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今回は、旧約聖書のハバクク書を取り上げます。このハバククは、エレミヤと同じ時期に活躍した預言者の1人です。エレミヤが語った預言は、今まで語ってきましたが、その内容は、南ユダはバビロンによって滅ぼされる。民はバビロンに捕囚とされる。回復の時が来て、約70年後にもう一度イスラエルに戻ってくる。時系列にはそのような内容でしたが、その預言をハバククは冷静に受け止めて、神の導きを求めることとなります。1章1節で、「預言者ハバククが預言した宣告。」とありますので、ハバククには預言者としての肩書きが付けられています。そう考えると、宮廷に仕える職業的な預言者であったと思われます。王の近くで、為政者たちの姿を見ながら、何が神の御心なのか、ハバククは神に問いかけています。ハバクク書の特色として、神の言葉を預かって民に語りかけると言うよりも、民に代わって神に問いかけ、祈りをささげる、その祈りと神の応答の形をとっています。

ハバクク書で最も有名な言葉、それは、2章4節の後半、「しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」との言葉です。この言葉は、新約聖書では3カ所で引用されており、旧約聖書の中でも最も有名な言葉の一つであると言えます。参照箇所、ローマ1:17、ヘブル10:38、ガラテヤ3:11。ここでの、正しい人とは、その行いが完全な人ではありません。ローマ書から、信仰によって罪を赦され、義と認められた人のことです。その人は、自分の信仰によって、日々のクリスチャン生活の中でキリストに似せられていくという救いを受けながら、最終的な救いの完成を目指して生きる人です。そのように解釈するのが正しいと思います。「しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」今日は、この言葉を中心にして、ハバクク書を学んでいきたいと思っています。

それでは時代的背景を見てみましょう。エレミヤと同じ時代に生きた預言者と言いましたが、エレミヤはヨシヤ王に仕えます。彼はヨシヤ王の進める宗教改革の努力を目撃します。しかし、ヨシヤ王の死後、彼の子供たちが再度偶像崇拝に戻る姿勢を目の当たりにします。このエレミヤの時代と同様に、今の世界の状況は本当に変わっています。21世紀になって、ありえないような戦争やテロの脅威に私たちは直面しています。当時の南ユダも同じような変化の状況にあったのです。アッシリアがバビロンによって滅ぼされる、エジプトもバビロンによって大きな敗北を記す。そのように状況は大きく変わり、その中で南ユダの指導者たちも大いに翻弄されます。宮廷の中から、ハバククはそれらの変化を見ていたと思われますが、彼にとって理解が困難なことは、南ユダ国がバビロンによって滅ぼされる、そんなことを神は許されるのだろうか。少なくても神の選民であるユダの民、その民が最も暴力的な異教徒によって倒される。そこに神の正義があるのだろうか。そのような葛藤であったようです。そのような思いを、彼は神の前に祈りとして表わしています。祈りつつ神のみこころを受け入れていく、そのような歩みをハバククはするのです。

ではハバクク書を開けながら、いくつか取り上げてまいりましょう。

1章2節から4節まで、ハバククの祈りが描かれています。南ユダの現実は、暴行や暴虐、闘争や争いが起こっています。そして神の律法が機能を果たさない。そのような現状を神に訴えています。2節には、「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が暴虐とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。」と祈りを捧げています。神の御心が、また、神の正義がいつ南ユダに訪れるのかとの祈りです、神の答えは、5節から11節にあります。それは、あなたは信じることができないかもしれないが、カルデヤ人、つまりバビロンの軍隊が南ユダを滅ぼす、その裁きは、神の御心であると言うことが示されています。5節の後半には、「わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。」とあるのです。神の公正を求めるハバククの祈りですが、南ユダはバビロンによって滅ぼされて行く、その厳しい現状が示される内容です。7節には、「これはひどく恐ろしい。自分自身でさばきを行い、威厳を現す。」とあります。バビロンが、自らを神の座に置いて、諸国を支配する、そのような厳しい裁きの現実が明らかにされています。12節には不思議な言葉が出て参ります。「主よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか。私たちは死ぬことがありません。」と。死ぬ事は無いとは、神の裁きが厳しいものでも、神の民であるイスラエルの民を、神は完全に滅ぼす事は無いとの信仰です。そして13節の後半で、「悪者が自分より正しいものをのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。」と訴えています。そして神の民が海の魚のように網に捉えられていく姿が表現されています。そして自らの力を誇り、力を神として礼拝する高慢なバビロンの姿が描かれています。

2章では、神のみこころが示されることをハバククは待っています。1節に「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。」とあるのです。預言者として、かつ、見張り人として神の答えを待っています。神はお答えになります。2節で、「主は私に答えて言われた。幻を書きしるせ。」とあるのです。この幻は、3節で、「この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」とあります。この幻は、2章の5節から20節にかけて書かれている内容ですが、バビロンも神の裁きに会うと言う、バビロンへの裁きのメッセージになっています。

私たちは今、今日の聖書の箇所のように、暴行や暴虐、闘争や争いを目の当たりにします。しかし、そのような中でも神の正しい裁きが確かに訪れる。そう信じる信仰者でありたいと思います。この社会は為政者の発言や行動によって大きく変わります。しかし私たちは、神を愛し、自らを愛するように隣人を愛する、そのような生き方を全うして行く必要があるのです。キリストの愛で人々を赦していく、そのような人生を歩んで行くのです。自己中心な指導者、自分の栄誉を求めていく指導者は、いつか神の裁きに会うのです。ハバククはこのことを私たちに示し、信仰者の歩みを、2章の4節で、「見よ。心のまっすぐでないものは心を高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」と語りかけるのです。

信仰について、ヘブル書11章1節には、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。望んでいる事柄、目に見えないものを信仰によって私たちは確信していくのです。ヘブル書は、そのような信仰者の一人として、旧約の時代に生きたアブラハムの信仰を取り上げます。8節で、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」とあります。どこに行くのかを知らないでも、神の御言葉に従う、これは信仰の決断です。11節では、サラの信仰を取り上げます。「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」とあります。約束してくださった方を真実な方と考える、これはサラの信仰です。6節で、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」とあるのです。神がおられ、報いてくださる、そのことを私たちも信じるのです。

このテーマは次回も取り扱いますが、皆さんはこの社会でどのような信仰を持って生きておられますか。私たちはキリストを信じて歩む者たちです。キリストは私たちに聖霊を注いでくださいました。キリストの御霊が私たちと共におられるのです。あなたの人生とキリストは共に生きてくださっています。その希望を持って歩んでおられるでしょうか。困難の中にも神の助けがある。私の人生を神が見ておられる。そして、神の前に畏敬の念をもって立ち、私の人生を天に引き上げてくださるまで、成長させてくださいとの思いを持って歩んでまいりましょう。

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「しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」ハバクク2章4節