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今回は、エレミヤ書から16回目のメッセージです。前回は、「その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。」(エレミヤ23章5節)とのテーマで語りました。もちろん、ダビデの正しい若枝とは、ダビデの子孫として生まれる私たちの救い主イエスを指している言葉です。4節には、「わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。」と書かれています。牧者たちとは、神を信じる新たなリーダーたちのことです。イエスを含めて、新しいリーダーが起こされるのです。イスラエルの民は捕囚とされますが、70年近い捕囚の年月の中で、もう一度自分たちの信仰を回復して、エルサレムに戻ってくることとなります。その際、新たに用いられた者たちは、エズラであり、ネヘミヤです。彼らのような新しいリーダーが立てられて、新たな時代が来るのです。歴史を振り返ると、その中心となる方がイエス・キリストです。キリストはベツレヘムにダビデの子孫としてお生まれになり、人類の罪の贖いを成してくださいました。新しい新約の時代を起こしてくださったのです。この方は、もう一度戻って来られ、さらに新しい世界をおつくりになるのです。そのような預言をエレミヤは私たちに伝えてくださっています。

今日は、29章の11-13節の言葉を取り上げます。とても励ましに満ちた約束です。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」とあります。この言葉は、捕囚とされた民にとって、本当に励ましに満ちた神の約束の言葉です。今日はこのみ言葉に目を留めながら、その歴史的背景を見てみたいと思います。

まず、29章の4-7節には、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「エルサレムからバビロンへわたしが引いていかせたすべての捕囚の民に。家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」と書かれています。たとえ捕囚とされても、国を失っても、場所はどこであれ、神の約束を握って希望を持って生きることが大切です。バビロンの地で、たとえ一時的にせよ、人生を楽しみ、家族を持ち、家庭を愛し、また、回りの住民のために祈り、その町が神に祝福されていくように祈る。それこそ捕囚とされた信仰者の生きる道であると教えています。私も、結婚をして新松戸や南流山に住み、町のために祈る、そのような使命を持って生きてきました。今は茨城に住みながら、町々の繁栄を祈る、そのような使命を続けて持っています。振り返ると、時間と共に、高速道路ができたり、新たなお店ができたり、茨城空港ができたり、つくばエクスプレスが開通したり、本当に茨城でも千葉でも私たちの祈りと共に、町の発展が起こってきたことに驚かされています。町の繁栄のために祈るというこのみ言葉の励ましに感謝しています。民は捕囚とされるという悲しい出来事を経験しますが、「わたしがあなたがたを引いて行ったその町」と表現されていますから、全てが神のご計画の中にあることがわかります。ところで、私たちが祝福を祈っている流山市には、今クリスチャンの市長が与えられ、日本でも最も注目される町に発展しています。信仰者はどこに住んでも神を愛し、民を愛し、置かれた町が祝福されるようにと祈るべきだと教えられています。

エレミヤ29章には、イスラエルのために神が与えられた祝福の約束の言葉が書かれています。29章10節には、「バビロンに70年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」と書かれています。罪を犯したイスラエルの民ですが、神がもう一度顧みてくださり、新たな歩みがスタートするのです。11節に、その計画は、平安を与える計画とあります。平安とは、神の契約に基づく霊的、かつ物質的な祝福の約束のことです。神を信じて、神に立ち返る者を神は決して見捨てないのです。そして、神はそのような者たちの生活を守ってくださるのです。神との契約に基づく平安は揺らぐことはありません。

神はさらに将来を私たちに約束されます。イスラエルに救い主が与えられ、救い主によって新たな救いが提供される時が来るのです。救い主イエスを信じる者は、神の民とされていくのです。あなた方に将来と希望を与えるとありますが、私たちはキリストにあって将来と希望が豊かに与えられています。たとえ今、厳しい現実に生きていたとしても、天国と言う永遠の希望を持って私たちは生きています。そして、12節には、あなたが私を呼び求めて歩き、とありますから、たとえ神殿のない異国の地に住んでも、御言葉を愛し、祈りを捧げ、毎週の安息を喜ぶ民となる時に、神はあなたに聞こうと約束されているのです。そしてあなた方は私を見つけるだろうと約束されています。神殿礼拝から解放された新たな礼拝が起こってくるのです。バビロン捕囚は悲しい面を持ちますが、祝福の面も多く持っているのです。

少し戻って、エレミヤ24章を見ますと、バビロンに連れていかれた民を、良いいちじくのようにすると語られています。エレミヤはその箇所で、二かごのいちじくを目撃します。2節では、「一つのかごのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものである。」と書かれています。人間の理解はとても限定的です。エルサレムに残されている民が祝福された民であり、バビロンに連れていかれた民は神から見捨てられた民であるとの思いを私たちは持ちやすいです。この当時、多くの民もそのように信じていたのです。そのように偽預言者たちが預言していたのです。ところが神の視点は全く違います。捕囚とされた人たちこそ神の祝福を受けることとなるのです。6節と7節には、「わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。」と書かれています。ここで大切なのは、捕囚とされた民は、困難の中で神の民であるとの自覚を持ち、神に立ち返って生きようと決断をすることです。そこに試練や困難を通して与えられる神の祝福が隠されています。試練や困難を通して私たち信仰者は成長するのです。そして、神の新たなご計画に気づいて生きるようになるのです。

私たち一人一人、キリストを信じる体験をいたします。しかし、一人一人の体験はみんな違っています。ある方は病気を通して、また挫折を通して、罪の自覚を通して、いろいな理由でキリストを信じるようになります。キリストは、私たちの過去も現在もご存知です。そして、信じる者に新たなご計画や希望を神は与えてくださっています。私たちは、キリストと共に新たな使命をいただいて生きるのです。新たなご計画は、平安を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだとのみ言葉をしっかりと握って歩んでいこうではありませんか。

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「私はあなた方のために立てている計画をよく知っている。」(エレミヤ29章11節)