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長く学んできましたが、私がエゼキエルを取り上げるのは今日で最後になります。聖所から流れる命の水の流れを今日はテーマとしてとり上げます。神殿の敷居から流れ出て、地域に命を与える川の流れの幻です。神殿の幻の一部として、その後半に、この幻が描かれています。

エゼキエル40章から48章まで、神殿の幻が語られます。イスラエル民族が神に選ばれた理由、それは、イスラエルの民が聖なる国民、祭司の王国となる、そのためです。参照、出エジプト19:6。神殿の幻は、その使命をもう一度イスラエルの民に確認させる内容だと私は思います。まず、エゼキエルが見た神殿の幻、その特徴は、第一に、「主の栄光は神殿に満ちていた。」(43:5)と言うことです。一度神によって裁かれたイスラエルの民、この民に神の栄光がもう一度戻って来るのです。そして、回復と祝福された民の歩が始まるのです。

エゼキエルが見た神殿の幻の全体を見てみましょう。その神殿には、外庭があり中庭があり、中庭の真ん中に祭壇が作られ、その祭壇に面して本堂が作られ、その中に聖所と至聖所がある。そのような構造からなる神殿の幻です。それ以外にも祭司の部屋があり、台所も付いている、そのような神殿の構造になっています。祭司として神に仕えようと願うエゼキエルにとって、実に理想的な神殿の構造です。それでは、この幻に従って捕囚から戻って来た民が神殿の再建をしたのでしょうか。残念ながらそうではありません。むしろ、この幻は祭司であった彼に、祭司の使命を忘れることがないようにとの意味合いを持った幻であったことが読み取れます。さらに、エゼキエルはこの幻を通して、捕囚とされ希望を失った民に、もう一度自分たちの信仰の中心である神殿を再建するようにと励まし、チャレンジしているのです。そのような意味を持つ幻であったと言えます。

神殿の幻の特徴の第一は、主の栄光の回復でしたが、第二は、祭壇が神殿の中心に据えられていることです。祭壇が神殿の中心に据えられる、これは新約につながる大きな意味を持っています。救い主の十字架での贖いが神殿での礼拝の中心であることを預言しているからです。十字架での贖いこそが、私たちの信仰の中心となることを意味します。みなさん、もう一度問いかけてみてください。私たちが今救われて新たに歩んでいるのは、イエスを信じる信仰によってです。イエスによって私たちは罪を赦され、神との新しい関係に生かされています。私たちの信仰の中心、それはイエスの十字架です。十字架での贖いを、私たちは信仰を持って受け入れ、罪の赦しをいただき、救われて歩むことができるのです。エゼキエルが見た神殿の幻、それは十字架での贖いが信仰の中心になって行くことを指し示しています。

エゼキエルは、幻の中で神殿の設計図やその働きを40章から46章にかけて見るのですが、47章では、神殿から溢れ出る水の流れを見ることとなります。イエス・キリストは、自らを神殿に例えて、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、3日でそれを建てよう。(ヨハネ2:19)」と語っておられます。ヨハネは、「イエスはご自身のからだの神殿のことを言われたのである。」と、このイエスの言葉を解説しています。ヨハネは、イエスこそ、神が永遠に住まわれる神殿であり、その神殿がイエスの復活によって建てられたと理解したようです。まさにイエスを信じる者は、イエスの新たな神殿に加えられ、豊かな祝福をいただくのです。

また、この祝福の水の幻は、イエスを信じる者に注がれる聖霊の祝福の幻であるとも言えます。イエスは、サマリアの女性に、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14)」と言われました。さらに、ヨハネ7章38節で、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れて出るようになる。」とイエスは語っておられます。続く39節の前半には、「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」とあるのです。新約のその視点から見るときに、神殿から流れる水、それは御霊の祝福を表していると理解できます。それでは47章を見てみましょう。

エゼキエル47章1節には、「彼(み使い)は、私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が、神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。」と書かれています。神殿から、東の方へ、つまり死海に向かって水が流れていく幻です。死海とはあまりにも高い塩分のために、魚も、貝類も住むことができない湖です。文字通りの死の海です。私の友人は死海で仰向けに浮きながら、本を読んだことがあるようです。死海は、海の塩分の約6倍の塩分を含んでいるため、ただ浮くだけで、泳ぐことが困難な湖です。しかし、この死の海にも神の奇跡の技が起こるのです。み使いは、川の流れをエゼキエルに確認させます。都から千キユビト、つまり450メーターほど離れたところでは足首まで、2千キユビト(900M)ではエゼキエルの膝まで、さらに3千キユビト離れると水は腰に達した、と4節にあります。5節には、「彼がさらに1千キユビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。」とあるのです。渡ることのできない川となった。それは、大きな川、水の流れを意味します。そのように、神の祝福が神殿から溢れ出しています。このように次第に深くなっていく様子、それは豊かな神の恵みが、神殿から溢れて周りに及んでいく、そのことを示す幻です。

6、7節には、「彼は私に、『人の子よ。あなたはこれを見たか。』と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。」とあります。この水は多くの木、つまり多くの生命を生み出しているのです。そして8節の後半には、「海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。」とあります。そこの水とは死海の水です。9節には、「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。」とあります。神殿から流れる水は、荒地を緑の牧場に変えるのです。そしてそこに生き物が溢れるようになります。しかし残念にも、その水が流れない所は、「その沢と沼とはその水が良くならないので、塩のままで残る。」と11節にあります。神の祝福が及ぶ所、また及ばない所があるのです。私たちもキリストから離れて生きる決断をする時に、神の祝福から離れてしまうとの戒めのように私は思います。

12節では、「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」とあります。なぜ、それほどに川のほとりが命にあふれているのでしょうか。それは、その水が聖所から流れ出ているからであると説明しています。聖所、そこは神の臨在がある所だからです。参照、黙示録22章1節2節。神の臨在のある所には、命にあふれ、新たな実りを生み出すのです。

エゼキエルは神を礼拝する場所、そこから溢れ出る祝福の様子を見たのです。神の聖所から川が流れている。それは、命が溢れる神の祝福です。私たちもそのように、聖霊の満たしを受けることができます。先に言及しましたが、イエスは、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と語られました。絶えることのない喜び、疲れた者を癒し、また命にあふれさせてくださる神の働きなど、聖霊は私たちに多くの祝福をもたらすことができるのです。私たちもイエスを信じる者として聖霊の助けをいただき、命にあふれる体験をしたいものです。

皆さん、いかがでしょうか。私たちの礼拝、キリストの神殿である教会の交わりから多くの祝福があふれて行くことを信じていますか。礼拝の喜びを一人一人が見出して、多くの希望や喜びを私たちの周りに流して行こうではありませんか。

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「その水が聖所から流れ出ているからである。」エゼキエル書47章12節