きっとそのような証をしたのではと私は信じている。
ルカは、この盲人に加えて、エリコでのザアカイの信仰告白の出来事を加えている。興味のある方はルカ19章を開けてみてほしい。イエスがエリコにはいられ、その町をお通りになった。イエスにお会したくても、背が低いザアカイ、群衆にさえぎられてイエスを見ることができない。そして、いちじく桑の木に登り、イエスを一目でも見ようとする。ちょうどその木の下に来たイエスが上を見上げて言われる。「ザアカイよ。急いて下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから。」(5節)と。この言葉でイエスを救い主と信じることのできたザアカイ。この方が、この救い主イエスが、私を受け入れてくださった。それだけで十分である。彼は、イエスに言う。「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します。」と。救い主に出会った取税人ザアカイも驚くような信仰の応答をしている。
さて、皆さんはどうであろうか。みなさんはこの二人のようにエリコにおられたら、十字架に着くためにエルサレムに向かおうとしているイエスにどんな感謝を表すのだろうか。ザアカイは自分の財産の半分をもって、バルテマイは、イエスの弟子になり、イエスについて行くことを通して神への感謝を表している。この二人のように精一杯、神の恵みに答えて行く人生を歩んで行こうではないか、そのように願う。