(音声メッセージは第一礼拝後にアップする予定です。)

この前、5歳くらいの娘が不意に、「パパ、私はいつ洗礼を受けられるの?」と聞いてきて、びっくりしました。

ご存知の通り、この質問の答えは教会によってまちまちです。娘から洗礼の質問を受けて、子どもや幼児の洗礼についての記事を読むようになりました。それはたまたま、この礼拝メッセージの準備をしている時でした。今日の箇所で、イエスは子どもと神の御国(みくに)に入ることについて教えています。イエスが子どもについて何と語っているか、マルコ10章から見ていきます。そして後で、娘の話の続きを話したいと思います。それではまずお祈りしましょう。

(マルコの福音書10章13節~27節を読む)

<子どもと御国>(10章13節~16節)

当時、イスラエル人は子どもの頭に手をのせて祝福する習慣があって、普通は父親がしていました。

今日の話の中では、癒しや、また単に祝福を受けさせるために、親が子どもをイエスのもとに連れてきていました。イエスの弟子たちは、イエスの邪魔になるからと、親たちを叱りました。何故ならイエスにはもっと大事なするべきことがあると、弟子たちは考えていたからです。弟子たちはマルコ9章でイエスがなさったことを忘れていたようです。9章37節にあるように、イエスは一人の子どもを連れてきて、弟子たちにこう言いました。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」つまり、子どもは大人と同じように、私たちが心を向ける存在であり、そして神もお心を向ける存在でもあるということです。

イエスは弟子たちを激しく叱ります。(10:14) イエスがいきどおることは聖書の中ではほとんどありません。イエスは言いました(10:14-15)「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

ここで三つ、押さえておかなければいけないポイントがあります。第一に、社会的な階層において、子どもが最も下の階層であるのが普通だった時代に、イエスは子どもたちを喜んで迎え入れ、神の御国はこのような者たちのものですと言ったことです。

第二に、イエスは子どもたちに、イエスを通して神の御国に入ることができるから、「イエスのみもとに来なさい」と言ったことです。他の福音書で、イエスは「わたしのところに来なさい」と言っています。そしてこの言葉の後には約束が続きます。例えば、マタイ11章28節でイエスは、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言っています。

ヨハネ5章39-40節では、イエスはパリサイ人にこう言っています。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」

ヨハネ7章37-38節では「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とイエスは言います。

私たちはイエスを通してのみ、神の御国に入ることができ、安らぎと永遠の命を得て、渇きを満たすことができるのです。

第三に、神の国に入る一つの条件は、子どものようにそれを受け取ることです。私の娘は、多くのことを親である私に頼っています。娘は5分おきに「パパ、ママ」と助けを求めて叫んでいるように思います。こういうふうに依り頼むこと、そして助けを求めることこそ、ある意味、私たちがなすべきことだとイエスは言います。神の国は、自分の貧しさ、乏しさを知る人々に与えられる贈り物だからです。(マルコ10:15、エペソ2:8、第二テモテ1:9)

でも、神にシンプルに依り頼むことが難しいこともあります。金持ちの若者にとってそうであったように。

<金持ちの若者>(10章17節~27節)

この金持ちの若者の目的や信仰は誠実なものでしたが、ある意味で、子どもと対照的な存在といえるでしょう。

イエスを心から敬いながら、その金持ちの若者は尋ねました。「永遠の命を受けるには何をしたらよいでしょうか。」

私たちの多くは、どうしたら最高の人生を送れるか、知りたがっているものです。少なくともよい人生の最後を迎えたいと思っています。その金持ちの若者もそれを望んでいました。彼は人生を大切に生きようとしており、善良な人物ではあったのですが、彼にはまだ何か欠けていると、イエスは思われました。彼は富を持っているがゆえに、イエスが差し出してくださる天からの贈り物を、自由に受け取ることができなかったのです。富か御国のどちらを選ぶかと聞かれた彼は、富を手放し、十分な備えを与えてくださる神に委(ゆだ)ねることができませんでした。

金持ちの若者が立ち去り、イエスは23節でこう弟子たちに言っています。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」

富が悪いとイエスは言っているのではありません。実際、イエスのたとえ話や教えの多くは物を所有することやビジネス、投資の価値を間接的に肯定しています。むしろ問題はお金や物に心がとらわれすぎて、それに依り頼んでしまって、神によって満たしていただこうとしなくなることです。そのような状態では、神に全てを委(ゆだ)ねることなどできっことありません。

(マタイ6:24、第一テモテ6:10、へブル13:15)

25節でイエスは更に言います。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」 弟子たちはこの言葉にショックを受けました。何故なら、当時の多くのユダヤ人は、富は神の祝福によるものと信じていたからです。(申命記28:1-14、詩編25:12-13)

神に最も気に入られていると思われていた人々が御国に入れないのなら、御国に行ける望みのある人は他にいるのだろうか、一体誰が救われるというのか、とユダヤ人は思ったのです。

イエスは27節で答えます。「…どんなことでも、神にはできるのです。」 神の御国に入ることは、ご褒美としてもらえるものでも、権利として主張するものでもありません。それは、神の善意と力にのみよるものであって、贈り物として神から差し出されるものです。そしてもし御国が神からの私たちへの贈り物ならば、ただ子どものようにそれを受け取ることが正しいのです。

<私の娘のこと>

時々寝る前に、私は娘に子ども用の聖書を読んであげています。ですから、洗礼について、娘は聖書のお話だったり、日曜学校とか、子供向けのキリスト教テレビ番組を通して知っています。でも、娘が洗礼を受けたいと言ってきた時には、やはり驚きました。私は、「イエス様のことを信じている?」と尋ねました。すると娘は大きな声で、「うん!」と答えました。

でも私はそのまま鵜呑(うの)みにはできずに、「『信じる』という言葉の意味を知ってるの?」と尋ねました。

娘は少し考えてから、「それってママやパパの言うことを聞くっていうようなことでしょ。そしてママやパパの言うことをするっていうようなことでしょ。」と答えたのです。イエスを信じることが、自ら進んでイエスに従うことだと、娘が理解していることに、私はまたもや驚きました。

別の晩に娘は、「パパ、どうして私のお友だちは教会に来ないの?」と聞いてきました。私は答えました。「それは、お友だちはイエス様を信じていないからだよ。」

「どうしたらお友だちはイエス様を信じるようになるの?」と娘は言い、私は「誰かがイエス様のことを教えてあげなきゃいけないね。」と答えると、娘は「OK、私がイエス様のことをお友だちに教えてあげる!」と言ったのです。

もちろん、キリスト教の信仰について、また世の中について娘が知らないことはたくさんあります。でも、だからと言って、娘が洗礼を受け、友だちにイエスのことを話すのを私は止めてよいのでしょうか。

子どもの洗礼についていろいろと読むだけでなく、伊野牧師や様々な教派のクリスチャンの友人たちに意見を聞き、相談もしました。すると大きく二つの意見がありました。一つは、「娘が大きくなるまで待つ」というものです。もう一つは「今、受洗しても構わないけれども、娘が大きくなったら、救いの確信を示す堅信を行い、信仰の告白をするべきだ」というものです。

今日は、この二つの意見を理由づける詳細まで掘り下げないことにします。結局、マルコの今日の箇所は受洗についてではありませんし。とにかく、子どもについてイエスがおっしゃった御言葉が、私がどういう態度を娘に取るべきか、影響を及ぼしたので、是非皆さんに伝えたいと思いました。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」とイエスは言いました。このイエスの御言葉で一つ疑問が浮かびました。それは、子どもの信仰の確信は大人に劣るものなのか、子どものイエスに対する忠実さや従順さは大人に劣るのか、という疑問です。もし娘がイエスを信じていると言ったら、現実味や一貫性が十分じゃないからという理由で、娘の信仰を退けてしまってよいのでしょうか。

「受洗については、ちゃんと大きくなってから話し合おう。今はまだ理解するには幼すぎるから。」と言うべきでしょうか。子どもの信者の受洗は一定の年齢まで待たなくてはならないとは、聖書のどこにも書かれていません。

私は、娘の信仰をちゃんと受け止めて、娘が信仰というものをもっと学ぶために導いてあげることが大事だと思っています。

洗礼は、結局、成長と従順の長い信仰の旅路における一つのステップに過ぎません。私は十代の頃に受洗しましたが、神や聖書、キリスト教について、ちゃんと理解できていないところもたくさんありました。

まだ幼い娘が、受洗してイエスに従いたいと思っていることを私は褒めたいと思います。我が子もそうですけれども、誰かがイエスに従いたいというのを止められるでしょうか。イエスは今日(こんにち)物理的に私たちと共にいらっしゃるわけではありませんが、イエスのもとに行く方法を私たちに残してくださっています。洗礼は、イエスのもとに行く一つの方法です。イエスの御言葉が私に語りかけました。「娘がイエスのもとに行くのを妨げてはならない」と。

<結び>

イエスの御言葉をもう一度言います。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」

幼い子どもの受洗に賛成するかどうかは別にして、ここには大切なレッスンがあると思います。それは、子どもは神にとって、とても大切な存在であるということです。そして子どもらしさというものから、私たちは価値あることを学ぶことがあるのです。

確かに子どもは未熟かもしれません。しかし神の目から、子どもは尊い資質を持っています。大人になるにつれて、私たちは、進んで受け入れる心、神に委(ゆだ)ねる心を失っているかもしれません。引き続き教会として、若い子どもたちがイエスを知ることができるように、導いてあげられるよう祈っていきたいと思います。そして幼い子どものような信仰を通して、神が私たちに語りかけてくださるようにも祈っていきたいと思います。

それでは祈りましょう。

全知全能の神様 あなたが与えてくださったひとり子は、清き乙女より生まれ、

私たちの罪を背負ってくださいました。恵みによって新しく生まれ、あなたの子どもとされた私たちを、どうか日々聖霊によって新しくしてください。

神と聖霊と共におられる私たちの主イエス・キリストに、誉れと栄光が世々限りなくありますように。イエスキリストのお名前によってお祈りします。

 

「子どもたちを来させなさい」(マルコの福音書10章13~27節)