[:ja]↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音) 【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】 はじめに 私の結婚式は9年前だったんですが、その時の食事会がとても思い出深く、心に残っています。結婚式の披露宴(晩餐会)に大勢の親戚や友人が一堂に会したことは、とても嬉しかったです。披露宴には100人とか150人集まってくれました。このくらいの人数はマレーシアの結婚式では普通です。レストランが食事を準備している間にも、私たちは誰を呼ぶかとか、どこに座ってもらうかなどを決める作業をまだやっていたのを思い出します。 さて、イエスが5千人の群衆に食べ物を与えた話を、皆さんきっと聞いたことがあると思います。5千人を取りまとめるのも大変でしょうが、それだけの人数の食事を用意するなんて想像もできませんね。でもそれが起こったと、今日の聖書箇所、マルコ6章には書かれています。 この5千人の人に食べ物を与えたという話は、私たちの持っているものや能力を神は何倍にも増やすことができるというメッセージでよく聞かれます。あるいは、弟子たちがイエスの御力をもっと信じてゆだねることができるように、イエスが弟子たちにチャレンジしたというテーマでも話されます。 でも、今日のメッセージでは、私は違うアプローチでお話ししたいと思います。私が強調したい点は、ご自身の民を大切にするイエスが、イスラエルの羊飼いであると明らかにしたという点です。そしてイエスが5千人に食べ物を与えたことは、聖書の3つの晩餐を暗示している点、更に何故、3つの晩餐がクリスチャンとして喜ばしいのかをお話します。聖書を読む前に、まずお祈りしましょう。 (マルコの福音書6章30節~44節を読む) 羊飼い 宣教で忙しい時間を過ごした後で、イエスと弟子たちは少し休みたいと思いましたが、多くの群衆が押しかけてくるので、なかなか休むことができませんでした。マルコの福音書には男性が5千人いたと書かれています。ですから女性や子どもを合わせると、群衆の数は5千人よりもっと多かったということです。 39節と40節で、人々は組、グループに分かれて座っていたと書かれています。グループという言葉のもとのギリシャ語は、symposiaという言葉が使われています。symposiaという言葉には、にぎやかな晩餐会でゆったりとテーブルを囲んで食事をしながら食事し、お酒など飲み物を飲んで、おしゃべりするゲストの人たちというイメージがあります。マルコの福音書にはこのsymposiaというギリシャ語が使われているので、イエスが人里離れたところで、晩餐会を開いたというイメージが浮かんでくるんですね。 イエスの心は、休息を邪魔する群衆に怒るのではなく、彼らを助けようと動きました。何故なら彼らがまるで「羊飼いのいない羊」のように見えたからです。(34節) 旧約聖書で「羊飼いのいない羊」という表現は、イスラエルに神を敬う指導者がいなかったことを表しています。例えば、第一列王記22章やゼカリヤ書10章、イザヤ40章、エレミヤ31章、エゼキエル34章などでこの表現が見られます。この多くが預言で、その中で神は人間のリーダーによる搾取を許さずに、散り散りになった羊を集め、イスラエルの民を導くと約束しておられます。(イザヤ40:11、エレミヤ31:10、エゼキエル34:5-15参照) イエスが羊飼いであるという考えを更に強調するために、マルコは39節で、イエスは人々を「青草」、緑の草の上に座らせたと細かに描写しています。イエスが羊飼いであるという考えと、イエスが人々を「青草」の上に座らせたと描写することで、マルコは詩編23篇のイメージを持たせたかったのだと思います。詩編23篇には「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、…」とあります。(詩編23:1-2) よい羊飼いはその羊たちにとって、よい場所へ導きます。羊たちが休息を取れる場所に。食べることができて、飲むこともできて、養われる場所へと導きます。 聖書の他の箇所では、イエスはご自分をイスラエルの「よい羊飼い」と言っています。(ヨハネ10章) つまり、イエスはご自分を神と同等に置き、イエスのなす奇蹟によって、ご自分の御言葉の真実を証ししました。人里離れた場所で, イエスはお腹をすかしている群集に食べ物を与えました。それはまるで、昔、神がイスラエルの民に荒野(あらの)で食べ物を与えた旧約聖書にある奇蹟のようです。5千人に食べ物を与えるという奇蹟は、イエスが神の力を持っていること、そしてあらゆる人々の必要に応えてくださるお方であることを表しています。いろいろな点でこのことは私たちを励まし、導いてくれますが、ここで三点、挙げたいと思います。 第一点。それは、もし私たちが持っているものや能力がわずかであっても、イエスに捧げるなら、神はそれを何倍にも増やすことができるということです。これは真実です。けれども、もし私たちが教会に気前よく献金するなら成功を得て、お金持ちになれますよというなら、それは真実ではありません。今日の聖書箇所を引用して、こういうことを教える説教者が中にはいるんですよ。ディダケー(十二使徒の教訓)と呼ばれる初期のキリスト教の文書には、人々に教えることでお金を取る偽(にせ)預言者に気をつけなさいと、次のように書かれていました。「もし説教者がお金を求めるなら、彼は偽預言者です…、その者の言うことを聞いてはなりません。…しかし、もしその説教者が困っている人に与えなさいと言うのなら、誰にもその説教者を裁かせてはなりません。」 第二に、神は私たちの霊的な健康と物理的身体的な必要の両方を心配してくださっているということです。私たちの体は神による貴い創造物であり、私たちが自分の体を大切にしなかったり、虐(しいた)げたりすることを神は望んでおられません。同様に私たちは、いろいろなやり方で周りの人々を思いやっていかなければなりません。 福音を伝える必要なんてない、ただ貧しい人に対する経済的な支援や社会活動をすれば十分と言うクリスチャンもいます。しかしイエス様が模範を示してくださったように、私たちは福音を伝え、そしてよりよい世界にするために実際的な活動をしていく、その両方を担っていくべきだと思います。私たちは人々の必要に対して、全体を見渡すような視点を持つことが大事ではないでしょうか。 第三に今日の箇所が教えてくれていることは、イエス様の驚くべき愛です。イエスは、ご自分が疲れている時も憐みの心を持っておられました。つまり、イエスは私たちに対して非常に忍耐強くおられるということです。私たちは神は何となく非難めいた存在と考えてしまうことがありますが、神は本当に私たちを温かく受け入れてくださるお方です。願わくは、私たちもイエス様のような憐みの心を持ちたいものです。憐みの心や思いやりを持っているからといって、いつも誰かの頼みに「はい、いいですよ」と言わなくてはいけない、ということではないと思います。「できません」と答えても、思いやりの心を示すことはできます。どのような態度を示すかが大切だと思います。イエス様のように人を愛することは決して簡単ではありません。ですから私たちは聖霊の助けが必要なのです。 3つの晩餐 宣教で忙しい時間を過ごした後で、イエスと弟子たちは少し休みたいと思いましたが、多くの群衆が押しかけてくるので、なかなか休むことができませんでした。マルコの福音書には男性が5千人いたと書かれています。ですから女性や子どもを合わせると、群衆の数は5千人よりもっと多かったということです。 39節と40節で、人々は組、グループに分かれて座っていたと書かれています。グループという言葉のもとのギリシャ語は、symposiaという言葉が使われています。symposiaという言葉には、にぎやかな晩餐会でゆったりとテーブルを囲んで食事をしながら食事し、お酒など飲み物を飲んで、おしゃべりするゲストの人たちというイメージがあります。マルコの福音書にはこのsymposiaというギリシャ語が使われているので、イエスが人里離れたところで、晩餐会を開いたというイメージが浮かんでくるんですね。 イエスの心は、休息を邪魔する群衆に怒るのではなく、彼らを助けようと動きました。何故なら彼らがまるで「羊飼いのいない羊」のように見えたからです。(34節) 旧約聖書で「羊飼いのいない羊」という表現は、イスラエルに神を敬う指導者がいなかったことを表しています。例えば、第一列王記22章やゼカリヤ書10章、イザヤ40章、エレミヤ31章、エゼキエル34章などでこの表現が見られます。この多くが預言で、その中で神は人間のリーダーによる搾取を許さずに、散り散りになった羊を集め、イスラエルの民を導くと約束しておられます。(イザヤ40:11、エレミヤ31:10、エゼキエル34:5-15参照) イエスが羊飼いであるという考えを更に強調するために、マルコは39節で、イエスは人々を「青草」、緑の草の上に座らせたと細かに描写しています。イエスが羊飼いであるという考えと、イエスが人々を「青草」の上に座らせたと描写することで、マルコは詩編23篇のイメージを持たせたかったのだと思います。詩編23篇には「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、…」とあります。(詩編23:1-2) よい羊飼いはその羊たちにとって、よい場所へ導きます。羊たちが休息を取れる場所に。食べることができて、飲むこともできて、養われる場所へと導きます。 聖書の他の箇所では、イエスはご自分をイスラエルの「よい羊飼い」と言っています。(ヨハネ10章) つまり、イエスはご自分を神と同等に置き、イエスのなす奇蹟によって、ご自分の御言葉の真実を証ししました。人里離れた場所で, イエスはお腹をすかしている群集に食べ物を与えました。それはまるで、昔、神がイスラエルの民に荒野(あらの)で食べ物を与えた旧約聖書にある奇蹟のようです。5千人に食べ物を与えるという奇蹟は、イエスが神の力を持っていること、そしてあらゆる人々の必要に応えてくださるお方であることを表しています。いろいろな点でこのことは私たちを励まし、導いてくれますが、ここで三点、挙げたいと思います。 第一点。それは、もし私たちが持っているものや能力がわずかであっても、イエスに捧げるなら、神はそれを何倍にも増やすことができるということです。これは真実です。けれども、もし私たちが教会に気前よく献金するなら成功を得て、お金持ちになれますよというなら、それは真実ではありません。今日の聖書箇所を引用して、こういうことを教える説教者が中にはいるんですよ。ディダケー(十二使徒の教訓)と呼ばれる初期のキリスト教の文書には、人々に教えることでお金を取る偽(にせ)預言者に気をつけなさいと、次のように書かれていました。「もし説教者がお金を求めるなら、彼は偽預言者です…、その者の言うことを聞いてはなりません。…しかし、もしその説教者が困っている人に与えなさいと言うのなら、誰にもその説教者を裁かせてはなりません。」 第二に、神は私たちの霊的な健康と物理的身体的な必要の両方を心配してくださっているということです。私たちの体は神による貴い創造物であり、私たちが自分の体を大切にしなかったり、虐(しいた)げたりすることを神は望んでおられません。同様に私たちは、いろいろなやり方で周りの人々を思いやっていかなければなりません。 福音を伝える必要なんてない、ただ貧しい人に対する経済的な支援や社会活動をすれば十分と言うクリスチャンもいます。しかしイエス様が模範を示してくださったように、私たちは福音を伝え、そしてよりよい世界にするために実際的な活動をしていく、その両方を担っていくべきだと思います。私たちは人々の必要に対して、全体を見渡すような視点を持つことが大事ではないでしょうか。 第三に今日の箇所が教えてくれていることは、イエス様の驚くべき愛です。イエスは、ご自分が疲れている時も憐みの心を持っておられました。つまり、イエスは私たちに対して非常に忍耐強くおられるということです。私たちは神は何となく非難めいた存在と考えてしまうことがありますが、神は本当に私たちを温かく受け入れてくださるお方です。願わくは、私たちもイエス様のような憐みの心を持ちたいものです。憐みの心や思いやりを持っているからといって、いつも誰かの頼みに「はい、いいですよ」と言わなくてはいけない、ということではないと思います。「できません」と答えても、思いやりの心を示すことはできます。どのような態度を示すかが大切だと思います。イエス様のように人を愛することは決して簡単ではありません。ですから私たちは聖霊の助けが必要なのです。 結び 最後のまとめですが、5千人の空腹を満たす奇蹟は、明らかにイエスが神であり、イスラエルの羊飼いであることを示した出来事でもあったと思います。イエスは私たちの必要、そして私たちの空腹を満たしてくださるお方です。私たちの必要や空腹は物理的なものであっても精神的なものであっても、霊的なものであってもイエスは満たしてくださいます。そして、私たちはイエス様が与えてくださる素晴らしい未来を待ち望み、いつか喜び祝うのです。 今日は晩餐についてたくさん話してきました。聖書は、霊的な真実の象徴として食べ物にたとえることが非常に多いです。食べ物は生きる糧(かて)、霊的な交わり、お祝い、温かいもてなしを象徴します。 最後に食べ物に関係することでお知らせがあります。今、私はあるフードバンク団体に食べ物を寄付する活動を取り仕切っています。教会のキッチンのところに段ボール箱を置いておきますので、そこに生もの以外の食料を入れていただければ感謝です。それをフードバンク団体に寄付します。キリストの愛を言葉だけでなく行動をもって示しましょう。 最後に祈りましょう。 神様 祝福されしあなたの一人子は、パンと魚を取り、裂き、弟子たちに与え、大勢の人たちに配らせました。この日、主は愛と憐(あわれ)みの心で、飢えた人々に食べ物を与え、絶望した人々に希望を与えました。聖餐式の聖なる食物(しょくもつ)により養われた私たちが、主と同じ愛と憐みの心で満たされますように。父なる神、主イエス、聖霊に栄光と誉れがとこしえにありますように。主イエス様の御名によってお祈りします。 (上のバーから聞けない方は青いボタンから) [:en]↓Audio link to the sermon: (1st worship service recording) (If you can’t listen on your iPhone, please update your iOS) I have fond memories of my wedding dinner 9 years ago. It was a joy to see so many relatives and friends come together in one place. There were about 100 or 150 guests, which is a normal size for a Malaysian wedding dinner. While the food was prepared
[:ja]「水の上を歩く」マルコ6章45節~52節_パク宣教師[:en]”Walk on the Water”(Mark 6:45-52)_Missionary Paku[:]
[:ja]↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音) 【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】 原稿は英語のみになります。 (上のバーから聞けない方は青いボタンから) [:en]↓Audio link to the sermon:(1st worship recording) (If you can’t listen on your iPhone, please update your iOS) Today, I am going to tell you about “Jesus walking on the water.” I believe that most of you are familiar with this story. Right? You might say, “I know this story.” You would get bored with my sermon. You might be able to put your heads down while I am preaching. But don’t worry. This story won’t let you sleep. This story won’t let you yawn. Do you know why? The Word of God that goes out from His mouth will not return to Him empty, but
[:ja]ルカ11:1~13「私たちにも祈りを教えてください。」_北澤牧師[:en]Luke 11:1-13 “Lord, teach us to pray”_Pastor Kitazawa[:]
[:ja] ↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音) 【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】 ①主イエス・キリストが祈りを終えた時・・。一人の弟子がこう言いました。 →「主よ。私たちにも祈りを教えてください。」 ・この弟子が12人使徒の誰であったのか、12使徒以外の弟子であったのか、それははっきりいたしませんが、いずれにせよこの人は、イスラエル人でありました。つまり、この人は、古代イスラエル文化の中で育った人でした。ですから、この人が祈りを知らないはずはありません。 ・この人は、子供のことから、大人たちが祈っている、そういう世界で育ってきたのです。 また、この人自身も今まで、それなりの祈りをしてきたはずです。 ・であるのにこの弟子は、どうして「祈りを教えてください」と言い出したのでしょうか・・。 ・そうです。この弟子は、主イエスが祈っている・・その姿を目(ま)の当たりにしましたときに、 その祈りを真正面から聞きました時に・・強く感じることがあったのだと思います。 ・彼はこう思ったに違いありません。「このイエスさまの祈りこそ、本当の祈りというものではないだろうか・・」 「自分が今まで、見様見真似で祈って来た、その祈りは・・実は、祈りではなかったのではないだろうか・・」 ・「そうだ。この際イエスさまに、祈りについてしっかり教えていただこう。そして、自分もイエスさまの ような、本当の祈りをする、そういう者にさせていただこう。」 ・私はこの弟子は、とても誠実で、謙遜な人であった、そう思います。 ・きょう私たちも、この時のこの弟子のように、自分の今までの祈りを振り返り・・その今までの祈りに 固執せず。真っ白な心をもって、ここで語られている、主イエス・キリストの御言葉に聞き入り・・ 「本当の祈りとは、どのようなことなのか」考えさせられたいと思います。 ➁では最初に、この弟子の願い出に主イエスはどのように答えてゆかれたかについて見てゆきたいと思います。 ・ここで主は、祈りとはどういうものかについて、説明を始めたのではありませんでした。 主は、説明するのではなく、具体的に「こう祈りなさい」と語り、「祈りの基本」について提示されたのでした。 ・そうです。祈りの本質は、説明されてわかってゆくというものではなく、実際に祈りながら徐々に血や肉になってゆく・・そういうものだからです。 ・ところで、もうお気づきの方がおありだと思いますが・・ここで主が語られたことは、よく礼拝の中でも 使われる、「主の祈り」と言われている、あの祈りです。 ・言うまでもなく、「主の祈り」とは、「主イエス・キリストが教えてくださった祈り」のことです。 〇主はここで5つのことをとりあげて、「こう祈りなさい」と語っておられます。 ・最初の2つは、神さまに関することです。 一番最初は・・「御名が聖なるものとされますように」です。 これは、つまり、「神さまがほめたたえられますように」という祈りです。 ・二番目は・・「御国が来ますように」です。 これは、「神さまのご支配が、この世界に、また、祈っているこの私にも及びます様に」という祈りです。 ・つまり、主イエスは、私たちが先ず祈らなければならないこと、それは、自分のことではなく、他人のことでもなく、神さまと、神さまのお働きに関することである、と教えられたのでした。 ・三番目は、一転して私たちのことです。 そしてそれは、びっくりするほど身近で日常的な事でした。 「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」つまり、「きょうのパンをお与え下さい。」という祈りです。 ・四番目は・・「私たちの罪をお赦し下さい」という祈りでした。 しかし、ここには、次のような非常に厳しい言葉が、ピタリと添えられています。 ・「私たちも、私たちに負い目のある者を・・みな赦します。」でした。 これは言い換えますと・・「私は、ひどいことをしたその人を、完全に赦し、もはや何のわだかまりももちません。そう決心しているこの私の罪をもお赦しください。」こういう祈りです。 ・五番目は・・「私たちを試みに合わせないでください。」という祈りでした。 「祈る者はあくまで謙遜でありなさい。」という主イエスの思いが込められていると思います。 ・私たちが、礼拝などで、この「主の祈り」を用いてお祈りをしてゆきます時は、このような思いを込めて、このような精神をもって祈っている訳です。 ③ところで、この主の教えを聞いたとき、この弟子はどのように思ったでしょうか・・ ・私は、この教えを聞いたとき、この弟子は、予想外な内容だったので大変おどろいたと思うのです。 ・といいますのは・・先ず、初めの2つの祈りは、当時、民衆と神さまとの間に立つ、祭司が祈っていた内容であったからです。 祭司たちはその務めとして、「神の御名があがめられ・・神のご支配が訪れるように・・・」と祈っていたのです。 ・つまり主イエスは、この弟子に向かって、また同時に、私たち現代のキリスト者に向かって・・「あなたがたも祭司と同じように、先ず、神の栄光と誉れのために祈ってゆきなさい。そして、神のご支配、神の救いが私たち一人一人に・・そして私たちのこの国に、いや全世界に及びますように、と祈りなさい」こう教えられたのです。 ・では、私たちキリスト者は、ここで主イエスが薦めておられるように、昔の祭司のように、お祈りしているか、ということを考えてみますと・・中には、この様な事は一度も祈ったことがない・・そう思われる方もおられるかもしれません。 ・私の場合、信仰に導いてくださった宣教師の先生から、洗礼前の準備会で、「あなたも祭司なのです。」ということをこんこんと説明されたのですが・・それに対して若かりし日の私は、心の中でこんな風に思っていました。「そんな祭司のような大それた祈り、私にはできません。」 ・そういうわけで結局私は、このような祭司的祈りは、牧師という立場になる迄ずっとしていなかったのです。 ・別の言い方をしますと・・私は、主イエス・キリストの教えに、ずっと従ってこなかったわけです。 恥ずかしい話です。 〇では、三番目の祈りを教えられたこの弟子はどんなことを思ったのでしょう。 三番目の祈りは、要するに、「神さま。きょうの食べ物をお与えください」こういう祈りです。 ・では、私たちはこのように祈りを日々しているのでしょうか・・。飢餓状態に置かれたことのある特別な経験をお持ちの方は別として・・日頃このような祈りはあまりしていない、そういう方が多いような気がします。 ・キリスト者は、勿論、神さまは日々私たちを養っておられる。食べ物は神さまから与えられていのです。 と理屈では考えていますが・・しかし、キリスト者であっても、現代社会で生きている者にとって、生かされている、という感覚を持ちながら生きていくことはなかなか難しいかもしれません。 ・現代社会の中で生きていると、ついつい、食べ物は、自分が働いた給与や、自分の持っているお金で、スーパーで買ってくるもの。そういう感覚に陥りやすいからです。 ・しかし信仰者にとって、この祈りは、どんな時代であっても非常に大事な祈りであると思うのです。 この祈りは、「私は神さまに養われているのです。」という信仰告白でもあるからです。 ・主イエスが、教えられた祈りの四番目は、「罪を赦す」ということについてです。 この祈りもまた、私たちにはなかなか祈ることのできにくい難題です。牧師をさせていただいていると、 このことを祈れないで苦しんでおられる方は意外に多い・・そのことに気が付かされます。 ・と言いますのは・・ 自分に危害を加えてきた人のこと。決して許せない行為を自分にした人のことを 「私はその人を赦します。」と、積極的に神さまに約束すること。それは、容易なことではないからです。 ・しかし主イエスは、ここで、「そういう赦しがたい人に対しても、その人を赦します。」と、 神さまに申し上げなさい。そう教えられたのでした。 ・しかし、私は思います。これは、できそうで、なかなか簡単にはできないこと・・いや、できないというより、人は、「そんなことをしたら、正義はどこに行ってしまうのだ」と思いがちだからだと思うのです。 ・そうです。人の罪を赦すということ、人の悪行を無いものにするというのは、自分の正義を捨ててゆくということであるからです・・。 ・しかし主は、「イエス・キリストの弟子である、あなたなら、聖霊の助けにより、己の思いを捨て、赦しのとりなしの祈りができるのです。」そう励ましておられるのです。 ④ここまで、主イエス・キリストが「こう祈りなさい」と教えておられる、その内容を見てきたのですが・・ 実は、この聖書箇所で一番肝心な言葉を飛ばしたままここまでやって来てしまいました。 ・その、一番大事な言葉とは、他でもありません。2節で、「祈るときはこう祈りなさい。」と主が言われた直後に語られている、「父よ。という呼びかけの言葉」です。 ・この「父」と訳されているこの言葉は、アラム語のアバという言葉であることは皆さんもご存じだと思います。これは小さな幼児が、自分の父親に、親しみを込めて話しかける時に使う、呼び掛けの言葉です。 ・今世界中で使われている「パパ」という言い方ととても似ていると言われています。 ・それはこの言葉の音からもわかります。いかにも、小さな子供がそのお父さんを呼ぶときのその音です。 澄んだ目の、小さなこどものその声が聞こえて来そうです。 「アッバ」・・ ・イエスさまはここで、祈りとは・・小さな子供が、父なる神さまに・・パパ!父さん!と呼びかけてゆく・・、そういうことで始まるのです。そう教えられたのでした。 〇先日、近所のスーパーマーケットに立寄った時です。そこで私は、非常に心揺さぶられる経験をしました。 ・スーパーに入り、魚売り場の所までやってきた時でした。 「パパ!パパ!」と呼ぶ男の子の声がしたのです。 ・その声は、私の一人息子が小さかった時、私を呼ぶ、その声にとても似ていました。似ていたというより、息子の小さい時の声とほぼ同じ声でした。 ・そこで私は、一瞬、息子が自分を呼んでいるのだと錯覚してしまったのでした。 もう少しで「何?パパはここにいるよ。」と言いそうになってしまいました。 ・するとすぐに、少し離れたところから、その子のお父さんと思われる方が、「どうした?パパはここにいるよ。」という声がしたのです。その男の子がそのお父さんのもとに走って行ったのは言うまでもない事です。 ・私の息子は今30代半ばになっていますから、パパ!と呼んでいたその声が私の息子のはずはありません。 しかし、私はこの小さな男の子の声に激しく動揺してしまったのでした。 ・そして、パパ!パパ!と呼ばれ、 何?ここにいるよ、と答えていたあの頃の、その何とも言えない、 そのすばらしい関係を思い出したのです。 ・こういうとき、小さな子どもが、パパとか、父さんなどと呼ぶとき、特に用事はないことが普通です。 このような場合、子どもたちは大抵、「パパどこにいるの?」と、父親が近くにいてくれることを確認したいだけです。 ですから、父親は「ここにいるよ」と答えてあげる、それだけで充分なのです。 ・イエスさまはここで、祈りとは、このようなことだ。と教えておられるわけです。 ・聖書には、この、かけがえのない関係について取り上げている箇所がいくつもあります。 その代表的な箇所は、使徒パウロが語っているガラテヤ4:6-7です。 そこを読んでみます。→ 「あなたがたが子であるので、神はアバ父よ、と呼ぶ御子の御霊を、私たちの心に 遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。 子であれば、神による相続人です。」 ・これを、思い切って現代の言い方に言い直してみますと、このような内容です。 「あなたがたは、全知全能にして憐み深い天の父なる神の、そのこどもになっているのです。 ですから、あの主イエス・キリストがアバと呼んでいたと同じ様に、あなたがたもそう呼びかけるのです。 それは、あなたがたのうちに働く聖霊のお働きによるのです。」 「あなたがたは、そういう身分なのです。ですから、あなたがたは、もう罪と死の奴隷ではありません。 それどころか、あなたがたは、天の父の全宇宙的財産を、またその愛を引き継ぐ、相続人なのです。」 ・そうです。主イエスの弟子とさせていただいた私たちは、全知全能にして憐み深い父なる神さまに、アバと呼んでゆく特権が与えられているのです。 ・今週も、このように呼びかけつつ、前進してゆきたいと思います。 (上のバーから聞けない方は青いボタンから) [:en] ↓Audio link to the sermon:(1st worship recording)
[:ja]「あなた方のうちに新しい霊を与える」エゼキエル11章19節[:en]“I will give them an undivided heart and put a new spirit in them” (Ezekiel 11:19)[:]
[:ja] ↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音) 【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】 本日の聖書の箇所として、エゼキエル書11章19節を選びました。そこには、「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」と書かれています。この箇所の中から「あなた方のうちに新しい霊を与える」とのテーマでメッセージを語ってみたいと思います。聖霊の時代が来たことに目を向けて行きたいと願っています。 まず、エゼキエル書を簡単に紹介いたします。作者であるエゼキエルは、エレミヤよりも若い預言者で、紀元前の597年に、南ユダの王国がバビロンに降伏した時に、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれた青年の1人です。南ユダは紀元前586年にバビロンによって完全に滅ぼされますが、その約10年前に、南ユダ国はバビロンに一時的に降伏したのです。ユダの当時の王エホヤキンと共に多くの民は、捕囚とされました。その結果ユダの民は、バビロンに移された民とエルサレムに残された民に分かれます。エゼキエルは、バビロンに移された民の一人で、バビロンの地で預言者として立つようにと召命を受けたのです。彼は、バビロンに住みながら、故郷であるエルサレムが滅ぼされるという預言を語ることになります。一方、前回取り上げたエレミヤはエルサレムに住みながら、神の預言のみ言葉を語るのです。エゼキエルは、バビロンで祭司として律法をユダの民に教えながら、これから起こるであろう神の大いなるご計画を語っていくことになります。その内容は、人間の罪、神のさばき、救い主の到来、罪人の再生ときよめ、さらに将来の栄光と、福音の全体にわたります。 エゼキエル書は、エゼキエルが預言した時期によって、大きく3つに分かれます。1-24章は、エルサレムの包囲前、25-32章は、エルサレム包囲中、そして、33-48章は、エルサレム陥落後の出来事と預言について記されています。 この箇所を私が選んだ理由には、旧約の預言者が新約の時代が来るとの預言をしていたことに再度目を注いてほしいと願うからです。以前エレミヤを学んだ時に、エレミヤも新しい新約の時代が来ることを預言していることをお伝えしました。エレミヤ31章31節には、「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。」と書かれています。その新しい契約を結ぶとの預言は、旧約が終わり、新約の時代が来ることで実現したのです。エレミヤと同じ時期に預言したエゼキエルも、石の心ではなく、肉の心との表現で、聖霊の時代が来る、その新約の時代の到来を預言していることに気づいてほしいと願います。 神様ご自身が、旧約の時代を終わらせ、イエス・キリストの誕生によって、新しい時代、新約の時代をもたらしてくださったのです。先週はレイ宣教師が、キリスト中心の交わりがもたらす力とのテーマで語ってくださいました。その中で、聖霊が働かれ、人々が変えられ、キリストの愛によって、互いに赦し合い、互いに助け合う群れがペンテコステの日に起こったことに言及されました。レイ宣教師の説教を聞きながら、新しい時代が来たことを再度確認でき、私は嬉しく思いました。そのように人々が聖霊の導きの中、助け、愛し合う姿を私たちは今日目の当たりにしています。聖霊から新しく力にいただいて、私たちは生きることができるのです。そのように聖霊が働かれる新しい時代が来ることをエゼキエルは預言をしているのです。 エゼキエルが神から預言者として召されるその箇所も見てみます。2章から3章にわたって書かれています。神が彼に語られたことで私が特に興味深く思う所は、預言者は民を恐れてはならないこと(2:6)。また民が聞いても聞かなくても神の言葉を語り続けること(2:7)。預言者は見張り人として働き、警告の言葉を発すること(3:17)。そして預言者の言葉は聞く者の生死を左右すること(3:19―21)。そのような内容です。それらの神からの指示は、今日福音を語る私たちにも多少なりとも適用できる内容であると思います。私たちは生き生きと福音を語るのです。喜びを持って福音を語るのです。そしてその福音に耳を傾ける者は神の命に預かるのです。新約の時代に生きる私たちにも福音を伝える、その責任が大いに委ねられていると思います。 それでは、11章の内容に入ります。イスラエルに住んでいるリーダーの1人が、3節で、「家を建てるにはまだ間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ、と言っている。」と書かれています。なべとはエルサレムの城壁を意味し、肉とはその中に住んでいる人たちを指します。エルサレムの城壁は強固で壊されることはない。また、捕囚とされずにエルサレムに残されている者たちは最も良い民であるとの高慢な思いがこの表現の背後にあります。言葉を変えれば、バビロンの攻撃は起こらない、まだまだ神の裁きは臨まない、そのような思いを持ってこのリーダーは生きていたようです。しかし神様の答えは明白です。むしろ彼らがそのような危機感のない、また悔い改めのない姿勢を持っていることを神は裁かれるのです。6節、7節では、エルサレムに住んでいる者たちが安全地帯に住んでいるのではなく、むしろ神の裁きを待つ人々であるとの現実を示しています。9節では、「わたしはあなたがたを町から連れ出して、他国人の手に渡し、あなたがたにさばきを下す。」と書かれています。他国人とはバビロンの人々であり、ユダの民は神から離れ、罪を犯して生きてきたゆえに神の裁きが必ず臨む、そのようにエゼキエルは民に向かって語っています。 しかし、17から20節には希望のメッセージが書かれています。神の裁きは必ず起こるのですが、もう一度再建の道を神は備えてくださっているのです。17節で、「わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの家をあなた方に与える。」とあります。神の再建の時が来て、回復が起こるのです。そして18節で、「彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。」とあります。神の助けによって新たにされる民は、偶像から解放され、誠の神を信じる民となるのです。そして19節で、「わたしは彼らに一つの心を与える。」とあります。一つの心とは、神に従う心です。さらに神の霊を受けいれる心です。彼らは新しい心、つまり聖霊をいただいて、石の心から肉の心に変えられていくのです。石の心から肉の心に変えられて行く、それは大きな変化です。 神の目にベストな民は、囲いの中で自分は安全だと自負している民ではありません。一度捕囚とされ、苦しみを理解した者たちこそ神の目に尊い民なのです。神様ご自身が神の定めた時に、そのような民を起こしてくださるのです。彼らは、神の前に謙遜にさせられ、神の働きを柔和な心で受け入れるのです。そして神のみこころに従って生きるのです。自分の栄誉ではなく、神の栄光のために生きたいと願うのです。イエスを信じる民の中にこのような心を持つ者が起こされてまいります。神に従がって、神に栄光をお返しする人生を歩んで行こう、そのような民を神は今でも起こしてくださっています。それこそ聖霊の業であると思います。 エペソ2章8-9節には、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」と書かれています。私たち信仰者は聖霊の助けによってこの言葉を理解できるようになります。イエスは一方的な愛を持って私たちを愛しておられます。キリストの愛をかたくなに拒む心は石の心であり、耕された心でキリストを受け入れる心は肉の心であると思います。 ある意味、旧約の民は石の上に書かれた律法を信じ、それに従って生きる民であり、新約の民は聖霊が働かれ、聖霊に導かれて生きる民であると言えると思います。新約の恵みの中にあなたも生きてみませんか。エゼキエル11章20節には、「それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」とあります。神の民は神のみこころに従って生きようとします。私は聖霊の導きに従います。私は神の教えに従って生きます、との思いを共にして行こうではありませんか。 (上のバーから聞けない方は青いボタンから) [:en] ↓Audio link to the sermon:(1st worship recording) (If you can’t listen on your iPhone, please update your iOS) The passage chosen for today is Ezekiel 11:19. It says, “I will give them an undivided heart and put a new spirit in them; I will remove from them their heart of stone and give them a heart of flesh.” The theme of my message is “I will put a new spirit in them.” Let us look at what it means to live in the era of the Holy Spirit. First, let me introduce the book of Ezekiel.
[:ja]キリスト中心の交わりの持つ力_レイ宣教師[:en]The Power of Christ Centered Fellowship_by Ray Tavarez[:]
[:ja] ↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音) 【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】 原稿は英語のみになります。 (上のバーから聞けない方は青いボタンから) [:en] ↓Audio link to the sermon:(1st worship recording) (If you can’t listen on your iPhone, please update your iOS) Introduction First of all, I want to thank pastor Ino for asking me to share God’s word today. I’m very thankful for his life and ministry and for the IBF church community. Before I start today’s message, I want to quickly introduce myself. My name is Ramon but everybody calls me Ray. Together with my wife, Megan, we serve as missionaries here in Japan with Overseas Missionary Fellowship (OMF). My wife was born and raised in Texas and I was born in New York City and raised in
[:ja]「バプテスマのヨハネの証: 信仰があっても苦しみを受ける」(マルコ6章7~32節)[:en]“The Witness of John the Baptist: Faithful but Suffering” (Mark 6:7-32)[:]
[:ja]↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音) 【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】 オランダ人のコーリー・テン・ブームは有名なクリスチャンの著者です。第二次世界大戦中に彼女とその家族はナチスからユダヤ人を家でかくまい、結局それで警察に捕まってしまいました。彼女のお父さんは刑務所で亡くなり、彼女のお姉さんは強制収容所で亡くなりました。コーリー自身ももう少しでガス室に送られるところでしたが、同年齢の若い女性たちとガス室行きが執行される1週間前に、事務手続きのミスで、コーリーだけが急に収容所から解放されました。残念ながら、彼女だけがたった一人の生き残りとなったそうです。 このように、信仰深い神の民も非常に厳しい試練を通らされることがあります。 今日読むマルコ6章には、神に信仰深く従っているにもかかわらず、死刑となってしまう人物が出てきます。それはバプテスマのヨハネです。また、その頃のイエスと弟子たちについても見ていきたいと思います。まずお祈りしましょう。 (マルコ6章7節~13節を読む) ここまでのイエスについて思い出してみましょう。マルコ3章14、15節には「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」と書かれています。弟子たちはイエスと共に過ごし、イエスが人々に教え、奇蹟のみわざを行うのを見ていました。そして今度は、弟子たちが教え、奇跡を行う番でした。 6章にはヘロデ王も出てきます。ヘロデ王は、イエスやその弟子たちが人々に教えていることや、癒しや悪霊退治も行うといったことを聞いて、イエスについて思いをめぐらしていました。6章14節から29節まで読んで、ヘロデ王がどう思ったのか読んでいきましょう。 (マルコ6章14節~29節を読む) バプテスマのヨハネの人生と教えは、イエス自身の生涯と教えを暗示していました。バプテスマのヨハネもイエスの教えも、罪を悔い改めて神のもとに戻に帰りなさいというものでした。そして彼らは宗教指導者を批判しました。バプテスマのヨハネとイエスには類似点が多かったので、人々に「イエスはバプテスマのヨハネの生まれ変わりではないか」と言われたほどでした。 どちらも大胆に神について語ったために捕らわれ、死刑となりました。ですから、ヨハネの死はイエスの死を暗示していました。神であるイエスご自身が理不尽に苦しまれ、人々に殺されてしまったのですから、私たちがイエスに従って苦しみを受けることは驚くことではありませんね。 バプテスマのヨハネが急に登場して、イエスの物語が突然中断されたようにも感じるかもしれません。しかし、バプテスマのヨハネの生涯を知ることによって、神に忠実に従うとはどういうことなのか、それを理解する助けとなっていると思います。また、弟子たちによる宣教活動は順調でした。弟子たちは多くの人々を癒し、多くの人々にイエスのメッセージを伝えました。ところが一方でバプテスマのヨハネは悲惨な死を遂げます。神に従うとは、よい時も悪い時も、慰めも苦しみも両方経験することなのです。 奇蹟は神の働きによるものと考えるのは簡単です。でも、バプテスマのヨハネの生涯が悲惨な死で終わってしまったことにおいても、私たちは神の働きを見ることができるでしょうか。私は、牢獄の中できっと神はヨハネと共にいて、ヘロデに真実を語り続けるように励ましていたと思います。 マタイの福音書でも、人々に教え、癒すようイエスが弟子たちを遣わしたことが書かれています。マタイ10章28節で、何も恐れずに神のことばを人々に伝えるようにと、イエスは弟子たちに語っています。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」と。バプテスマのヨハネはきっと自分の生涯、人生の報い、そして未来は神の御手にあることをわかっていたと思います。 ではヘロデについて何が言えるでしょうか。彼は矛盾がある人物でした。20節には「それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。」と書かれています。 正しい人であるバプテスマのヨハネに恐れや敬意があったヘロデですが、人々に対する恐れの方が上回りました。ヘロデはヨハネを殺したくはなかったのに、自分の面目を保つために祝宴に招いた客たちの前でヨハネを殺してしまいました。 バプテスマのヨハネがヘロデに話をする機会は多分何度もあったと思いますが、神のメッセージはヘロデの心に届くことはなかったのでしょう。しかし、それはバプテスマのヨハネの失敗ではありません。バプテスマのヨハネは彼の使命を忠実に果たしました。 バプテスマのヨハネのように、神のことを語る大胆さを私たちも神から与えられるよう願います。私たちは神のことを人に伝えたいと思った時に、毎回そうしなければいけないわけではありません。いつ、どのように語るか、それには神の知恵が必要です。また、私たちの信仰を人々に説明するときに、私たちは清い生活、「正しい生き方」をしている上で、人々に「優しく、慎み恐れて」説明するべきです(第一ペテロ3:16) バプテスマのヨハネについて触れた後で、マルコは再びイエスの弟子たちについて書いています。30節から32節を読みましょう。 (マルコ6章30節~32節を読む。) 弟子たちが宣教を終えた後で、イエスは休憩するために離れた場所に彼らを連れて行きました。非常に忙しく過ごしていた弟子たちの身体や心に何が必要か、イエスはわかっていました。また、素晴らしい人物だったバプテスマのヨハネの死を聞き、追悼する時間が必要だったかもしれません。いったん立ち止まって休息しなければ、助けを求める人々に弟子たちは休む間もなく対応していたことでしょう。 イエスは働き手に向かって「どんどん働きなさい。たくさんやることがあるのです。ゆっくり休む時間などありません。」と言い放つようなリーダーではありません。イエスは弟子たちが休めるように導いてくださるお方です。イエスに仕えようとする人々にとって、主人がそのようなお方であることは感謝なことですね。イエスに仕えることで忙しい時があるかもしれませんが、定期的に休息を取ることも大切です。 適用 今日は、神を信仰しているけれども、私たちは苦しみを受けるということをテーマに話していますが、いくつか私の思うところをお話したいと思います。 人間の一生にはよい時も悪い時もいろいろありますね。このIBF教会にもいろいろなことがあったと思います。 私は2010年に初めてIBF教会に来ましたが、若い人たちがたくさんいて、神を熱心に礼拝している姿に感動し、励まされました。一方で、大切な人の死や悲しみを経験しました。10年以上前になりますが、みえこさんが重い病に倒れ、多くの人が悲しみに暮れました。体が衰えてきているのに、みえこさんにはもてなしの心があふれていたのを覚えています。 みえこさんは多くの人にとってお母さんのような存在でした。みえこさんのことをよく知らない人たちにも影響を与えた方でした。以前、私の妻は英会話を学びたい方の練習相手をしていた時に、みえこさんを知っているけれども教会に来たことがない未信者の生徒さんがいて、その方にこう言われたそうです。「みえこさんは本当に熱心なクリスチャンだったのに、どうして神様はみえこさんに苦しみを与えたのですか」と。 教会にとって大切な人が亡くなるというような悲しみを通っても、IBF教会の私たちは変わらずに主を礼拝し続けています。それは、私たちが何者であるかでなく、神がどなたであるかを考える時わかると思います。季節が移り変わり、いろいろなことが起ころうとも、変わらずに神はあがめられるべきお方であるからです。 今日賛美で歌った「主の御名あがめます」という曲がありますね。人生のよい時も悪い時も主をあがめましょうという歌で、私はこの賛美が好きです。英語の歌詞には、こういう歌詞があるんですよ。「主の御名あがめます/太陽の光が私を照らすとき/世界があるべき姿になったとき/」「主の御名あがめます/苦難の道の途中でも/捧げるとき痛みがあっても」。 私たちがこの賛美を歌うのは、神は私たちから遠く離れてはおられないことを知っているからです。たとえ神が遠くにしか感じることができない時も、暗闇の中でも、神が見えない時も、神の御声が聞こえない時も、神は働いておられます。 聖公会(イギリス国教会の系統です。)の司祭であるティシュ・ハリソン・ウォレンは「夜の祈り」という著書で、彼女が悲しみに沈んでいた時の神との関係について書いています。彼女はお父さんを亡くして間もなく流産を2度経験しました。そして彼女が絶望のうちに慰めを求めた時に、深い穴底のような暗闇の中で神と出会ったそうです。 彼女自身振り返ってみると、神との関係において最も成長したのは、人生の中で一番辛かったこの時期ではないかと感じているそうです。ですから著書の中で彼女はこう書いています。「夜にしか咲かない花があります。月見草や夕顔など夜に咲く花は、日が暮れてからでないと、その咲き誇った姿を見ることはできません。 霊的なものにおいても暗闇でしか咲かないものもあるのです。」 苦しみのさなかにいると、神が困難を通して私たちの成長を導いておられることを、どうしても受け止められない気持ちになるかもしれません。でもここで、はっきりさせておきたいことがあります。それは、神は聖なるお方であるけれども、冷たい薄情なお方ではないということです。私たちが苦しむのを見て、神は楽しむことはありません。神は私たちを愛しておられ、私たちの苦しみを知っておられます。しかし、時に私たちに苦しみが与えられるのは、私たちが成長する一つの方法だからです。 そして苦しみ自体がよいものであると考えるのも間違っています。もともと、苦しみは神が創造されたよいものの中にはありませんでした。しかし、この堕落した罪の世界で、すでに存在する苦しみを私たちが経験することを、神は許しておられます。そして確かに苦難を経験することで、私たちは同じように苦しむ人々の心に寄り添うことができます。 また、神は働き手に汚れ仕事を命じておいて、自分は快適な場所でくつろいでいるような主人ではありません。イエスは人間として、ご自分の生涯で死というものを経験されました。そして私たちの多くが経験したこともないほどの苦しみを経験されました。誤解されること、嫌われること、裏切られること、不当に逮捕されること、ぶたれること、殺されることは何かをご存知です。イザヤは私たちの救い主を「悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53章3節)と表現しています。 ですからクリスチャンはイエス様のことをインマヌエルと呼びます。インマヌエルとは、神は私たちと共におられるという意味です。十字架の死が意味するものは、イエス様が私たちと深く関わることをお選びになったということです。そしてイエス様は、人類の代表として私たちの罪の罰を受けてくださいました。更にイエス様は死からよみがえられ、私たちによみがえりの栄光にあずかる希望もお与えくださいます。 今、非常に辛い試練の中にいるとしても、私たちには栄光の未来が待っています。よみがえりの体をもって新しい天と地で生きるという栄光の未来です。 使徒パウロはローマ8章18節で「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」。22節には「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」26節では「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」28節では「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」と書いています。 これから与えられる輝かしい未来を待ち望み、苦しみのさなかにも神ご自身が私たちと共におられることをしっかりと覚えて歩んでいきましょう。 結び 最後にコーリー・テン・ブームのことをもう少しお話しします。強制収容所でコーリーとお姉さんは、収容所の人々とキリストにある希望を分かち合いました。その中にはクリスチャンになった人もいました。コーリーのお姉さんが亡くなる前にコーリーに言いました。「どんなに深い暗闇の中でも神は共にいてくださいます。」と。 コーリーの家族の話や聖書にも見られるように、クリスチャンは勝利とそして悲劇の両方を経験します。神への信仰があっても、苦難を受けるかもしれません。苦しみの中にあっても、私たちが信仰深くいられるように祈りましょう。神はいつも私たちと共におられると約束しておられます。そして神は身をもって苦しみを知っておられるお方です。 祈りましょう。 全知全能の神様 あなたの摂理によりバプテスマのヨハネは、この世に生まれ、悔い改めを人々に教え、あなたの一人子、私たちの救い主の道を整えるために遣わされました。 どうぞ私たちが彼の教えと清い生活から学び、真に悔い改め、いつも真理を語り、大胆に悪を戒め、真理のために苦しみも耐え忍ぶことができるように、強めてください。イエス様の御名によってお祈りします。 (上のバーから聞けない方は青いボタンから) [:en]↓Audio link to the sermon: (If you can’t listen on your iPhone, please update your iOS) The Witness of John the Baptist: Faithful but Suffering Corrie Ten Boom was a well-known Dutch Christian writer. During World War II, she and her family protected Jews by hiding them in their house from the Nazis. They were all caught eventually. Her father died in prison,
[:ja]みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(ヤコブ1:22)[:en]“Do not merely listen to the word, and so deceive yourselves. Do what it says.”(James 1:22)[:]
[:ja] ↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音) 【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】 パク宣教師メッセージ 原稿は英語のみになります。 (上のバーから聞けない方は青いボタンから) [:en] ↓Audio link to the sermon:(1st worship recording) (If you can’t listen on your iPhone, please update your iOS) Message by Missionary Park We as human beings are so easily deceived. When someone keeps repeating a certain thing seriously over and over again, we tend to believe that it is so true even if it is a total lie. Right? When people in power or people in authority speak, we think that they are alway right and never wrong. In addition to that, we tend to believe that science is infallible and statistics can’t be manipulated. We believe that NHK news and CNN news are all