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今回は、ハバクク書からの3回目のメッセージです。「しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」とのテーマで2回ほど学んで参りました。ハバククは祈りを通して、ユダ国の将来とバビロン帝国の将来を神から教えていただきました。神を愛し、また隣人を愛すると言う聖書の教えから大きく離れてしまった南ユダとバビロンへの神の裁きをハバククは知ることとなります。

私たちも、独裁的な国々が起こる現状の中で、為政者が神からの知恵をいただいて、賢く、民の生活を守り、福祉を行う政治ができるように、神に祈っていく必要があります。ハバクク3章では、ユダの将来とバビロンの将来を垣間見たハバククが、神にもう一度祈りを捧げています。ちょうど私たちが、主イエスに戻ってきてください、と神に求める祈りのようです。神の時が早く訪れるようにとの祈りです。そして、この祈りは詩篇の歌のように会衆の祈りの形式を取っています。

ハバクク3章1節には、このように書かれています。「預言者ハバククの祈り。シグヨノテに合わせて。」このシグヨノテに合わせてとの表現は、よくわかっていません。シグヨノテとは「迷う」との意味です。通常のリズムから離れて、悲嘆のために、迷いの心を持ちながら祈る祈りであると理解できるのではと思います。なぜなら、神の大きな裁きがこの祈りの答えとして書かれているからです。私たちも神がすべての人間を正しく裁かれる日が来る、そう信じる者ですが、神の裁きの現実を詳しく知る事は不可能です。恐れや悲嘆の思いをもって、神の大いなる裁きを受け入れるのです。恵によって救われた私たちです。他者を裁くような事は、本当に気をつけなければなりません。罪人はいつか神によって裁かれるのです。その裁きの現実に触れて、悲嘆や悲しみをもって、そのリズムの中でこの歌が歌われるのです。そのような迷いを伴う祈りであると理解できるのではと思います。

2節には、「主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。」と祈っています。南ユダが裁かれる、またバビロンも裁かれる、そのことを理解したハバククは、神よ、そのことが近いうちになされるようにと祈るのです。同時にあわれみを忘れないでくださいと祈る、これがハバククの神への願いです。神のあわれみによって私たちは救われていく、その姿勢を教える祈りです。

3、4節には、「神はテマンから来られ、聖なる方はバランの山から来られる。その尊厳は、天をおおい、その賛美は地に満ちている。輝きは光のよう。ひらめきはその手から放たれ、そこに力が隠されている。」と書かれています。神が裁きのためにこの地上に来られるのです。神が来られる様子を、尊厳、賛美、輝きとの言葉で表現しています。テマンとは、エドムにある町であり、バランとは、シナイ半島の東部にある地域です。かつてイスラエルの民がエジプトから解放されて、約束の地カナンに入りましたが、イスラエルの民を導いた神がもう一度地上に訪れるのです。そして、5節に、疫病や熱病がうしろに従うとあります。神の大いなる裁きが地上を覆うのです。

6節には、「神は立って、地を計り、見渡して、諸国の民を震え上がらせる。とこしえの山は打ち砕かれ、永遠の丘は低くされる。しかし、その軌道は昔のまま。」とあります。地を計るとは、神が世界を征服されたことを示しています。神の裁きのゆえに、山々も砕かれ、永遠の丘も低くされるのです。神はその大いなる力を持って、バビロンをも滅ぼされるのです。永遠の丘、エルサレムも人が住めない所となるのです。南ユダやバビロンだけではありません。7節には、クシャンの天幕とか、ミデヤンの地の幕屋とありますので、神の裁きが、アフリカのエチオピアからアラビア砂漠の町々に住む民の上にも及ぶのです。その広がりが表現されています。また8節には、「主よ、川に怒りを燃やされるのですか。・・それとも、あなたの憤りを海に向けられるのですか。」とあります。ちょうどエジプトからイスラエルの民が解放された時のように、紅海を2つに分け、大いなる神の力が示されたその出来事を思い起こします。12節では、神の怒りを、「あなたは、憤って、地を行き巡り、怒って、国々を踏みつけられます。」と表現しています。南ユダもバビロンも神の怒りによって滅ぼされるのです。そのように、ハバククは、神の怒りが諸国の民に及ぶことを預言しています。

ところが、13節の前半では、裁きの他の面も明らかにしています。そこには、「あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます。」とあります。神様はご自分の民を特別に愛しておられます。そして油注がれた者と表現されているご自分の民を救われるのです。私たちは特別に神から愛され、救われる一人一人なのです。私たち信仰者を迫害する者を神はいつか裁かれます。神の裁き、それは他方、信仰者の解放の時であるとも理解できます。

南ユダの裁き、またバビロンの裁きは本当に厳しいものです。16節には、「私は聞き、私のはらわたはわななき、私のくちびるはその音のために震える。腐れは私の骨のうちに入り、私の足もとはぐらつく。」とあります。それは恐怖に満たされる日です。神の裁きは私たちの想像以上のものです。私のはらわたはわななきとは、想像以上の恐れや不安を表現しています。体の中心からわきあがる恐れです。しかしそのあとで、「私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を私は静かに待とう。」とあるのです。静かに待つ、これは神を信じる者のなせる技です。私たちの人生に何が起ころうとも、私は静かに待とうと神への信頼を寄せています。神は私たちの人生を握っておられる方だからです。バビロンによって踏みにじられるイスラエルの地は、17節にあるように、花も咲かない、また実もみのらず、食物を生産しない、荒れ果てた荒野のような土地となるのです。しかし18節で、「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」と言うのです。大バビロンが滅ぼされるその日は必ず来ます。神に敵対する悪の力が裁かれる日が必ず来るのです。神の正義は必ず地上に訪れるのです。その日を私は静かに待とうと、ハバククは語っています。

信仰を持って私たちは今精一杯生きています。私たちの周りには、争い、憎しみ、苦しみなど、様々な出来事が起こっています。「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」との信仰告白をハバククはしています。なんて素晴らしいことかと私は思うのです。キリストを信じる私たちは、心も体も主にゆだねて、このイエスは私たちの人生をしっかりと導いてくださるとの信仰をもって生きようではありませんか。

前回取り上げましたが、ヘブル書11章21節には、「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。」と書かれています。このヤコブは、その時、「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」(創世記48:15)と祝福の言葉を始めています。「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」本当に素晴らしい信仰の告白であると私は思います。困難に私たちが直面する時、静かに、信仰を持って、神の恵を信じて生きようではありませんか。「私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を私は静かに待とう。」との姿勢を持つ者でありたいです。加えて、「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」との信仰の告白を大胆にしようではありませんか。
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「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」ハバクク3章18節