↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】
・ところが、そこにハプニングが待っていました。 それは、主イエスが、食卓に着いた後に起こりました。
・「食卓に着いた」と言っても、今、皆さんが、その椅子にお座りになっておられるような、そのような形で座ったというのではありません。 当時の人たちが食卓に着くときは、何と、足を横に投出し・・、片腕を支えに、横に寝たような格好になるのでした。
・丁度、世のお父さんたちが、休みの日に、居間のソファーで体を横にしてテレビを見ているような・・、あの様な格好になる・・これが、当時の食卓に着く姿だったのです。
・その時です。一人の女性が現れたかと思うと・・涙を流しながら主イエスに近づき、そのこぼれる涙で、
主イエスの足をぬらし始め、髪の毛でそれをぬぐい、ついには足に口づけして、そして持って来た香油をその足に塗り始めたのでした。
・この食事会に招待した、パリサイ人シモンは、その様子をしっかり観察していました。 そして、心の中でこう思ったのです。39節「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから・・」
・このように心の中でつぶやいていたシモンに・・、主イエスは、名指しで、きっぱりと、こう言われるのでした。 40節「シモン、あなたに言いたいことがあります。」
・そして、このシモンに、短い譬え話と一つの問いかけをなさるのでした。
・「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は百デナリ。もう一人は五十デナリ。 しかし、彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。
それでは、二人のうち、どちらの方が、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
・この譬え話を、現代風に置き換えますと、大体このような話になります。
・一人の人が、約2500万円という大金を借りていた。 もう一人の人は25万円程借りていた。
二人は一生懸命働いて、返そうと思った。 しかし、二人共、結局、それを返すことが出来なかった。
・そこで、この金貸しは可愛そうに思って、その二人の借金を帳消しに、つまり、無かったことにしてあげた。
・さて、この後・・この二人の内、どちらの方がよりこの金貸しの人に感謝し、この金貸しのことを、大切な人と思いながら生きていくだろうか・・このような譬え話と問い掛けです。
・この譬え話は、主イエスが、よく語られている、「なぞかけ的な譬え話」ではありませんで・・
この譬え話は、誰が聞いても、同じ答えが返ってくると予想される、そういう実に分かり易い譬え話でした。
・ですから、この時のシモンの答えも、やはり予想通りのものだったのです。
・彼はこう答えます。「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います。」
・ところで、この人の、このシモンという名前ですが、この名前は特別珍しい名前ではなく、当時よくある名前でした。
・旧約聖書に出てくるヤコブの、その子のシメオン、このシメオンのギリシャ語名がシモンです。
ですから、このシモンという名前の人はとても多かったのです。どこにいってもこの名前の人がいました。
・つまり、このシモンに語られた譬え話と、その問い掛けといいますのは、特別な人に語られた、というものではなく、いわば、私たちのように、どこにでもいる多くの人々に語られた、そういう譬え話であり、そういう問い掛けであったということが言えます。
②きょうの聖書箇所で、私が最も注目するのは、この譬え話が語られた直後に主イエスが語られた44節の御言葉です。
・この時、主イエスは、彼女の方を向き、そして、シモンにこう言われます。 「この人を見ましたか」
新改訳聖書の最新版の訳では、「この女」ではなく「この人を見ましたか」となっています。
私はこの方がいいと思います。
・ところで、皆さんは、聖書の「ここだ」と思う所に、線を引かれる習慣があるでしょうか。
もしそういう方がおられて、今、書く物をお持ちでしたら、是非、ここにこそ線を引いておいていただきたい所です。 「この人を見ましたか。」ここです。
・では、主イエスは、このシモンに、そして、私たちに、この人の、何を見ましたか、と言いたいのでしょうか・・。 まさか、顔を見ましたか。・・そんなことを聞いている筈はありません。
・ここにいた、この女性は、この文面からすると、どうやら、遊女であったようです。
・遊女とは、性をお金にして生きている人のことです。 確かに、人として、あってはならない、極めて不潔な生き方をしている人たちです。
・では、このような人の、何を見るように、と、主イエスはおっしゃっているのでしょうか・・。
・「このような女の何を見ろというのか!このような女、見るのも汚らわしいわ!」
もしかすると、シモンは、心の中でそんな風に思ったかもしれません・・。
・しかし、主イエスが、よく見てほしかったこと・・それは、この女性の顔とか、身なりではありませんで・・彼女の、・・その、心の中でした・・。
・涙が止めどもなく流れ出て、それを止めることが出来ない・・この人の、心の中にあったものは、いったい何であったのかです・・
・私は思います。 彼女の心の中にあったもの・・それは、先ず・・あふれる感謝であった・・。そう思います。
・この聖書箇所を解説しています、様々な本を読んでみますと・・どんな立場の聖書学者たちも、どんな立場の牧師たちも、同じように・・「彼女の心の中には、感謝があふれていた。」そう解説しております。
皆さんも、きっと同じ様に思われているのではないでしょうか・・。
・確かに、この人の、その涙、それは、主イエス・キリストによってもたらされた、救いの恵みに、自分が与っているということのその感謝。 神さまの特別な哀れみによって神の民に加えられているという感謝・・その現れであったと私もそう思います。
③しかし、それにしても、あまりの涙です。この大量の涙には、その奥に、何かもっと深い意味がありそうです。
もう少し、彼女の心の中を考察してみたいと思います・・。
・「この人を見ましたか」と言われた後、主イエスは、この家に迎え入れられた時の、シモンの、その儀礼的な、その迎え方と・・この女性の、文字通り、感謝に溢れた、真実にあふれた、心からの迎え方との違いについて触れた後、こうおっしゃるのでした・・。
・47節「わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。
赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
・ここで主イエスは、この彼女の、あふれる感謝の、その源について語られたのでした。
・しかし、ここにいたシモンも、そして他のパリサイ人たちも、残念ながら、この御言葉の意味が理解できなかったようです。
・それどころか、彼らの心の内は、こんな感じでした。
「確かにこの女は遊女をやってきた。人として最低の生き方をしてきた。これは大きな罪だ。
その罪が赦されているだと?イエスよ、何を言っているのだ・・」
・しかし、主イエスは、ここで、「大きな罪」と言われたのではありませんでした。
「多くの罪は、赦されている」と言われたのでした。
・「大きな罪だって、多くの罪だって同じではないか」彼らはそう思ったかもしれません。
しかし、この違いを理解している事はとても大事なことです。
・「私たちが罪人である」と聖書が言っている、その意味は・・「私たちは、神との決定的な断絶がある」ということですから・・罪には、大きいも小さいもないのです。罪とは、それが人からはたとえ小さく見えても、大きく見えても、みな神さまとの決定的な断絶を表しています。
・この時、彼女は、・・己の罪、その罪がつくり出す、様々な現象(これを「とが」と言いますが・・)その咎の一つ一つを心の中で悔いていたに違いありません。
・「あのこともそうだ。 このこともそうだ。 それは、私が神と共に生きようとしない、その私の罪の表れだった・・でも、この方は、その多くの咎を生み出してしまった、その私の罪をすべて赦してくださる、と言われる・・」
・そのことを思い、彼女の涙は止まらなかったのでした・・。
④九州の長崎市西坂町という所に、「26聖人記念館」という建物があります。
・これは、1597年2月5日 豊臣秀吉の命によって、無残にも、京都から、この地迄引き回され、そして、殺されていった26人のキリシタンの、その記念碑がある所です。
・この26人の中には、何と、12才、13才、14才の少年がいたそうです。
・14才の少年の洗礼名は、「トマス小崎(こざき)」と言いました。
この小崎少年は、殺される7日前、母親に手紙を書いています。 その手紙を読みますと・・この少年が大変聡明であったことがわかります。
・そして、さらに驚くのは・・その彼の信仰です。
・誰もが、心を激しく揺さぶられる・・そういう信仰です。 彼は正に、文字通り、天国への凱旋を確信している・14才の小関少年の信仰は、そういう信仰でありました。
・しかし、この手紙の内容から、彼には一つだけ心配することがあったようです。 それは、母親の事です。
・「母親のことが心配」と聞くと、母親の健康であるとか、母親の生活であるとか、そういうことを連想する方がおられるかもしれませんが・・小崎少年が心配していたのは、そういうことではありませんでした。
・彼が案じていましたのは・・「このままでは、母は天国に行けないかもしれない・・」そういう心配でした。
・彼の父親は敬虔な信仰者でしたので、この後、殺されても、一緒に天国で再会できる、そう確信していました。
・しかし、母は、天国に行けるか、どうか・・ 彼には確信がなかったようです。
そこで、彼は、殺される直前に、その母親に向けて、正にいのちを注ぐようにして手紙を書いています。
・この手紙の中で、小崎少年は、「痛悔」という言葉を使っています。
この「痛悔」といいますのは・・「心を痛めつつ、心の底から悔いる」という意味です。
・命がけの、数行の手紙ですので、全文を読んでみます。
「神の御助けによってこの数行をしたためます。 長崎で処刑されるためそこへ向かう神父様と私達は、先頭にかかげた先刻分の24人です。(なぜここで、26でなく24人となっているのかは謎です。)
私と父上、ミゲルのことについてはご安心くださいますように。天国で近いうちにお会いできると思います。
神父様たちがいなくとも、 もし、臨終の時、犯した罪の 深い痛悔があれば、また、もし、イエス・キリストから受けた多くの御恵みを考え それを認めれば救われます。
現世ははかなきものですから、天国の永遠の幸せを失わぬように努めてくださいますように。
人々からのどのような事に対しても忍耐し、大きな愛の徳をもつようにして下さい。
私の弟達(洗礼名)マンショとフェリベを未信者の手に渡さぬように御尽力下さい。
私は、我が主に、母上たちのために、お祈りいたします。
私の知人の皆様に宜しくお伝えください。
重ねて申し上げます。
犯した罪について、深く「痛悔」をもつようにしてください。 これが大切なことです。
アダムは神に背いて罪を犯しましたが、痛悔と償いによって救われました。
安芸の国 三原の城から、 1597年1月19日
・ここで、彼は、母親の救いの為に、 その母に向かって、文字通り、いのちを注ぎながら訴えています。
それは・・「痛悔をもつようにしてください。」という訴えでした。
・イエスキリストの身代わりの犠牲と・・私達の痛悔・・・これが、天国に行けるか、行けないかを決めることになる。そのことをわかってほしいのです・・。
彼は、この時、愛する母に、叫ぶように訴えていったのでした・・。
➄私は、きょうの、この聖書箇所を読む度に、この小崎少年のこの叫びを思い出します。
・彼が、母親の救いの為に、いのちをそそぎながら訴えていた、「痛悔」・・
「心を痛めつつ、心の底から、己の罪を認め、悔い改めてゆく」この訴えを思い起こします。
・そして、きょうの聖書箇所に出てくる、この女性こそ、その痛悔を覚えながら生きていた人であった・・そう思うのです・・。
・彼女は、自分の汚れを感じた時、自分が罪人である、などと思わなくてもよかったのです。
次々と言い訳を言って、自分を正当化してもよかったのです。
・遊女といいますのは、人身売買の言わば犠牲者です。 日本でも、何十年か前まで、いろいろな街に遊女たちがたくさんいたようですが・・彼女たちはみな売られてきた人たちでした。
・ですから、この聖書に登場している、この女性も、「私だって、好きでこんなことをやっているんじゃない、貧しさがいけないのだ。 この格差社会がいけないのだ。 封建的な社会がいけないのだ。などと言って、責任転換しても、よかったのです。
・そして、それは、正論でした。・・己を正当化する権利が、彼女にはありました。
・しかし・・、彼女は、己を正当化するような人ではなかったのです。
・そうです。この人は、自分の正論で、現実の自分をぼやかしてしまう・・現実から上手に逃避してしまう・・そういう人ではなかったのです。 この人は、そうではなく・・真正面から、その己の罪と向き合った
のでした。 そういうわけで、この時の彼女の、その心の中は「痛悔」でいっぱいであったのです。
・そして、彼女は、自分が数えている、己の多くの罪は、主イエス・キリストの、憐れみにより、その身代わりにより、 何と・・すべてが赦されてしまったのだ、と確信するに至ったのでした・・。
・ですから、彼女は、主イエス・キリストへの感謝で、もう、涙が止まらないのでした・・。
何という・・純真な、そして賢い心なのでしょう・・。
⑥私たちは、今朝・・主イエス・キリストが、「この人を見ましたか」とシモンに問い掛けていったことを見て来たのですけれども・・
・この問いかけは、言うまでもなく今朝、神さまが、私たち一人一人にも問い掛けていることでもあります。
・私は思います。 この人こそ、己の罪が分かっている人・・この人こそ、救われている事の感謝に溢れている人・・この人こそ、主イエス・キリストを愛してゆく、その力の源を持っている人・・
・この人こそ、私たちの、信仰の先生とすべき人、ではないだろうか・・
・皆さんは、どのようなことを思われるでしょうか・・。
(上のバーから聞けない方は青いボタンから)
iPhone