今回は、旧約聖書のヨブ記から、神の摂理を信じて、神により頼んで生きる人生について考えて行きたいと願っています。ヨブ42章2節から、「神はどんな計画も成し遂げられる方です。」とのテーマでメッセージを語ってまいります。前回私はヨブの忍耐について言及しました。ヤコブ5章11節には、「あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」と書かれています。ヨブはなぜ自分が苦しまなければならないのか、その理由は分かりませんでした。しかしながら、苦しみを通して、神の摂理の中に自分が生きていることに気づいたのです。摂理とは、神学の用語で、神は前もって見ておられる、との意味を持つ言葉です。愛の神様が、永遠のご計画を、またご配慮を自分の人生に持っておられたことにヨブは気づいたのです。私たちも困難や試練に出会う時、神の摂理に気づき、主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられるとの信仰告白をする者でありたいと願っています。ヨブ記の全体像に触れながら、神を信頼して生きようとするヨブの信仰にも言及して行こうと思っています。それでは、ヨブ記42章1-6節を読んでみてください。

ところで、ヨブはアブラハム、イサクやヤコブと同じ時期、族長時代に生きた信仰者であったようです。神の前に正しく生きようとした信仰者で、家族の中では祭司の役目をはたしていました。1章5節参照。しかし、突然家畜は略奪され、家族も失ってしまいます。彼の悲しみは言葉で表現できるようなものではありません。理由もわからずに、財産を失い、加えて、彼の体も悪性の腫物に打たれ、苦しみのただ中に置かれることとなります。彼の妻との会話が2章9-10節に書かれています。「神をのろって死になさい。」と語りかける妻に向かい、彼は語ります。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」と。1章21節には、地にひれ伏して礼拝し、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と書かれています。ヨブの人生は神の御手の中にある、その信仰を明らかにする彼の信仰告白です。すべてを造られた神のその愛の御手の中に自分の人生がある、そのことを表す彼の信仰告白であると思います。

ヨブ2章11節からは、ヨブの悲しみを聞いて、3人の友人たちが訪ねてきます。最初3人はヨブとともに泣き、その深い悲しみを共にします。彼らは、7日7夜、言葉を発することができなかった。それは、「彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。」と説明されています。悲しみを共にする、共感する、その姿に私は心を打たれます。3章1節で、「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。」と書かれています。本当にこんな苦しみに会うなら生まれなかったほうが良かった。それは、ヨブの心の真実な叫びであったと思います。このヨブの心の叫びを聞いた友人たちは、ヨブの心に寄り添うことができず、それぞれに自分たちの理解をヨブに押し付けようとします。3章から26章まで、ヨブと友人たちの論争が書かれています。勿論友人たちの意見にも真理が含まれています。しかし、罪を犯した者を神は罰する、ヨブも罪の告白をすればヨブの状況を神は回復してくださる。この苦しみはヨブに原因がある、との理解に立って論争が続いてまいります。この友人たちの論争はヨブの心を慰めるものにはならずに、ヨブの心をますます苦しめることになります。ヤコブ1章19節に、「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るのにはおそいようにしなさい。」書かれていますが、このみ言葉をこれらの友人たちにも実行していただきたかったと残念に思います。苦しみの理解は決して一つではありません。イエスは、罪が原因となる苦しみも指摘しましたが、この苦しみ、病気は神の業が表れるためですよと語られたこともあります。ヨハネ9:1-3参照。また、苦しみや試練の目的は私たちを成長させるためであることも教えられています。ロマ5:3-5参照。神の視点を持って苦しみや困難を私たちは捕らえていくことが必要であると思っています。

27-31章までは、ヨブの独白が続いています。ヨブは自分は潔白であり、高潔であることを主張します。そして、32-37章には、ヨブと友人の論争を聞いていた若者エリフが登場します。彼は、ヨブが自分を正しいと主張し譲らない姿勢に疑問を感じ、自分を賢いとしてはいけません。人は神の御業を理解することはできないのですから、と語りだします。38-41章では、あらしの中から主がヨブに語りかけます。神の創造の業、摂理の業をあなたは知っているのかと神様が語りかけます。なぜ苦しまなければならないのかというヨブの疑問には神様は答えていません。私たちの人生でも同じであると思います。天に召されるまで、どうしてなのですかとの質問を持っていてもそれは自然なことであると思います。しかし神は、確かに私たちの苦しみをご存じです。いろいろな形で助けを与えてくださっています。困難や苦しみの中で、詩篇37篇を是非ゆっくりと読んでみてください。神の摂理の業があることに気づかれることでしょう。そして、主に信頼する、主にゆだねる、主の前に静まる、主を待ち望む姿勢を持つことが教えているからです。

42章2-3節で、主に対するヨブの答えがでてきます。「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知れえない不思議を。」と書かれています。主はすべてができる方です。あなたを苦しみや病気からも解放することができる方です。主の愛のご計画があなたの人生にも与えられています。そのように信じて、苦しみの中では祈りを、喜びの中では賛美を忘れない生き方を目指していきたいと願っています。主はヨブに3人の友人のために祈るように導き、その後、ヨブの人生を以前にまして祝福してくださいました。主はすべてができる、どんな計画も成し遂げられる方です。この聖句を信じて苦しみの中でも希望を持って生きて行きたいと願っています。

神はどんな計画も成し遂げられる方です。