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3か月前、二人目の子どもが生まれました。我が子がこの世に生まれてきてくれ、迎えることは素晴らしいことだったのですが、予定日よりも1週間過ぎての誕生でした。上の娘は予定日よりも2週間早く生まれたので、今度も予定日より早く生まれると思っていました。でも陣痛の兆候はなく、一日一日が過ぎていって、当然ながら心配になりました。そして、私はいらだちも感じていました。それは、私が育児休暇を7月の初めから取ってお休みさせてもらっていたのに、子どもが生まれたのは7月下旬になってしまったからです。
こんなふうに、現実は自分が望んだり、期待した通りにいかないことがよくあります。
今日のマルコの福音書の箇所では、イエスはエルサレムに来ています。つまり、マルコの福音書のクライマックスに近づいているということです。この箇所には、イエスが王であり、救い主であることが書かれています。今日は、救い主であるイエスに対して、人々は何を望んでいたのかを中心に話したいと思います。そして今日(こんにち)、私たちが神に何を望み、期待するのかについても考えたいと思います。まず祈りましょう。

(マルコの福音書10章46節から11章11節まで読む)
<盲目のバルテマイ>
今日の箇所を細かく見ていき、 旧約聖書の預言との関わりについても話していきたいと思います。
まず盲目でこじきのバルテマイについて見ていきましょう。マルコの福音書ではイエスが多くの人々を癒したことが書かれていますが、名前が記録されているのは、このこじきのバルテマイだけです。ですから、このバルテマイはその後イエスを信じ、従い、初代教会で有名な人物になったのではと言われることもあります。
バルテマイは「ダビデの子よ、私をあわれんでください。」と叫びました。バルテマイ、そして当時のユダヤ人が言う「ダビデの子」というのは、ダビデの王国を再建し、イスラエルを永遠に治める救い主という意味がありました。(第二サムエル7:12-16、第一歴代誌17:11-15、詩編89:21-38、エレミヤ23:5-6) バルテマイは、「私たちがずっと待ち望んできた救い主はあなたであると信じます。」と言っています。

次にバルテマイは、自分の見えない目を癒してほしいと頼みました。イエスの奇蹟のことをたくさん聞いていた彼は、イエスならきっと自分も癒してくれるだろうと思っていたのでしょう。わらにもすがる思いだったのかもしれません。または、イザヤ書の預言に、救い主が来た時には、盲目の目が開かれると書かれてあったのを知っていたのかもしれません。それはイザヤ29章と35章(イザヤ29:18、35:5)に書かれています。とにかく、イエスはバルテマイの願いを叶えました。
バルテマイについてもう一つ付け加えたいことは、イエスが救い主であると公けに広めてよいと許したのは、このバルテマイが初めてだったということです。それまではイエスがユダヤ人の救い主であることは公けにしないようにと、イエスは人々に言っていました。でもバルテマイの時から変わりました。それはイエスが苦しみを受ける救い主として使命を果たす場所、エルサレムの近くまで来ていたからです。

<エルサレム入城>
さて、エルサレムはモリヤ山にあったと言われています。モリヤ山はアブラハムが息子イサクを捧げようとした場所です。(創世記22:2)同じように、ここで神は、一人子イエスを私たちの罪のために捧げようとなさるのです。(ローマ8:32)
エルサレムに行く前に、イエスはまずオリーブ山に行きました。最後の日々にオリーブ山で、神が王であることを明らかにすると、ゼカリヤは預言しています。(ゼカリヤ14:4-9)そこでイエスはエルサレムに入るために、ろばを頼みました。多くの巡礼者は歩いてエルサレムに入りました。しかしイエスは、ろばに乗ってエルサレムに入り、王はろばに乗って入って来るというゼカリヤ9章9節の預言を成就したのでした。
イエスは立派な馬には乗りませんでした。イエスが乗ったのは若い仔馬(こうま)で、おそらく、ろばだった言われています。それは、イエスがローマ帝国に対する反逆のリーダーではなく、謙遜と平和を示すためでした。
イエスはろばでエルサレムに入る選択をしたわけですが、これはダビデ王の息子であるソロモン王と似ています。第一列王記の1章32節から34節に、ソロモン王が戴冠式の時にらばに乗って入ったとあります。

イエスがエルサレムにろばに乗って入城した時、過ぎ越しの祭りを祝う巡礼者が何千人も来ていました。群集は喜び、熱狂して、イエスの前に上着を広げ、王冠をかぶった新しい王を称える道を作りました。(第二列王9:13)そして詩編118篇を引用して声を上げました。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」(詩編118:25-26)この詩編は、もともとは戦いの勝利を神に感謝する詩です。「ホサナ」は「私たちを救ってください。」という意味ですが、やがて、神を褒めたたえる時に叫ぶ言葉となりました。今日(こんにち)のクリスチャンが「ハレルヤ」と言うのと同じように。最後に、群衆はまたこう叫びます。「祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に!」ローマ帝国を追い出し、ダビデの王国を再建する救い主として、人々はイエスに期待していたようです。
その後、熱狂は静まりました。イエスが神殿のエリアに入って来ると、群衆は散っていったようです。人々の熱狂は偽りのないものだったでしょうが、どれだけ続いたでしょうか。この後、聖書にあるように、ユダヤ人の指導者たちによってイエスが逮捕された時は、群衆はイエスを十字架につけるよう要求しました。(マルコ15:11-14)この群集の中には、かつてはイエスを熱狂的に支持していた人がきっといたのではないでしょうか。

イエスに、ローマ帝国の支配から解放してもらいたいう人々の望みは大きなものでした。望みが高ければ高いほど、そうでなかった場合の落胆は大きいものです。でも前回マルコ10章45節で読んだように、イエスは、他者を踏みつけるような征服者ではなくて、仕えるリーダーであり、その使命は多くの人々のために自分の命を捧げることでした。

今日(こんにち)の私たちは、イエスをどんな存在として期待するでしょうか。私たちはイエスに何をしてほしいと望んでいるでしょうか。

<神に何を期待するか>
神に対してどんな希望や期待を私たちは持っているか、考えてみてください。多分、皆さんの中には、神はとても遠い存在で、現実にはいないと感じていて、神に何の期待もしていないという方もいるかもしれません。でもここにいる皆さんは、特別に意識していなくとも、神に何か期待を持っている方が多いと思います。

あなたは、バルテマイやエルサレムの群衆のように、奇蹟を望み、状況を変えてほしいと神に望んでいますか。
私の母は2年前に亡くなったんですが、その時、神は母を助けるために多くはしてくださらなかったと感じて、私は悲しい気持ちになりました。母は脳卒中で倒れたのですが、神に癒してほしかったです。
母は話せる状態ではなかったので、私が話したイエスのことを理解たできたのか、それを受け止められたのか、私にはわかりませんでした。
神に落胆することは普通にあることです。祈りが叶えられなかったり、予期せぬ苦難に見舞われたり、辛い人生だったり、聖書で理解できないところがあったり。神に何らかの行動を取ってほしいと私たちは望みます。何故なら、神は力強く、愛に満ちたお方ですから。
神に対してがっかりした時に私たちはどうしたらよいでしょうか。そんな時に役立つ、私がよいと思う方法が三つあります。

一つは、そのがっかりした気持ちを、自分に対しても、そして神に対しても受け入入れるということです。例えば、「神様、このようなことが起こり、辛いです」と神に向かって叫ぶのもよいでしょう。詩編には、そのような告白や率直な思いをうたった箇所がたくさんあります。

二つ目は、私たちが神に期待することと、聖書が神について教えていることがちゃんと一致しているかを、時間をかけて考えなくてはいけないということです。クリスチャンは、神を信じさえすれば人生がもっと楽になると思い込んでいることが、とても多いです。確かに楽になる面もあるかもしれません。しかし、イエスはこのようにも言いました。「…あなたがたは世にあっては患難があります。…」(ヨハネ16:33)
現実と聖書が言うことにずれがあって戸惑うことがあったら、他のクリスチャンに意見を聞いてみるよい機会ではないでしょうか。教会のコミュニティは、信仰を通して、物事を共に考えていくためにあるのです。

三つ目は、人生において葛藤があったら、それがたとえ信仰を持ち続けることの葛藤であっても、神に助けを求めるべきだということです。バルテマイにイエスが「あなたは私に何をしてほしいのか。」と尋ねた時のことを覚えていますか。バルテマイは次のように答えることもできたはずです。「何故神は目の見える者と見えない者を作ったのか。不公平だ。神がどうしてそうしたか知りたい」と。私たちが「何故」と質問することを神は気にしないと思いますが、神が理由を答えることは、ほとんどないでしょう。でも助けてくださいと私たちが求めたら、神は応(こた)
えてくださると信じます。バルテマイが「ダビデの子のイエスさま、私をあわれんでください。」と叫んだ時のように。

もし神があなたに、「私に何をしてほしいのか」と尋ねてくださったらと想像してみてください。あなたがどんな人でも、神に対してどんな思いを持っていても、神は真にあなたの言うことを聞いてくださるでしょう。ただし神があなたの話を聞いてくださるからといって、あなたの望みが叶えられるわけではありません。しかし、イエスは憐みの神であり、助けを与えてくださる神です。

数年前に私はひどい不安感に襲われました。それで何千年も前から、クリスチャンが唱えている伝統的な祈りをしました。その祈りで私は本当に救われました。「主なる神の御子イエスキリストよ、どうぞ罪びとである私を憐れんでください。」という祈りです。祈りそのものは、不安な精神状態を癒すことも、奇跡的な解決を与えてもくれませんでした。でも暗闇の中で、私はイエスに更に近づくことができ、それが私を支えてくれました。

<結び>
今日のメッセージをまとめます。皆さんは神に何か期待しているでしょうか。あなたの望むものがまだ神に叶えてもらっていなかったら、神に対する気持ちはどう変わるでしょうか。
反対に神があなたの望みに応えてくださっていたら、もっと希望を持って、神を信頼しますか。もしくは神がしてくださったよいことを忘れていませんか。
皆さんがバルテマイのように神と会話していくことができるように祈ります。神はあなたと会ってくださって、助けの源(みなもと)となってくださるでしょう。

<祈り> 
全能の神よ、あなたを褒め称えます。ひとり子、主イエスキリストによって、あなたは私たちを贖(あがな)いだしてくださいました。その愛を感謝します。イエスは聖なる都エルサレムに勝利をもって入(はい)られました。そして人々は上着を広げ、しゅろの木の枝で王を褒め称えました。
どうか私たちが、イエスキリストを私たちの王だと褒め称え、従い、永遠の命に続く道を歩んでいけますように。神、聖霊と共に、私たちと共におられ、永久(とわ)にすべ治(おさ)める私たちの主、イエスキリストの御名によってお祈りします。

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「神にあなたは何を願っていますか?」マルコ10章46節~11章11節