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今日から何回かに分けてホセア書を取り上げます。私は、この書の大きなテーマは、神の無条件の愛、無条件の赦しだと思っています。神から離れてしまった北イスラエルに対して、私はあなたを愛しているよ、そして私のところに戻ってきなさいと、神は語りかけるのです。どんなに失敗した人生であっても、神を信じる者には、いつか回復の時が起こるのです。いつか北イスラエルの民は神の恵みを知るようになるのです。皆さんはどうでしょうか。本当に神様は素晴らしい方です。神の恵みは私たちに十分です。そのような体験をしても、状況によって私はもう神を信頼できません。神は私を見捨てましたと、いとも簡単に口にし、時には神から離れた歩みをすることはないでしょうか。きっとあなたも、神様以外の他の何かに目がくらみ、神を無視した人生を送る、そんな時もあったのではと思います。

それではまず、時代の背景を見てみましょう。ダビデ王、そしてソロモン王の時代の後、イスラエルは2つの国に分裂します。北イスラエルと南ユダ国です。北イスラエルの10部族を率いたのがヤロブアム王です。彼は自分についてきた民が南のエルサレムに上って、神の神殿で礼拝をすることを妨げようと企てます。彼は、北イスラエルの領土の北部と南部の町に金の子牛の像を造り、そこを新たな礼拝の場所としたのです。第一列王記12章 28、29節には、「そこで、王は相談して、金の子牛を2つ造り、彼らに言った。『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。』それから、彼は1つをベテルに据え、1つをダンに安置した。」とあります。北イスラエルの民は残念ながら金の子牛を礼拝する民となり、誰1人として誠の神に立ち返る王が起こらなかったのです。そのような中で、神は特別に預言者エリアやエリシャを送って、この北イスラエルで幾つか神の業をおこし、誠の神に立ち返るようにと語り続けたのです。これが歴史の背景です。誠の神を知っていながら、他の偶像の神を礼拝する民を、姦淫をおかしている民としてホセアは表現しています。

ホセア書1章1節の後半には、「イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ペエリの子ホセアにあった主のことば。」とあります。このヤロブアムは、北イスラエルを始めた王と同じ名前ですが、違った血筋から起こった者でヤロブアム2世と呼ばれ、北イスラエルの領土を拡大した王であったようです。このような中でホセアは神のみ言葉を述べ伝えていくのです。それも自分の家族の苦しみを通して、姦淫の女を愛するという試みを通して、神の赦しの大きさを理解することとなります。

2、3節にはこのように書かれています。「主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。』そこで彼は行って、ディプライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。」と。自分の家族の苦しみ、葛藤を通して、ホセアは神の愛を理解し、他者を赦すことの難しさを知るようになるのです。ところで、私はこのホセアの状況の中に自分を当てはめた時に、本当にこの預言者は厳しい現実の中に立たされたのだとの深い悲しみを覚えます。

それでは1章の内容に入ります。 4節で、ホセアに最初に生まれた子にイズレエルと名づけます。実はこのイズレエルとはイスラエル北部の豊かな田園地方の名で、この所で悲しい出来事が起こったのです。まずアハズ王はイズレエル人ナボテからぶどう畑を買おうとするのですが、そのリクエストが拒まれると、この王の妻イゼベルが策略を設けて、この者は神と王を冒涜したとの嘘の証人を立てて罪のないナボテを殺してしまうのです。詳しくは第一列王記21章にその内容が書かれています。このアハズ王の家系を断ったのが、エフーで、このエフー王の子孫がヤロブアム2世なのです。神は、アハズ王の子孫も、エフー王の子孫もその罪の故に裁かれるのです。

6節には、「ゴメルはまたみごもって、女の子を産んだ。主は彼に仰せられた。『その子をロ・ルハマと名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ。』」とあります。ロ・ルハマとは愛されないとの意味です。2番目の子には愛されないと名付けたと言うのです。しかし、それは逆説であり、後に愛される者と呼ばれるようになります。7節には、「しかし、わたしはユダの家を愛し、彼らの神、主によって彼らを救う。しかし、わたしは弓、剣、戦い、および馬、騎兵によって彼らを救うのではない。」とあります。北イスラエルと違って、南ユダ国では神への礼拝が継続され、神を信頼して歩もうとする民が多くいたのです。それゆえ、彼らはその信仰によって救い出されるとの意味が込められています。北イスラエルと南ユダとの現実的で、霊的な対比です。

3番目のお子さんは男の子で、9節には、主は仰せられた。「その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。」とあります。ロ・アミとは、私の民ではないとの意味です。ホセアは自分の子供の名を通して北イスラエルの現状を伝えます。しかし、神から離れ去った民であっても、神の心は彼らと共に歩むことです。

2章23節には、「わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたは私の民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう。」とあります。ホセアの3人のお子さんの名よって示された審判が終わり、神の赦しのゆえに、神とイスラエルの契約関係が完全に回復する新たな時代が来るとの預言です。

1章10節には、「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、『あなたがたはわたしの民ではない。』と言われた所で、『あなたがたは生ける神の子らだ。』と言われるようになる。」とあります。この10節は、イスラエルの回復の預言です。その回復の預言の一部は、捕囚となった民がイスラエルに戻る時に成就します。また他の一部は、イエス・キリストがイスラエルの地に立たれる時に成就します。イエスは、決してサマリアの民を嫌ってはおられませんでした。サマリアの民にも愛を注ぎ、福音を伝えたのです。皆さんも真っ昼間の熱い時間に水をくみに来たサマリアの女性にやさしく語りかけるイエスの姿を思いだすでしょう。参照ヨハネ4章。そして、回復の預言のもう一つの面は、終末の時にキリストが戻ってこられる時に、この預言が成就するのです。10節に書かれている、「『あなた方は生ける神の子らだ。』と言われるようになる。」とは、回復の時がいつか来て、彼らは神の民となるとの約束のみ言葉です。

そして、11節には、「ユダの人々とイスラエルの人々は、1つに集められ、彼らは、ひとりのかしらを立てて、国々から上って来る。イズレエルの日は大いなるものとなるからである。」とあります。かつてイズレエルの地で大きな悲しみが起こりました。罪のない者の血が流されたこと、またエフーによってアハズ王の家系が断たれたことなど、良くないイメージの場所です。しかしこのイズレエルの地は豊かな農作物を生み出す場所であったのです。イズレエルとは、「神は種を蒔く」との意味です。神の祝福が溢れる場所として、もう一度回復の時が来るとの約束のみ言葉で1章は終わります。

さて、今日は1章を取り上げましたが、ホセアの苦しみはこれからも続きます。しかし神の愛は変わらないのです。神の愛を信じる者として、姦淫の妻のために祈り、もう一度自分のところに戻ってくるように祈る者となるのです。私たちも神の無条件な愛を信じて、悔い改めて、神のもとに戻って、神と共に生きる者でありたいと願います。神の赦しを経験し、私たちの家族を、また、隣人をも赦して生きる、そのような人生を目指して生きたいものです。

<em>「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
マタイによる福音書 5:43-48 口語訳</em>

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「あなたがたは生ける神の子らだ。」ホセア書1:10