↓メッセージが聞けます。

今回は、「信仰と忍耐によって約束のものを相続する」(へブル6:12)からのメッセージです。神様の約束は変わらなくても、私たちは、状況に左右されて、目標を見失いやすい者です。このヘブル書の受け取り人も、ローマ帝国内で起こっていった迫害を恐れて、信仰を失う危険性があったようです。しかし、神の約束は変わりません。救われた者を神は見捨てることはなさいません。困難と共に脱出の道を備えておられます。第一コリント10章13節を、ぜひ読んでみてください。「試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」と書かれています。これは、神の約束です。多くの場合、試練は人を成長させるものです。神の約束を信じて、信仰と忍耐によって約束のものを相続する者とさせて頂きたいと思います。それでは、へブル書6章9-20節を読んでいただきたい。

まず、初めに今まで学んできた、この書にある神の約束をいくつか振りかえってみたいと思います。キリストは、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着いておられる(1:3)。キリストは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼされた(2:14)。キリストは私たちのために、大きな叫び声と涙とをもって祈ってくださっている(5:7)。キリストは、神によってメルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられた(5:10)。それぞれに大きな励ましと新たな気づきが与えられる内容であると思います。

さて、今日の箇所では、イエスは私たちの良い業を覚えておられること、次にアブラハムが神に選ばれたように、私たちクリスチャンも神によって選ばれていること、そして、キリストは安全で確かな錨の役を果たされていることが教えられています。詳しく見てみましょう。
6章10節には、「神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」と書かれています。具体的には、イスラエルの貧しいクリスチャン達に多くの海外の教会が献金をもって助けて行ったことが背景にあるようです。今でも、クリスチャンは、国籍や人種を超えて助けあっています。そのような助け合うクリスチャンの姿を神様は喜んでおられます。11節には、「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。」と続いています。この希望は、救いの達成への希望であると私は思っています。9節には、「もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。」とあります。慈愛の心を持つあなた方は、救いを得るためにも、救いの達成の希望を持ち、そのために、なまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するのですよと励ましています。実はそのように生きた信仰の大先輩はアブラハムであったことを皆様もご存じでしょう。
アブラハムは創世記12章1-3節で、神の祝福の言葉を受け取ります。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」(14)と。しかし、15節にあるように、忍耐の末に、約束のものを得ました。と書かれています。創世記を見ると、子供(信仰の子イサク)が与えられるという約束の実現は本当に時間がかかり、大変なことであったことが分かります。また、イサクをささげるという試練も私たちが想像する以上に大変なものであったと思います。しかし、彼は信仰の試練に打ち勝ったのです。神様から見れば、神のアブラハムへの約束の実現と、神の誓いの実現でもあります(17)。神の約束と神の誓いは決して変わらない、そのことに私たちは気づいて行きたいと願っています。

20節には、「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」と書かれています。そこにとは、天の至聖所であり、私たちの先駆けとしてとは、私たちもいつかそこに入ることができることが明示されています。19節には、「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。」とあります。イエスは天の至聖所の中に入り、そこにわたしたちをつなぎとめるために錨を用意しておられることが分かります。錨があるがゆえに大きな船もそこにとどまることができるのです。望みとは、イエスのことであり、このイエスが、天の至聖所で、錨となられ、私たちをしっかりとつなぎとどめてくださる。そう私たち信仰者に語りかけています。

神の選びと救いの約束は決して変わりません。困難があっても、目標を失わないで、信仰と忍耐によって約束のものを相続させていただきたいと願っています。

信仰と忍耐によって約束のものを相続する