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今日はアモス書から4回目のメッセージです。今まで学んできたことを、「もしも」と言う言葉で振り返ってみたいと思います。もしも、様々な出来事で私たちが苦しむ時に、まず神に立ち返ろう、そして神の導きを得ようと思えたら、どんなに人生が変わるのかと思うのです。アモスの4章の12節には、「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」とありました。危険が訪れる、いろいろな天災に出会う、そんな時にこそ、私たちは神に目を向けて助けを求めることができるのです。そして、思いがけない神の守りや導きを得ることができるのではと思います。もしも、自然の驚異や災害を通して、神に目を向けて、神に祈り、神の助けや導きを得ることができるならば、私たちの信仰の歩みも変わって参ります。

2番目に、もしも、逆境な時にも、神を信頼して、正しい生き方ができたならということです。真の神に目を向けて、しっかりとした人生観を持って、天国の約束を握ってクリスチャンの人生を送れるならば幸いです。状況がどんなに悪く見えても神の愛は変わりません。ですから、私たちは神を信頼して、神を求めて生きるのです。5章の14節で、「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。」とあります。天地創造の神を信じ、神は私の人生を良くしてくださると信じ、生き方を変えるのです。将来が閉ざされていると思えても、善を求め、そして悪から離れ、主を求めて生きることがきっとできるはずです。主が、あなたがたとともにおられようとの約束があるのです。

3番目に、もしも、困難な時に、主に祈りを捧げることができたならということです。神は私たちのとりなしの祈りを聞いてくださるのです。私たちが悔い改めて、神と共に生きることを神は願っておられます。そして祈りを通して、私たちとともに歩んでくださるのです。7章2節には、「神、主よ。どうぞお赦しください。」とあります。そのような祈りをこの社会のために捧げていく時に、あなたの祈りを神は聞いてくださり、答えてくださるのです。アブラハムも祈りの人でしたし、民のために熱心に祈っています。アモスも祈りの人でした。弱者が助けられるようにと祈っています。私たちも、弱者のためだけではなく、日本のために、また世界のリーダーのためにも祈ることができるのです。神は私たちの祈りに答えてくださり、私たちを取り巻く状況はきっと改善していくものと思います。神はいつか正しい裁きをなされます。しかし、その時まで、とりなしの祈りをささげて、神の助けをいただきたいと願います。

今日はアモス書8章に入ります。神の裁きが北イスラエルに臨む。そのことが明らかにされている箇所です。では、具体的に見てみましょう。8章1、2節で、「神である主は、私にこのように示された。そこに一かごの夏のくだものがあった。主は仰せられた。『アモス。何を見ているのか。』私が、『一かごの夏のくだものです。』と言うと、主は私に仰せられた。『わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。』」とあります。夏のくだものと終わりが、語呂合わせになっています。ヘブル語では終わりとはケーツで、夏の果物をカイツと言います。アモスは、夏の果物を見ることを通して、北イスラエルの終わりが来たことを認識するのです。それは、北イスラエルがどんなに一時的に豊かにされても、神から離れてしまったが故に神によって裁かれる、その時が来るのです。

神の裁き、そして終わりは、どのような状態で起こり、どのような理由で来るのでしょうか。まず、3節で、「その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。神である主の御告げ。多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ。」とあります。本来喜びの礼拝が捧げられる場所である神殿での歌声が、泣き声に変わるのです。それは、北イスラエルがバビロンによって攻撃され、多くの人たちが殺され、そして神殿に投げ捨てられる、そのような状況が起こることが預言されています。そして4節には、「聞け。貧しい者たちを踏みつけ、地の悩む者たちを絶やす者よ。」とあります。国の政治家たちは貧しい者を踏みつけ、悩む者を助けることをおこたっていたのです。そして、この人たちは礼拝を捧げていると言いながら、5節の後半には、「安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。」と、商売のことで頭が一泊であることが示されています。彼らは、悪意を持って商売をしようと、神を礼拝しながら考えているのです。そして6節には、「弱い者を銀で買い、貧しい者を一足のくつで買い取り、くず麦を売るために。」とあります。彼らは貧しい者を不正の富で買い取り、奴隷にして、自分たちの道具として用いようとするのです。それも一足のくつとありますから、ただ同然のお金でです。そのような民のリーダーのために7節では、「主はヤコブの誇りにかけて誓われる。わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも、決して忘れない。」とあります。神の正しい裁きが訪れるのです。9、10節には、「その日には、神である主の御告げ。わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする。」とあります。ちょうどアッシリアによって北イスラエルが裁かれる日を、終末の日に起こる神の厳しい裁きと対比しています。それは、ただ外面的な裁きではありません。

11節には、「見よ。その日が来る。神である主の御告げ。その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」とあります。彼らは、国を失い、神のみ言葉に渇くのです。そのような時が来るとアモスは預言しています。彼らは、神のみ言葉を求めて、12節では、「彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを探し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。」とあるのです。ちょうど北イスラエルの今の状況のようです。彼らは、創造主を金の子牛に変え、神がお立てにならない祭司を立て、間違った宗教に陥ったのです。ちょうど、彼らの心はパンのききんではなく、主の言葉を聞くことへのききんに陥っていたのです。そのような現実が今起こっているのです。そして、それは主によって裁かれる、その時になって彼らはこの言葉の意味を悟ることとなるのです。

さて皆さん、イエス様はどのようなお方でしょうか。命のパンである方、私たちの心をみ言葉と聖霊で満たしてくださる方です。イエスは、命のパンそのものです。その箇所を見てみましょう。ヨハネの福音書6章32から35節までを見てみます。32節の後半から33節には、「しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」とあります。35節で、イエスは言われた。「私がいのちのパンです。わたしに来る者は決して餓えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」とあるのです。私たちは命のパンである主イエスを信じています。霊的な渇きをイエスは満たすことができます。また聖霊によって、私たちの内にキリストが住み、私たちが日々パンを食べるように、神のみ言葉をいただいて生きることができるのです。今、そのような人生を信仰者は歩んでいます。

北イスラエルの民は、国を失い、希望を失って、初めて神のみ言葉を求めるようになるのです。しかし、幸いです。失敗しても、挫折しても、神は自分の民をお見捨てにはならないからです。私たちもそのことに気づいていきたいです。命のパンであるキリストに出会うまでの人生は、決して本来の人生ではありません。不安や心配の中に生きている、それが神を信じるまでの人生なのです。「実に、主のことばを聞くことのききんである。」この状況に、北イスラエルの民と同様に、未信者の多くの方々がおかれているのです。しかし、イエスを救い主と信じる者は、命のパンをいただいて生きるのです。そうです、キリストに出会って人生を豊かにされて、命のパンを確かにいただいて、私たち信仰者は生きているのです。皆さん、一歩進んで、命のパンであるキリストを分かちあうことのできる人生を、キリストの助けによって歩んで行こうではありませんか。

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「実に、主のことばを聞くことのききんである。」 アモス書8章11節