↓メッセージが聞けます。(第二礼拝録音)
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ヤコブ1章19節には、「あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」と書かれています。そのこととは、17節にあるように、「すべての良い贈り物、また、完全な賜物は上から来る」ことを知っていることです。救いも、良い行ないも神から与えられるのです。そして、神は、私たちを、いわば被造物の初穂にしようとされていると語ります(18節)。救われた者はその信仰と行ないによって、やがて福音を信じて救われる人たちの初穂となるのです。そのことをあなた方は知っている、だからこそ、あなた方の言葉も信仰も大切なのですとヤコブは語り始めます。(参照、エペソ2:8-10)。聞くには早くとは、相手の言葉と共に、神の言葉を聞くことです。聞くことに関して21-25節に作者の思いが現れています。みことばから聞くことを通して、神の救いの大きさを味わうことができます。21節には、「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」と書かれています。すなおにみことばを受け入れる時に神の力がみことばを通して注がれます。良い地に種が蒔かれるように、種は成長し多くの実を実らせます。みことばを聞く、そしてそのみことばに応答する、そのことがみことばを実行することです。みことばによって私たちは変えられていくのです。(参照第一ヨハネ1:9)。25節では、みことばを完全な律法、すなわち自由の律法と表現しています。エレミヤ31章31-34節にあるように、聖霊によって自由の律法が私たちの心に与えられる新約聖書の時が来たのです。みことばが聖霊によって私たちのこころに与えられ、聖霊の導きでみことばへの応答ができるようになったのです。詩篇1篇1-2節には、みことばを喜びとし、そのおしえを口ずさむ者の歩みが美しく表現されています。その人は、悪者のはかりごとに歩まず、罪人に道に立たず、あざける者の座に立たないとあります。みことばにはその人を変える力があるのです。
次に、語るにはおそく(19)とありますが、26節以下にそのことが表現されています。「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」と書かれています。舌を制することができない者の信仰はむなしいとあります。舌を制することができずに、2章を読むと、お金持ちと貧しい者への言葉の暴力が始まって行きます。差別の言葉が発せられ、悪い考えで人を裁くことが始まってしまうのです(2:4)。聖書に聞く時に貧しい者でも富む者でも神の前に平等です。ヤコブ1:9-11節を再度読んでみてください。イエスも「こころの貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)と語られています。自分の舌を制御できない可能性が誰にでもあります。ですから語るには遅くしなさいと勧めています。言葉を発する前に、私は隣人愛を持っているだろうか。私のことばは聞き手のこころを励ますものとなっているだろうかと自分に問いかけてみてください。隣人愛は信仰者の美徳の一つです。信仰者になくてはならないものです。あなたの宗教をむなしいものとしてはいけません。だからこそ、語るには遅くと勧められています。
次に怒るにはおそいようにしなさい。と書かれています。その理由として20節に、「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」と書かれています。怒る時に、私たちは心の平安を失います。それだけではなく、憎悪や興奮に支配されてしまいます。そのような人間の限界に気づくべきではと思います。被造物の初穂となる使命を持つ私たちが、良い見本となることが出来なくなります。人の怒りは神の義を実現できません、との言葉の重みに気づきたいと思います。怒るにはおそく、そう自分に言い聞かせて、子供や家族のメンバー、そして教会の一人一人に向き合いたいと願います。
みことばを実行する、この聖書のチャレンジを受け入れたいと思います。私たちの言葉で、私たちの行動で、特に兄弟愛の実践で示して行きたいと願っています。そう、私もそのような成熟した信仰者に囲まれて育てられて今があるのですから。被造物の初穂として、次の世代を育てる者とならせていただきましょう。
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