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皆さん、今日は早いもので2月の最初の礼拝となります。前回はコリント人への第一の手紙 6章20節の御言葉、「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」との御言葉を分かちあいました。すべて神の栄光のためにとの思いを持って新たな年を生きたいと私は願っています。私の一日は、神への感謝の祈りから始まります。指が動くこと、足が動くことを感謝して、食器洗いと食器のかたづけをするのです。そして、体を動かしながら、この一日を神と共に生きることができるように祈り、一日を始めるようにします。加えて毎日、神に栄光をお返しできる一日でありますようにとの祈りを捧げます。

最近学んできたことを整理し振り返ってみます。ヨエル書から、主の日、神の裁きの日がいつか私たち一人一人に臨むことを学びました。ヨエルにおける主の日は、神の民や、また諸国民が裁かれる日として描かれています。それだけでなく、悔い改めて生きる者への祝福の日でもあることが指摘されています。

前回はオバデヤ書から、主の日に選ばれる民と滅ぼされる民がいることを学びました。その大きな理由は兄弟愛をもって他者を愛せるかです。ですから私たちは、イエスを愛するように他者を愛するのです。困っている人たちを助け、また病人を見舞う。このような小さなことを、キリストを愛するゆえになしていくのです。神は私たちの隣人愛を見ておられます。また、オバデヤ書から、神はエドムの国をその高慢のゆえに裁かれたことを学びました。高慢になり、兄弟愛を忘れた民。それが神の裁きの理由であると学びました。オバデヤ15節に、「主の日が万国の民に臨むのは近い。 あなたがしたようにあなたもされる。 あなたの報いはあなたのこうべに帰する。」とあります。主の日は、すべての国々の上に近づいているのです。あなたがしたようにあなたもされるのです。あなたの報いは、あなたのこうべに帰るのです。ですから、一人一人自らの歩みを見直して、神の前に正しく生き、また神を畏れて生活できるように心がけたいです。前回、そのようなチャレンジをいただきました。

今日の聖書の御言葉は、ゼパニア書2章3節の言葉です。そこには、「すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、 主を求めよ。 正義を求めよ。 謙遜を求めよ。 そうすればあなたがたは主の怒りの日に、 あるいは隠されることがあろう。」とあります。主を尋ね求め、義を求め、謙遜を求める。これらの言葉を真摯に受け取りたいです。一人一人、終末に生きるクリスチャンとして神の前にヘリくだり、絶えず主を尋ね求め、義を求め、柔和を求める(新改訳聖書訳)。そのような歩みをしたいと願います。

主の日のテーマがゼバニア書にも出て参ります。それらの御言葉をいくつか選んでみます。1章7節には、「主なる神の前に沈黙せよ。 主の日は近づき、 主はすでに犠牲を備え、 その招いた者を聖別されたからである。」とあります。主の日は、民の聖別の日でもあります。当時の人たちは神に出会うために動物を犠牲にして、罪を赦していただき、初めて神の前に立つことができたのです。私たち信仰者も、イエスの尊い十字架の犠牲のゆえに聖別されていることを忘れないで歩みたいです。主の弟子たちは、イエスが復活された日曜の朝を、主の日ととらえて礼拝を捧げ始めました。主の日は、聖別の日、礼拝の日でもあります。

ゼパニア書1章14節には、「主の大いなる日は近い、 近づいて、すみやかに来る。 主の日の声は耳にいたい。 そこに、勇士もいたく叫ぶ。」とあります。その主の大いなる日の内容は、続く15節から書かれています。「その日は、怒りの日、 なやみと苦しみの日、 荒れ、また滅びる日、 暗く、薄暗い日、 雲と黒雲の日、」とあります。主の日は、神の正義の裁きがなされる日です。ある者たちにとっては、それは、怒り、苦しみ、暗闇の日となるのです。私は、神の裁きの日がいつか来ると信じています。そして、その視点から世界の指導者たちのために、また日本に指導者たちのために祈ります。どうか、彼らが真の神を正しく畏れ、よい判断、政治ができるようにと。

その日は、18節には、「彼らの銀も金も、 主の怒りの日には彼らを救うことができない。 全地は主のねたみの火にのまれる。 主は地に住む人々をたちまち滅ぼし尽される。」とあります。私たちの銀も金も、何の役にも立たないのです。主の怒りの日には、彼らの銀も金も、彼らを救い出せないと書かれているからです。そして、その日はねたみの火にのまれるとあります。ねたみの意味を考えてみますと、その背景に、神は私たちを本当に愛しておられて、私たちと共に生きようとされておられるとの理解があります。しかし、私たちが神から離れ、自分勝手な歩みをする時に、ねたみとして、神の愛から生じる怒りの審判が下されるとも理解できると思います。主の日は確かに近づいています。一人一人がどう生きるのかと神は問われるのです。

さらに、ゼバニアは私たちに語りかけます。2章1、2節で、「あなたがた、恥を知らぬ民よ、 共につどい、集まれ。すなわち、もみがらのように追いやられる前に、 主の激しい怒りがまだあなたがたに臨まない前に、 主の憤りの日がまだあなたがたに来ない前に。」と。そして、3節で、「すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、 主を求めよ。 正義を求めよ。 謙遜を求めよ。 そうすればあなたがたは主の怒りの日に、 あるいは隠されることがあろう。」と語りかけるのです。主の日には、助け出される者たちが必ずいるのです。隠されるとは、怒りから逃れることができるとの意味です。神の怒りの日が祝福の日となる者たちが必ずいるのです。イエスの救いを受けいれる者は、確かに救われます。なぜなら、あなたの救いのために、イエス・キリストが十字架で代価を払ってくださったからです。同時に前回学んだように、モアブのように高慢になって滅ぼされる民もいる。その厳しい現実を私たちは受けいれなければなりません。共に集って、神に感謝と礼拝を捧げ、畏れの心を持って、謙遜に、神と共に生きて行こうではありませんか。

ゼバニア書2章10節には、「この事の彼らに臨むのはその高ぶりによるのだ。 彼らが万軍の主の民をあざけり、 みずから誇ったからである。」とあります。神を畏れず、主の民をあざけり、みずから誇る民を神は必ず裁かれます。反対に、神を信頼して、謙遜になって生きる民を神は残してくださるのです。もう一度確認しますが、高慢になり、兄弟愛を忘れた民を神は裁かるのです。そして、その事は歴史の中で証明されています。2章13節には、アッシリアの首都ニネベがその例として挙げられています。美しいニネベは、今では鳥たちや動物たちの住まいとなっているのです。私たちは特別だと言って誇った街に向かって、あぁ何と言う変化なのかと人々はあざけって手を振るのです。皆さんはどちらに選ぶのでしょうか。私は神に信頼し、どんなことがあっても、信仰を持って歩んでいこうと決断する者です。キリストの救いを感謝して生きていこう、キリストと共に生きていこう。高慢になることなく、へりくだって生きていこうと決断する者です。

もう一度言いますが、私の1日は皿洗いからスタートします。台所に立ながら、神様、今日も生かしてくださってありがとうと感謝します。指が動くのです。足も手も動きます。体全体が動きます。本当に感謝です。この体を持って神と共に生きたいと祈ります。神に栄光を捧げる一日であるようにとの祈りを捧げます。

ゼパニア書3章12節には、「わたしは柔和にしてへりくだる民を、 あなたのうちに残す。 彼らは主の名を避け所とする。」とあります。柔和にしてへりくだる民を、新改訳聖書は、寄るべのない民と表現しています。寄るべのない民は、ただ主を避け所とする民です。弱々しく貧しい者のように見えてもよいではありませんか。神にのみ信頼する者だからです。そして、13節には、「イスラエルの残りの者は不義を行わず、偽りを言わず、 その口には欺きの舌を見ない。 それゆえ、彼らは食を得て伏し、 彼らをおびやかす者はいない。」とあります。神を信頼して、神を畏れ、謙遜に歩む者を、神は日々の必要を備えて必ず守って下さるのです。それが聖書の約束であり、私たちの信仰です。

3章17節には、「あなたの神、主はあなたのうちにいまし、 勇士であって、勝利を与えられる。 彼はあなたのために喜び楽しみ、 その愛によってあなたを新にし、 祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる。」とあります。主に信頼して生きようと願う民を神は受け入れてくださり、その存在を喜んでくださるのです。彼はあなたのために喜び楽しみと書かれているからです。皆さん、へりくだり、 主を求め、 正義を求め、 謙遜を求めて生きようではありませんか。例え、寄るべのない民であっても、神が共に歩んでくださるのですから。

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「主を尋ねよ。義を求めよ。柔和を求めよ。」 ゼパニア書2章3節