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今日は、ミカ書に入ります。預言者ミカは、イザヤと同じ時代に活躍した預言者です。ミカとは、「誰がヤハウェ(主)のようであろうか」との意味を持つ言葉の短縮形です。実に美しい名前です。私は、最近バッハの教会カンタータのコンサートを何度か聞きに行くようになり、このミカ書を取り上げた教会カンタータ第45番に出会いました。まずバッハが取り上げたミカ書の言葉を紹介します。6章8節の言葉です。そこには、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」とあります。この神のみ言葉を、バッハは美しいメロディーを添えて、人々に分かち合っています。主は何をあなたに求めておられるのか。主はあなたに告げられました。それは正義を行い、恵みを愛し、へりだって、あなたの神と共に歩むことですよと。この聖句は、旧約聖書の中の宝、宝石のような輝きを持つみ言葉であると私は思っています。正義を行い、神からの恵みを愛する。そしてへりくだって、私たちの神と共に歩む、それがこのミカ書全体に流れているテーマです。

それでは、その内容に入ってみましょう。1章1節に、「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェテ人ミカにあった主のことば。これは彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である。」とあります。ミカはイザヤと同じ時代に活躍し、サマリヤの滅亡を預言し、その預言の通りに、北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされることを目撃します。続いて、同じように偶像に心を奪われ、悔い改めることのない南ユダの民に向かって神の裁きのメッセージを語りかけることとなります。

2節には、「すべての国々の民を。聞け。地と、それに満ちるものよ。耳を傾けよ。神である主は、あなたがたのうちで証人となり、主はその聖なる宮から出てきて証人となる。」とあります。ミカは、ちょうど裁判所の中で裁判官が判決を下すように、そのような背景を用いて神のみ旨を伝えています。神である主は、あなたがたのうちで証人となるとあるのですから、最も良く民の心の有り様をご存知である神が正しい判決を下すこととなります。その判決は以下のようです。

最初に、サマリヤが神によって裁かれることが明らかにされます。1章5節には、「これはみな、ヤコブのそむきの罪のため、イスラエルの家の罪のためだ。ヤコブのそむきの罪は何か。サマリヤではないか。ユダの高き所とは何か。エルサイムではないか。」とあります。 1度も神のもとに立ち返ることのない北イスラエル、その首都であるサマリヤは偶像礼拝の町になり、人々の心も堕落をしてしまったのです。そして、その影響が南ユダ国にも及んで来ています。6節には、「わたしはサマリヤを野原の廃墟とし、ぶどうを植える畑とする。わたしはその石を谷に投げ入れ、その基をあばく。」とあります。サマリヤは神の厳しい裁きに合うのです。その理由に、7節で、「そのすべての刻んだ像は打ち砕かれ、その儲けはみな、火で焼かれる。・・」とあります。刻んだ像とは偶像のことで、儲けとは、遊女の儲けを指しています。多くの神殿娼婦が偶像の前で、体を売り、お金を稼いでいる。そのような忌々しい姿が明らかにされています。神は、そのような国民に正しい裁きをなされるのです。

そして、9節では、「まことに、その打ち傷はいやしがたく、それはユダにまで及び、わたしの民の門、エルサレムにまで達する。」とあります。ミカは神の裁きはサマリヤにとどまらずに、エルサレムにも及ぶことを預言しています。本当に指導者が堕落をし、自己中心になった国はみじめです。たとえ、それが以前は神の民であり、選ばれた民であっても、創造主なる神を忘れた民になってしまったのです。本当に残念な状態です。南ユダ国も悔い改めて神に立ち帰らなければ、サマリヤと同様な結末を迎えるのです。

2章では、指導者たちの悪巧みが明らかにされています。彼らは、他人の畑をほしがり、他人の家々を取り上げ、他人の相続地をゆすり取っているのです(2節)。自分の権力のゆえに、民の幸せを願うのではなく、自分の欲に支配されて生きているのです。そのような現状が明らかにされています。現在のイスラエルの指導者にもこのみ言葉を真摯に考えていただきたいと私は願っています。3節で、「それゆえ、主はこう仰せられる。見よ。わたしは、こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。あなたがたは、首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ。」とあります。北イスラエルだけではなく、南ユダも神の思いから離れた指導者が上に立っていたのです。

しかし、2章の特色は、そのような状況であっても、イスラエルに残りの者を神は残しておき、神ご自身がその先頭に立って、残りの者を用いて回復の業を起こすと言うメッセージです。それが2章12節、13節で明らかにされています。「ヤコブよ。わたしはあなたをことごとく必ず集める。私はイスラエルの残りの者を必ず集める。わたしは彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように1つに集める。こうして人々のざわめきが起ころう。打ち破る者は、彼らの先頭に立って上って行き、彼らは門を打ち破って進んで行き、そこを出て行く。彼らの王は彼の前を進み、主が彼らの真っ先に進まれる。」とあるのです。確かに神の厳しい裁きがサマリヤにもエルサレムにも起こります。しかし、残された者がいて、神ご自身が彼らの先頭に立って、いつか回復の時が来る、と語りかけています。皆さん、私たちも残りの者です。日本ではキリスト者は少数です。しかし、今の状態はどうであれ、私たちの先頭に立って歩んでくださる主イエスがおられるのです。

3章1節で、「わたしは言った。聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公義を知っているはずではないか。」とあります。公義とありますので、神の律法に基づいた正しさです。正義も同じような意味を持ちますが、公義との言葉にはその背景に神の律法があります。モーセの十戒には、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。人を殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない、などと神のみこころが示されています。この教えに基づいた正しさ、それがここでの公義です。

私たちの神様は、8節にあるように、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ちた方です。しかしながら、3章9節に表現されているように、当時の指導者は真逆の歩みをしていたのです。9節には、「これを聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公義を忌みきらい、あらゆる正しいことを曲げている。」とあります。社会の上に立つ者が、神の律法から離れ、正しい行いをから離れてしまっていたのです。同様に、民衆も皆、指導者の歩みに習ったのです。彼らは何のための神に選ばれた民なのでしょうか。聖なる国民、祭司の王国となるはずのイスラエルの民、彼らはその使命とは真逆の行いをしていたのです。そのような現実が、ミカが生きたエルサレムにはあったのです。

3章12節には、「それゆえ、シオンは、あなたがたのために、畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる。」とあります。ミカは南ユダ国が滅ぼされ、廃墟となった姿を目撃したのではありません。しかし、全てをご存知なる神がミカを通してこのような裁きのみ言葉を語られています。

さあ皆さん、神はあなたに何を求めておられるのでしょうか。6章8節に再度目を止めてみましょう。「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」とあります。皆さん、もし自分の行いが間違っているならば、また、神の教えから離れてしまったのならば悔い改めて参りましょう。神を心の中心に迎え入れましょう。そして、正しい行動をしていきましょう。確かに、あなたが正義を行うことは神の御心です。最近は、教会で、マネジメントの大切さが語られるようになりました。私たちクリスチャンは、社会の出来事、また、世界の出来事にもっと関心を持ち、社会正義の実現のために働けたらと私は願っています。そのためにはマネジメントは大切です。私たちの置かれた状況で一人一人が正義を願い、祈り、行っていく、このような生き方を神は求めておられるのです。力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ちた方、それが私たちの神だからです。

また加えて、イエスを信じ、神の恵みの中に生きること、これも神の御心です。また、謙遜になって、神と共に歩むこと、これも私たちの歩むべき姿です。ぜひ、正義を行い、恵みを愛し、へりくだってあなたの神とともに歩む、そのような人生を目指して行こうではありませんか。次回は、私たちの救い主イエスの恵みを知る、その聖書箇所に目を注いでいきたいと思っています。

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「主は何をあなたに求めておられるのか。」ミカ書6章8節