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本日の聖書の箇所として、エゼキエル書11章19節を選びました。そこには、「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」と書かれています。この箇所の中から「あなた方のうちに新しい霊を与える」とのテーマでメッセージを語ってみたいと思います。聖霊の時代が来たことに目を向けて行きたいと願っています。

まず、エゼキエル書を簡単に紹介いたします。作者であるエゼキエルは、エレミヤよりも若い預言者で、紀元前の597年に、南ユダの王国がバビロンに降伏した時に、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれた青年の1人です。南ユダは紀元前586年にバビロンによって完全に滅ぼされますが、その約10年前に、南ユダ国はバビロンに一時的に降伏したのです。ユダの当時の王エホヤキンと共に多くの民は、捕囚とされました。その結果ユダの民は、バビロンに移された民とエルサレムに残された民に分かれます。エゼキエルは、バビロンに移された民の一人で、バビロンの地で預言者として立つようにと召命を受けたのです。彼は、バビロンに住みながら、故郷であるエルサレムが滅ぼされるという預言を語ることになります。一方、前回取り上げたエレミヤはエルサレムに住みながら、神の預言のみ言葉を語るのです。エゼキエルは、バビロンで祭司として律法をユダの民に教えながら、これから起こるであろう神の大いなるご計画を語っていくことになります。その内容は、人間の罪、神のさばき、救い主の到来、罪人の再生ときよめ、さらに将来の栄光と、福音の全体にわたります。

エゼキエル書は、エゼキエルが預言した時期によって、大きく3つに分かれます。1-24章は、エルサレムの包囲前、25-32章は、エルサレム包囲中、そして、33-48章は、エルサレム陥落後の出来事と預言について記されています。

この箇所を私が選んだ理由には、旧約の預言者が新約の時代が来るとの預言をしていたことに再度目を注いてほしいと願うからです。以前エレミヤを学んだ時に、エレミヤも新しい新約の時代が来ることを預言していることをお伝えしました。エレミヤ31章31節には、「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。」と書かれています。その新しい契約を結ぶとの預言は、旧約が終わり、新約の時代が来ることで実現したのです。エレミヤと同じ時期に預言したエゼキエルも、石の心ではなく、肉の心との表現で、聖霊の時代が来る、その新約の時代の到来を預言していることに気づいてほしいと願います。

神様ご自身が、旧約の時代を終わらせ、イエス・キリストの誕生によって、新しい時代、新約の時代をもたらしてくださったのです。先週はレイ宣教師が、キリスト中心の交わりがもたらす力とのテーマで語ってくださいました。その中で、聖霊が働かれ、人々が変えられ、キリストの愛によって、互いに赦し合い、互いに助け合う群れがペンテコステの日に起こったことに言及されました。レイ宣教師の説教を聞きながら、新しい時代が来たことを再度確認でき、私は嬉しく思いました。そのように人々が聖霊の導きの中、助け、愛し合う姿を私たちは今日目の当たりにしています。聖霊から新しく力にいただいて、私たちは生きることができるのです。そのように聖霊が働かれる新しい時代が来ることをエゼキエルは預言をしているのです。

エゼキエルが神から預言者として召されるその箇所も見てみます。2章から3章にわたって書かれています。神が彼に語られたことで私が特に興味深く思う所は、預言者は民を恐れてはならないこと(2:6)。また民が聞いても聞かなくても神の言葉を語り続けること(2:7)。預言者は見張り人として働き、警告の言葉を発すること(3:17)。そして預言者の言葉は聞く者の生死を左右すること(3:19―21)。そのような内容です。それらの神からの指示は、今日福音を語る私たちにも多少なりとも適用できる内容であると思います。私たちは生き生きと福音を語るのです。喜びを持って福音を語るのです。そしてその福音に耳を傾ける者は神の命に預かるのです。新約の時代に生きる私たちにも福音を伝える、その責任が大いに委ねられていると思います。

それでは、11章の内容に入ります。イスラエルに住んでいるリーダーの1人が、3節で、「家を建てるにはまだ間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ、と言っている。」と書かれています。なべとはエルサレムの城壁を意味し、肉とはその中に住んでいる人たちを指します。エルサレムの城壁は強固で壊されることはない。また、捕囚とされずにエルサレムに残されている者たちは最も良い民であるとの高慢な思いがこの表現の背後にあります。言葉を変えれば、バビロンの攻撃は起こらない、まだまだ神の裁きは臨まない、そのような思いを持ってこのリーダーは生きていたようです。しかし神様の答えは明白です。むしろ彼らがそのような危機感のない、また悔い改めのない姿勢を持っていることを神は裁かれるのです。6節、7節では、エルサレムに住んでいる者たちが安全地帯に住んでいるのではなく、むしろ神の裁きを待つ人々であるとの現実を示しています。9節では、「わたしはあなたがたを町から連れ出して、他国人の手に渡し、あなたがたにさばきを下す。」と書かれています。他国人とはバビロンの人々であり、ユダの民は神から離れ、罪を犯して生きてきたゆえに神の裁きが必ず臨む、そのようにエゼキエルは民に向かって語っています。

しかし、17から20節には希望のメッセージが書かれています。神の裁きは必ず起こるのですが、もう一度再建の道を神は備えてくださっているのです。17節で、「わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの家をあなた方に与える。」とあります。神の再建の時が来て、回復が起こるのです。そして18節で、「彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。」とあります。神の助けによって新たにされる民は、偶像から解放され、誠の神を信じる民となるのです。そして19節で、「わたしは彼らに一つの心を与える。」とあります。一つの心とは、神に従う心です。さらに神の霊を受けいれる心です。彼らは新しい心、つまり聖霊をいただいて、石の心から肉の心に変えられていくのです。石の心から肉の心に変えられて行く、それは大きな変化です。

神の目にベストな民は、囲いの中で自分は安全だと自負している民ではありません。一度捕囚とされ、苦しみを理解した者たちこそ神の目に尊い民なのです。神様ご自身が神の定めた時に、そのような民を起こしてくださるのです。彼らは、神の前に謙遜にさせられ、神の働きを柔和な心で受け入れるのです。そして神のみこころに従って生きるのです。自分の栄誉ではなく、神の栄光のために生きたいと願うのです。イエスを信じる民の中にこのような心を持つ者が起こされてまいります。神に従がって、神に栄光をお返しする人生を歩んで行こう、そのような民を神は今でも起こしてくださっています。それこそ聖霊の業であると思います。

エペソ2章8-9節には、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」と書かれています。私たち信仰者は聖霊の助けによってこの言葉を理解できるようになります。イエスは一方的な愛を持って私たちを愛しておられます。キリストの愛をかたくなに拒む心は石の心であり、耕された心でキリストを受け入れる心は肉の心であると思います。

ある意味、旧約の民は石の上に書かれた律法を信じ、それに従って生きる民であり、新約の民は聖霊が働かれ、聖霊に導かれて生きる民であると言えると思います。新約の恵みの中にあなたも生きてみませんか。エゼキエル11章20節には、「それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」とあります。神の民は神のみこころに従って生きようとします。私は聖霊の導きに従います。私は神の教えに従って生きます、との思いを共にして行こうではありませんか。

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「あなた方のうちに新しい霊を与える」エゼキエル11章19節