↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
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さて、過ぎ越しの祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
イエスは夕食の席から立ちあがって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは彼に言われた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
イエスは言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいのではありません。」
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
① きょうの聖書箇所の冒頭、13章1節のところを見ますと、ちょっと気になる表現が出てきます。
1節の最後のところです。「イエスは、彼らを最後まで愛された。」ここです。
・ここの所を訳した、翻訳聖書を読みくらべてみますと・・それぞれ随分と違った訳になっています。 それだけ、ここは、意味深な御言葉です。
・そうです。この一節は、ここから始まってゆく13章以降の、イエス・キリストの、その言動全体を、一言で表そうとしている、そういう御言葉なのです。
・丁度、オペラの、序曲の様です。これから起こる出来事を、私たちに前もって暗示している。 そういう御言葉です。
・これから起こることについて、一言で表そうとした言葉です。実に考え深い御言葉ですが・・それは、それとしまして・・
② その先の2節からは、大変有名な「洗足」の記事になっています。
・「この、イエス・キリストが、弟子たちの足を洗ったという出来事は知っている。」
そうおっしゃる方も多いと思います。
・クリスチャンではない方でも、一つの教養としてのこの出来事を知っておられる方は、少なくありません。
・この洗足の出来事は、主イエスが、十字架を目前にして、いわゆる「最後の晩餐(ばんさん)」をされたときでした。
・この晩餐(ばんさん)のとき、主イエスが次のようなことを始められたことを聖書は伝えています。→ 4節5節 「イエスは夕食の席から立ちあがって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」
・このような行為は、当時、奴隷のする仕事でした。
・つまり、主イエスは、この時、まるで下人のように、奴隷の一人のように、弟子たちの汚れた足を次々と洗い始めたのです。
・当時の道路事情、履物事情を考えますと・・弟子たちの足・・これは、不潔極まりない足だったと想像できます。
・いつも同じ、使い古したサンダルのような履物を履いていたことでしょう。
中には、家畜の糞などを踏んでしまった、そのために変な匂いがしている・・、そのような不潔な足であったかもしれません。もしかすると、魚の目ができていたり、水虫のような皮膚病の者もいたかもしれません。
・いや、そういう外側の問題よりも、実は・・彼らの内側、心の中も、けして清潔とはいえない状態であったのです
・この出来事の直前、弟子たちは、「自分たちの中で、誰が一番偉いのか・・」そんな恥ずかしい議論をしていたということがわかっています。 誰が上で、誰が下なのか・・実に肉的議論です。
・そうです。彼らは、外側だけでなく、内側も、汚れに満ちていたのです。その弟子たちのその足を主イエス・キリストが洗い始めたというわけです。
・この主イエスの姿は、弟子たちにとって、非常に印象深く、生涯決して忘れることのない姿であったと思います。
・しかし、驚いているそんな彼らには、かまわず、主は、正に奴隷の姿になって、彼らのその不潔な足を次々と洗ってゆかれたのでした。
・そうです、これは・・「彼らの汚れを洗い落とす・・彼らの罪をすっかりぬぐい去ってしまう・・」そういう、「罪からの救い主として、その姿」を、彼らの心に刻み込んだそういうときであったわけです。
・この時、あの弟子のペテロは、その様子をじっと見つめていました。そして、ついに自分の番がやって来たとき、彼は、思わず、こう言い出したのです。
・6節~9節「イエスがペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。
『主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。』
イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
・ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」 イエスは答えられた。
「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
すると、ペテロは慌てて・・「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
③ ところで・・今回この有名な洗足の出来事を記している聖書箇所から、説教するにあたり、私が心がけましたのは、なんとなく今まで通りに読んで、今まで通りの事だけを感じて、只、オーソドックスに、今まで通りのお話しをしてゆく、ということにならないように・・ということでした・・。
・そこで、私は、ブドウ作りの方々が、まったく新しい革袋を持ってくるように・・
「初めて、ここを読む人のように、真っ白な心で読んでゆこう。」そう思いながら、ここを、もう一度ゆっくり読み直してみました。
・すると、その中に、今までは、さほど大事とは思わなかった、ある言葉に、極めて大事なメッセージがあるということに気が付かされたのでした。
・それは、きょうの聖書箇所の最後11節の所です。ヨハネの福音書が、この出来事を解説している所です。 11節の最後、「イエスは、ご自分を裏切るものを知っておられた。」ここです。
・主イエス・キリストは、この時、誰がご自分を裏切るということを知っておられた、というのでしょうか?
・皆さんは、誰が裏切る者だと、イエスさまは知っておられた、とお思いでしょうか・・。
・ここにおられる何人かの方は・・「そんなの、イスカリオテユダが裏切る。と知っていたに決まっているではないか・・」そうおっしゃるかもしれません・・。
・若いころ、私も・・あんまり深く考えずに、そう思い込んでおりました。
・しかし・・はたしてそうなのでしょうか?
・もし、イエスさまは心の中で・・ユダこそが自分を裏切る・・そう知っていた・・ということであれば・・ここの表現は、ちょっと違っていたのではなかと思うのです。
・11節は、「イエスは、イスカリオテのユダが自分を裏切る、と知っていた。」と、ヨハネの福音書は、語っていません。
・確かにユダは、裏切りました。 それはそうです。 ですから、勿論、イスカリオテのユダが裏切ると知っていたことは間違いありません。 そのことはこの後の記事でも、かなり詳しく書かれていますから・・。
・では・・イエスさまが知っていた、裏切る者とは・・彼だけのことを指しているのでしょうか?・・
・イエスを裏切ったという人物、というと・・聖書を、もう一歩深く読んでおられる方は・・もう一人の人物を思い浮かべるに違いありません。
・それは今、この11節の直前に、イエスさまとひどくずれたやりとりをしていた人物です・・。そうです。ここにいて、最後に足を洗ってもらおうとしていた、ペテロでした。
・今私たちが見ている、このヨハネの福音書13章の、その最後、38節をご覧ください。
・イエスさまがペテロに言っている言葉です。→「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。
・つまり、主イエスは、この後、このペテロが、人々の前で、はっきりとご自分を裏切ることを知っておられたのです・・。
・イスカリオテのユダこの男は、いわば・・内密に裏切りました。一方、ペテロは・・、公然と、鶏の声の伴奏付きで、はっきりと、その口で裏切ったのでした。
・ユダは、もしかしたら・・自分では裏切ったつもりはなかったかもしれません・・。ユダは・・イエスさまを、宗教指導者たちに引き合わせて、正面から対決することになってゆけば、イエスさまが勝利するに違いない、そういうことを思っていたかもしれません・・。おそらくそうだと思います。
・一方、ペテロの裏切り方は・・まったく言い訳の付かない・・誰がどう見ても・・あからさまな公での裏切行為だったのです。
・では、ユダとペテロの二人だけが裏切り者だ、と知っていた・・ということなのでしょうか・・
④話が聖書から離れますが・・
・昨年の秋・・久しぶりに・・「六本木交差点」に立つ機会がありました・・。
その日は、すがすがしい秋晴れの日でした。確か45年ぶりだったと思います。その交差点に立った時、私は・・「あれえ・・随分違うぞ・・」そう思ったのでした・・。
・何が違っていると感じたのか、と言いますと・・ それは・・空気でした。
1970年代の六本木は・・非常にくすんでいたのです。 ひどい大気汚染でした。
・その時、私は、その昔の街の姿と、その頃の、自分の心境を思い出したのです。
・その頃、私はいつもこう思っていました。「まったくひどいもんだ・・なんとかならないのか・・」
この大気汚染。誰がいけないのか。政治家は何をしているのだ。」こんな心境でした。
・つまり、私以外の人間が原因だ。そう思っていたのでした。しかしです。考えてみると、当時の自分自身も、実は、毎日のように車を運転していたのです。
・ですから、私自身もこの大気汚染の加害者の一人であったのです。しかし、その私自身が原因であったことにはまったく気づいていませんでした。目の前にあるひどい汚れ、その汚れと、自分とは何も関係もない。そう思っていたのでした・・。
➄私たちは、聖書に「イエスはご自分を裏切るものを知っておられた。」という所を読みます時に、・・どうでしょうか・・意外と多くの人が、裏切り者とはユダのことではではないだろうか・・ そういえば、ペテロも裏切った一人と言えるかもしれないなどと・・自分以外から裏切り者を捜していくのではないでしょうか・・
・勿論、ユダやペテロは裏切った者たち、そう考えるのは間違っている訳ではありませんが・・ そういう読み方をしているだけでは、聖書の本当のメッセージが私たちに届かない・・私はそう思うのです。
・そうではなくて・・「そうだ、他でもない、自分自身もまた、彼らと同じように裏切る者の一人なのではないだろうか・・」そういうへりくだった思いをもって、聖書を読んでゆきますときに、主イエス・キリストのメッセージが私たちに届いてくる・・私はそう思うのです。
・そうです。聖書の読み方で大事なことの一つは、「聖書は、他でもない、自分自身に語っているのだ・・」 そういうスタンスをもって読んでゆくことです。
⑥ここで・・内密に、イエスさまを裏切っていったユダについて、もう一度考えてみたいのですが・・
・このイスカリオテのユダは・・自分が裏切者であるのか? そのことをイエスさまに直接聞いたことがありました。 それは、マタイ26:25です。 → 朗読
・ルター訳のドイツ語聖書や、英語の聖書を読んでおられる方は、何の問題もありませんが・・今読みました日本語の新改訳聖書を読んでゆきますとき、誤解が生じやすいと思います。
・この日本語の聖書をそのまま普通に読んでゆきますと・・
・多くの方が、この時のユダとイエスさまは、既に険悪な関係になっていて・・そして、ユダが、「裏切る者というのは、まさか私の事ではないでしょうね?」と聞いたとき・・主イエスは「いやそうだ。」と冷たく言い放ったのだった。そんな風に理解してしまうかもしれません。
・しかし、ここは、実は、そういうやり取りではかったのです。この時、実は、イエスさまは、ユダに、「あなたは言った。」そう言われただけです。
・つまり・・主イエス・キリストは、この時・・ユダが、「裏切る者は、自分ですか?」ということを自ら言い出した・・その自分の言ったその言葉を、自分の心に響かせなさい・・このことをユダに伝えたのでした。
〇もう一つ、ユダについて考えていただきたいことがあります。・・それは・・きょうのヨハネの福音書13章で、弟子たちがイエスさまに足を洗ってもらった事が書かれてあるのですが・・
・この時・・イエスさまは、ユダの足も洗ったのでしょうか?・・それとも、ユダの足だけは洗わなかったのでしょうか・・皆さんは、どう思われるでしょうか・・。
・ユダの足は洗わなかった、とは書いてありません。 この文脈からして・・ユダの足もイエスさまは洗われた、と考える方が自然です。
・また・・そうであるからこそ、 私は・・この聖書箇所の一の所に、イエス・キリストの愛の、その極みが語られている・・そう思うのです。
⑦では・・「イエスはご自分を裏切るものを知っておられた。」と・・11節に書かれてありますが・・誰が裏切る者だ・・と、イエスさまは知っておられた・・というのでしょうか・・
・そうです。 ユダは勿論・・ペテロも・・そして、足を洗ってもらったはずの他の弟子たちも・・
・そして・・他でもありません・・主イエス・キリストは、私たち一人一人も、裏切る者であるそのことを知っておられたのでした。
・そうです。主は・・知っておられながら・・私たちが洗礼を受けることをお赦しになり・・そこでの彼らの誓約を、そのまま受け留めてくださった・・そこに、・・愛の極みがある・・
ここは、そういう愛の極みが記されている・・、そう読んでゆかなければならないと私はそう思うのです。
・今週も、己の胸を叩きつつ、足を洗われた者の一人として、神さまの清めの御業に身を任せてゆきたいと思います・・。
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