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12章1節には、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と書かれています。ここで語られるこのように多くの証人たちとは、言うまでもなく、へブル11章で語られている旧約時代の信仰の偉人たちのことです。今まで、その中から、アブラハムやモーセの信仰を取り上げて学んでまいりました。36節~38節には、ほかの人たちは、と紹介されています。その中には、イザヤが含まれていたようです。「あざけられ、鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、試みを受け、のこぎりで引かれ、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、」との表現はイザヤの受けた苦しみに言及しています。イザヤは、マナセ王の支配下で、逮捕され、のこぎりで殺されたとの伝承があるからです。そして、この文章を、この世は彼らにふさわしい所ではありませんでしたと結んでいます。続いて39節には、「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。」とあります。約束されたものとは、イエスによってもたらされる新しい時代の到来であり、キリストによってもたらされる恵みの祝福のことです。イザヤ53章でイザヤはキリストの受難を預言しています。そして、続く55章1節では、イザヤは恵みの時代が到来することを預言しています。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」と書かれています。しかし、彼はその到来は預言できても、救い主であるイエスにお会いできなかったのです。しかしながら、へブル11章40節には、「神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。」とあります。皆さん、さらにすぐれたものをとは、前節の約束されたものと同じ内容を指していることにお気づきでしょうか。私たちはこの救い主にお会いしたのです。さらにすぐれたものと表現されたイエスの救いについて再度考えてみましょう。
イエスは私たちのために完全ないけにえとしてご自身を十字架の上にささげてくださいました。永遠の贖いが完成されたのです。イエスは大祭司として天の聖所に着座され、私たちのためにとりなしの祈りをささげてくださっています。そして、私たちは神のみもとにはばかることなく近づくことができるようになったのです。皆さん、私たちはこの救い主と一緒に生きる人生をスタートしたのです。
12章1節には、いっさいの重荷とまとわりつく罪を捨てて、とあります。マタイ11章28節を開けてみます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と書かれています。その秘訣は、続く29節にあるように、キリストのくびきを負って、キリストから学ぶことであります。キリストと共に生きること、そして、まとわりつく罪を捨てて、わたしたちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようとチャレンジしています。皆さん一人一人同じ環境で生きているわけではありませんが、競争との言葉を用いてチャレンジしています。勿論、人と比べる生き方をする必要はありません。しかし、競争をする時は、その為に身を整えなければなりません。生活の仕方、お金の使い方、聖書を読むこと、祈りを持つこと、大切なことに目を注いで生きる生き方を考えなければならないと思います。身を整えることは、まとわりつく罪やいっさいの重荷を見極めて、その対処を考えて行くことでもあると思います。そして忍耐をもって走り続けようではありませんかとチャレンジしています。休憩を取りながらでも、走り続けることが大切です。
2節には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とあります。イエスは私たちの信仰の創始者であり、完成者です。イエスは、完成者となるために、十字架での苦しみを味わいました。その苦しみは、はずかしめを伴うものであり、4節にあるように、罪と戦って、血を流すまで抵抗した神の業でもあります。しかし、復活があったことを決して忘れてはいけません。キリストは、復活されたのです。信仰の完成は、私たちも復活の命が与えられる時に起こります。その日はいつか来るのです。黙示録3章21節には、「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。」との約束が書かれています。イエスから目を離さないで生きてまいりましょう。信仰の創始者であるイエスは、信仰の完成も与えてくださる方です。その為には、黙示録3章20節にあるように、心の戸を開け、キリストとともに食事をすることです。食事をするとは、親密な交わりの時を共にすることでもあります。毎日、キリストを心の王座に迎え、キリストとの交わりを楽しんで生きて行こうではありませんか。いつか復活のいのちに預かり、信仰の完成の日が訪れることを信じて。