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イスラム教に改宗した、ある日本人男性のインタビューを見たことがあります。サラリーマンとして何年も働いた後、彼は人生の意味について問うようになりました。いろいろな宗教について調べ始めるうちに、彼はキリスト教とイスラム教に魅力を感じました。イスラム教は、しっかりと決められている規則がキリスト教よりもっとたくさんあります。例えば、一日の礼拝回数。彼は、規則の多いイスラム教に最も強く惹かれました。それは、彼が秩序や規則、詳細なもの、明瞭なものを求めていたからです。これらは必ずしも悪いことではありません。

しかし今日の聖書の箇所を読むと、規則が私たちの生活を不健全にコントロールしてしまうことがわかります。今日のマルコの福音書の箇所で、パリサイ人が再び登場します。パリサイ人は、熱心に宗教上の規則を守るユダヤ教の人々です。

まず、お祈りしましょう。

(マルコ2章18節~3章6節まで読む)

パリサイ人とはどういう人たちでしょうか。何故パリサイ人はイエスに怒ったのでしょうか。イエスは決まりを守ることについてどうおっしゃったでしょうか。これらのことを理解するために、まず、パリサイ人がどういう人たちであったかを学んでいきましょう。

パリサイ人とは誰か?

パリサイ人の「パリサイpharisees」は、ヘブル語で「区別された」という意味です。当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。パリサイ人はユダヤ人としてアイデンティティを維持し、律法に従うことで自らを清く保ちたいと思っていました。

律法に従えば、申命記28章に書かれている神の呪い(外国への捕囚を意味する)をまぬがれ、代わりに祝福(神による国の再建や繁栄を意味する)が与えられると、パリサイ人は考えていました。ですから、彼らの元々の考えはよいものだとわかります。

しかし、長老モーセによって与えられた神の律法を守ることは、簡単ではありませんでした。例えば安息日について、律法は大まかなガイドランしか示していなかったからです。神は言いました。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト20:8)「しかし七日目は、あなたの神、主の安息日である。あなたはどんな仕事もしてはならない。…」(出エジプト20:10) しかしながら、神は何を仕事とするか具体的なことには触れていません。

そこでユダヤ人の宗教学者や長老たちは、もっと具体的な細かい規定を作り出していきました。この補足された規定が慣習となっていって、パリサイ人はそれらを熱心に実行しました。例えば、食事の準備は仕事とみなされ、安息日に料理は禁じられました。それは理解の範囲ですが、補足の規定は更に細かくなっていきました。例えば、安息日に物を運ぶことは仕事とみなされました。ですから、今日でも、正統派のユダヤ教徒の中には、安息日に外出する時は、自分の服以外は何も持ち歩かない人がいるそうです。財布も、家の鍵も、赤ちゃんも、です。

何故パリサイ人はイエスに憤慨したのか?

さて、何故パリサイ人はイエスに反発したのでしょうか。それは、イエスが人々に律法を無視してよいと教えていると、彼らが勘違いしたからです。パリサイ人にとって、そのような教えは、イスラエルという国を危うくするものでした。また、イエスが自らをダビデ王、更には神に例えたことにも憤慨しました。例えば2章19節で、イエスはご自分を「花婿」、28節では「安息日の主」と述べて、自らを神になぞらえた時です。

預言者イザヤによれば、神はご自身を花婿に例え、花嫁であるイスラエルの民を喜んでいます。(イザヤ62:5)ホセア書では、神は夫に例えられ、不誠実な妻との結婚生活を建て直そうとしていると書かれています。(ホセア2章)

パリサイ人は花婿の例えは見過ごせましたが、イエスが自分を安息日の主と呼んだことに対しては、絶対に我慢できませんでした。イエスが「私が安息日を作ったのです。安息日に何が正しいか決めるのは私です」と暗に言っていたからです。

このような理由から、パリサイ人はヘロデ党と結託してイエスを殺そうとしたのでした。ヘロデ党はローマ帝国と友好関係を望むユダヤ人のグループだったので、パリサイ人はヘロデ党のことが大嫌いだったのですが。

断食と安息日

今日の箇所でパリサイ人は、特に二つの点においてイエスに反対しました。それは断食と安息日についてです。しかしイエスによれば、パリサイ人は神と聖書を重要な点で誤解していたのです。

まずパリサイ人は、イエスの弟子たちは断食をしていないと批判しました。パリサイ人は、週に二度断食をすることで知られていました。しかしモーセの律法では、年に一度の贖罪(しょくざい)の日と呼ばれる祭日にのみ、断食が命じられていました。

今日の箇所で、イエスは花婿の例えを使って答えました。マルコ2章19節で「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。・・・」結婚式では、ごちそうを食べてお祝いすることが正しいのです。逆に断食することは適切ではありません。つまりイエスは、「あなたがたは、花婿であるわたしと共にいるのです。ですから祝いましょう。喜びましょう。」と言っていたのです。

断食や悲しむにふさわしい時ももちろんあります。例えば、イエスは2章20節では「しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。」と言っています。この箇所で、イエスは自分が逮捕され、十字架で死ぬことを暗示しています。

結婚式の祝宴について触れることで、イエスはパリサイ人の断食の仕方を批判していたのかもしれません。マタイ6章にありますが、断食のことで人々にすごいと思わせるために、わざと体がきつくて苦しいふりをしていたパリサイ人がいたらしいのです。そのことにイエスは気付いていました。ルカ11章で、イエスは、パリサイ人たちが心の清さを軽んじ、外見をよく見せることに気を使っていると非難しました。(ルカ11:39) つまり、行動よりもっと大切なのは、神に対する内面、心の姿勢であるとイエスは指摘したのです。

次にパリサイ人は、イエスの弟子たちが安息日に食べ物を集めているのを批判しました。パリサイ人は食べ物を集めることを仕事とみなしたからです。イエスはマルコ2章25節で、聖書のダビデ王の話を「…読まなかったのですか」と答えました。危機の最中にひどくお腹がすいてしまったダビデが、レビ人の祭司に特別用意される聖別されたパンを食べたという箇所です。

イエスは27節でこのように結論づけて言いました。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」

つまり、神は人間に恵みを与え、祝福するために律法を与えたのです。律法は盲目的に従うものではなく、弊害を与えたり、物事を損なってしまうようなやり方は間違いです。これはマルコ3章4節のイエスの言葉に、はっきりと表されています。「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」

古いものと新しいもの

イエスはパリサイ人に、律法を放棄するよう望んでいたのではありません。実際のところ、イエスの倫理的な基準は、パリサイ人の律法の解釈よりずっと厳しいものでした。例えば、律法の定義では、姦淫は他人の配偶者と性的な関係を持つとことですが、イエスは、情欲を抱いて他人の配偶者を見ることだけでも姦淫だと言いました。

イエスはむしろパリサイ人に問いかけたのです。パリサイ人が正しく理解しているのは神の律法なのか、それとも神ご自身なのかと。マルコ7章8節でイエスはこう言っています。「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」と。

パリサイ人の意図はよいものでしたが、その意図を実行していく方法があまりよくありませんでした。パリサイ人の神の律法の理解は狭いもので、彼らは結局、律法を正しく実行することだけに必死になりすぎてしまったのです。彼らはいくつかの律法を守ることに心をとらわれ、貧しい人々を憐み、手を差し伸べるといった、神が大切になさることを疎かにしてしまいました。(ルカ11:42)

ですから、パリサイ人はイエスの教えを認めることができなかったのです。それはまるで、古いワインの皮袋が新しいワインを入れると破れてしまうように、また青い布に赤いワッペンを縫い付けても色が合わないように、イエスの教えとパリサイ人のシステムとは相いれるようなものではなかったのです。パリサイ人は考え方を一新しなければいけないと、イエスは例えを使って言われたのだと思います。パリサイ人は根本的に変わる必要がありました。

私たちの5つのレッスン

さて、今日の私たちが学ぶべきレッスンは何でしょうか。5つ挙げたいと思います。

第一に、神の律法は私たちに祝福を与えるためのものであることをしっかりと心に留めましょう。私たちが盲目的に律法を守ることを、神は望んでおられません。特に律法が弊害をもたらすようなやり方を、神は望んでおられないのです。

どの律法を守り、どう従うべきかを知るのにどうすればよいでしょうか。こういった質問に答えるには、私たちは継続的に聖書を学んでいる必要があります。聖書はルールブックではありません。聖書は物語です。神のこと、そして神がキリストを通して私たちの世界を再建してくださっていることが書かれています。律法も含めて、聖書のいろいろな箇所が、どう聖書全体の物語に整合しているかを理解することが大切です。聖書全体の物語と神のご性質を理解しないで、神の律法を理解することはできません。

第二に、「律法の精神」は律法そのものより重要です。つまり、その律法の背後にある原理や目的を理解しようとしなければなりません。そうすることによって私たちは律法をより正しく解釈することができます。

安息日を例に挙げると、「仕事をどのように定義するのか」という問いかけに終わってしまうのは十分ではありません。神が安息日の律法を与えた時、神は細かい指示を与えませんでした。何故なら、何百年もの間で、人間の仕事や休息の仕方が変わるのを神はご存知だったからです。休息するには何が役立つかを考えるのは、私たちに委ねられているのです。

「安息日の意味とは何だろう」と問いかけてみることが大事です。安息日で大切なことは、仕事を避けることではなく、休息を取ることです。律法は「週に一日、仕事をしない日を持ちなさい」と言います。しかし、律法の精神はこう言っています。「定期的に休みましょう。休息は神の創造のリズムの一部です」と。

また、「休むことの目的は何か」と問いかけてみることで、更に考えを掘り下げることができます。休息は、更なる労働のために体にエネルギーを補給するためだけのものでしょうか。出エジプト記では、私たちが休息を取るように造られたのは、創造主を思いめぐらすためだと教えています。創造主ご自身も休まれました。

出エジプト20章11節には、主は六日間で全てのものを造り、「…七日目に休まれたからである。…」と書かれています。働くのを止めて、ご自分が造った世界をシンプルにお喜びになった神のやり方を、私たちも安息日を通して経験するのです。

第三のレッスンは、律法は重要だけれども、人格や交わりがもっと大切だということです。そもそも律法は何故必要なのでしょうか。神の律法は私たちを守るだけではなく、私たちの人格を形成するものです。わたしたちは神を愛し、隣人を愛する者にならなければなりません。(マタイ22:37-40)これは、とても大切なポイントだけれども、パリサイ人が見落としている点だとイエスは指摘しました。

第四に、神は、私たちが神と共にいる時に喜んでほしいと願っておられるということです。イエスはご自身を花婿に例えました。聖書では、私たちは彼の花嫁であると表している箇所があります。(エペソ5:25-32) 新婚の夫婦のように、お互いを喜び合って、神と共に生きていくように私たちは造られました。

第五に、神は私たちに休息を与えておられます。イエスはご自分を「安息日の主」と言いました。イエスは休息の主なのです。マタイ11章28節でイエスは言います。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 イエスは決まりをたくさん与えるのではなくて、「来て休みなさい」と言ってくださっています。

休みを受け取るための方法はいくつもありますが、その一つは、安息日を自ら練習してみることです。私たちの環境はそれぞれ違いますから、安息日もそれぞれ違うでしょう。でも原則は、私たちの必要を与えてくださる神を信頼することです。私たちは、思い切り神と人生を楽しむことができます。活動を止めるというよりも  今休むことで、かつてのエデンの園がどのようなものであったか、思いを馳せることができるのではないでしょうか。そうすることで、私たちは永遠の休息とはどんなものか、学んでいけると思います。

結び

最後になりますが、クリスチャンライフとは、一連のルールや一連の信条に従うことだと、私たちが一面的に捉えることがないように願っています。クリスチャンとして生きていくこと、それは神との交わりを育んでいくこと、そして周りの人を祝福し、愛と思いやりを持って生きていくことです。お祈りしましょう。

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パリサイ人、安息日、断食(マルコ2章18節~3章6節)