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・前回の礼拝では、ここに連れてこられた女の人について、ほとんど触れることが出来ませんでした。
そこできょうは、ここに連れてこられた、この女の人に光をあててゆきたいと思います。
・当時、貧しい家庭に生まれた女性たちが、どのような生活をしていたのかですが・・これは、調べれば
調べるほど、当時の多くの女性が実に気の毒な状態に置かれていたということがわかってきます。
・2千年前のパレスチナ地方、その世界は、現代では想像できないほど封建的な社会でしたし、また信じられないほど男中心の社会でしたから、何と、女性は人間ではなく、父親か夫の持ち物の一つだったのです。
・まして、食べ物にも困る家庭に生まれた女性たちは悲惨な生活でした。物乞いになるか、身を売って生き延びるか、土を食べて死んでゆくしかない・・このような状況に追い込まれていった女性も多かったようです。
・私たちは、当時の女性たちが、こういうひどい現実の中に置かれていた、そのことを頭の片隅に入れておきながらこの聖書個所を読んでいかなければなりません。
〇ある日、主イエスは、朝早く、神殿の境内で、人々に教えておられました。 その時です。
そこに突然、旧約聖書の専門家である律法学者とパリサイ人たちが一人の女を連れてやって来たのです。
・夫でもない男とみだらな行為に及んでいたその女を現場から連れてきたというのです。
そして、「旧約聖書では、こういう女は石打ちの刑に処すべきと言っているが、あなたは、何と言うのか・・。」と、主イエスに迫ったのでした。
・ところが、主イエスは、このとき、そのようにまくし立てている彼らから目をそむけ、地面に指で何かを書いておられました・・。しかし、それでも尚、彼らは問い続けてやめないので、主は、「あなた方のうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そう言われるのでした。
・それを聞いた人々は、なぜか、一人、また一人と、そこから出て行ってしまったのです。
気が付くと、その場には、連れて来られた女の人だけが一人ぽつりと残っていたのです。
② 9節~11節にはこう記されています。
真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。 イエスは身を起こして、彼女に言われた。
「女の人よ。彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」
イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」
・彼女を責めたてること、また同時に主イエスを責めたてることに一生懸命であった人たちには、目を背けておられた主イエスでしたが・・主イエスは、この女の人には、真正面から向き合ってゆかれるのでした。
・そうです。主イエス・キリストは、このように、最も弱い立場の者の傍らに立って一人一人に赦しの御言葉を語ってゆかれる方であるのです。
・ここで主は、彼女の罪を責めるとか、戒める、そういうことは全くしていません。つまり、教育的指導のようなことはまったくなさいませんでした。
・「イエスは、なぜ、この人に、それは不潔な行為であること。そして、それは己の罪からきていることを、なぜ指摘しなかったのか・・これでいいのだろうか・・」
・「直接指摘しなくとも、間接的に、この人が自分の罪の深刻さに気付くような、そういう言葉があってもいいのではないだろうか・・」 このように思う方もおられるかもしれません。
・しかし、どうでしょうか皆さん。 人は、教育的指導によって、罪を知り、そこから離れてゆくのでしょう・・聖書はここで、そうではない、ということを教えているのではないでしょうか・・。
〇さて、この主イエスの御言葉を聞いた、この女性ですが・・彼女はこの時、意外な返事をいたします。
彼女の返事はこうでした。 11節「だれもいません」・・。
・これは、単に、誰もいなくなっている、というこの場の状況を説明しているのではありません。
物理的に、皆がいなくなってしまったことは、わざわざ言わなくても分かっていることです。
・彼女が「誰もいません」と答えたのは、「自分を罪に定める人は誰もいません」という意味であったのです。
③ 50年近く牧師という立場で歩んできた私にとって、この人の、この返事には驚きを覚えます。
・私の経験からすると・・このような立場にある人反応は、大体想像がつきます。
・たいていの場合は、このような状況に置かれた人は、ご自分の言い訳といいましょうか・・「自分はやむをえずこういうことをやってしまった」とか・・「こういう悪いことをしたのは、今度が初めてであった」とか・・「周りの人だってみんなやっている」とか・・そういう返事が返ってくることが想像できます。
・またある方は、「自分の夫は冷たい人であるとか・・ 夫は私の気持ちをちっともわかってくれない」とか・・
「ご自分が嫁いだ家庭が、難しい人ばかりだからとか・・姑(しゅうと)が変な人だから」とか・・この社会が悪とか・・そういうお話をされる場合が予想されます。
・つまり、このような場合、多くの人は、自分を顧みて、自分の罪深さを見つめる、ということはしないで・・
周りの人たちは、自分を責める、そういう人たちばかりであるということを訴えてゆかれる・・
こういうケースが多いと思います。
・しかしこの女の人は全然違っていたのです。
彼女は主イエスに、こう答えたのでした。:11 「誰もいません。」
つまり彼女は、こう答えたのです。「私に罪を定めた人ですか? そういう人は・・誰も居ませんでした。」
・彼女はすごい人だと思います。 普通なら多くの人はこうは言わずに・・
「イエスさま、今見ておられたでしょう・・みんなが私のような女をいつもなじるのです。いつも、みんなで私のような女を罪に定めようとするのです。この町中の人が、私のような者を罪深い女だと言って石を投げようとするのです。」
④ ところがこの人は、ここで、何と・・「誰も居ません」とだけ言ったのでした。考えてみますと・・
本当にこういう心の人がいるのだろうかと思う程に、この人の心は、純真であると思います。
・この言葉を聞いた、主イエスは・・心の中で「よし!」と思われたのではないでしょうか・・
とにかく、この時主イエスは確信したに違いありません。 → 「この人なら再生する!」
・歴史的御言葉が語られたのはその直後でした。 :11「わたしもあなたにさばきを下さない。」
・イエス・キリストは、この姦淫の女の人に、ご自身の口から直接、福音のことばを宣言します。
もしかしたら・・主イエスご自身から、これほどまでに、福音そのものを直接宣言されたのは・・彼女が
初めてだったかもしれません。
・勿論、ニコデモや、サマリアの女の場合もこの時と似ていますが・・これほどまでに、罪の赦しを、正面から宣言されたのは、この人が最初ではないかと思います・・。
・聖書を神の御言葉として毎日のように読んでおられる方々は、この11節の罪の赦しの宣言を読みますときに、別のところで語られた、主イエスキリストの御言葉を思い起こすと思います。
→「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
ルカ5:32他、合計三か所に記されている御言葉です。
⑤ 今から90年ほど前、名古屋に、とんでもない凶悪犯がいました。名前は石井藤吉といいます。
彼は何人もの人を殺害し、逮捕され、死刑を宣告されるのでした。
・収監され、死刑を待つだけの身になって、面会者も居ない・・そんなある日、そこに天使が現れたのでした。
カナダ人の婦人宣教師ウエストという方とマクドナルドという2人が、獄中にいた彼にお弁当をプレゼントしたのです。そして、その後もこの二人の宣教師は、聖書を届け、獄中訪問をつづけたのでした。
・ところが、獄中の石井は、当初、求める気持ちなど全くありませんでした。
ところが彼はまるで猛獣のようであったそうです。 しかし、そんな彼に聖霊のお働きがあったのです。
・宣教師からもらった聖書を何の気もなく眺めていた時、この猛獣のようであった石井は、イエスキリストの十字架上の御言葉に驚きます。それはルカ23:34の赦しの御言葉でした。
・この人の回心は、文字通りの回心でした。 猛獣から天使になった、と言ったらよいでしょうか・・。
人は、これほど変わるものなのか・・これは正に驚異的な実話です。
・回心したのち、彼が移送されるときには、彼の話を聞きたいと、立寄った警察署に大勢の人が集まってきたのだそうです。
彼は、歴史的極悪人でしたが、回心後の彼は多くの人から尊敬される人格者に生まれ変わったのでした。
・この人が書き残したものを読みますと、すばらしいことばかりなので、沢山紹介したのですけれども、
きょうはそのほんの一部分を紹介したいと思います。
〇石井藤吉の手紙のある部分を現代の日本語に変えて読んでみます。
・「周りの人たち、そして、法律は、私を懲らしめたり・・喜ばしたり・・様々なことをして、心をあらためるように、しむけたのですけれども・・自分は、ぜんぜん変わりませんでした。むしろ、ますますひどくなっていきました。 しかし、主イエスキリストの十字架上の御言葉「父よ。彼らを御赦しください。彼らは、何をしているのか、自分でわからないのです。」という、この赦しの御言葉が自分に届いたとき、私は、自分を変えることが出来たのでした。」
⑥11節のイエスキリストの御言葉にもどりますが・・
ここで、主イエスは、3つの事を、このような順番で語っておられます。
・「わたしも罪に定めない」・・次に「行きなさい」・・そして「今からは決して罪を犯してはなりません。」
・私たちは普通、このような人に、何かを言おうとする場合・・先ず、最初に・・「今からは決して罪を犯してはなりません」ということを最初に言いたくなります。
・確かに、最初に罪を犯してならないと言われれば、その人は、反省する気持ちになるかもしれません・・。
しかし、そういう言葉が先になるときに、はたして人は、再生する道に大きく踏み出すことになるのでしょうか・・人はそう単純ではないと思います。そこが人という生き物の難しいところ、弱い所です・・。
・主イエス・キリストは、最初に、赦しの宣言をなさったのでした。
「あなたを罪に定めません!!」そこから始められたのでした。
・言うまでもなく、この赦しは、こういう意味です。 「わたしが、あなたの罪の為に、身代わりとなって、十字架につきます。 その身代わりにより、あなたは赦されます。」この赦しです・・。
〇次に、主は・・彼女に、「行きなさい」と語っておられます。
「行きなさい」とは、どういう意味でしょか・・
・私は、この「行きなさい」と言われた御言葉には、こういう意味があったと思うのです。
・あなたは、この後、「あなたは罪人だ!」と町中の人に言われ続けるかもしれません・・。口で言われなくとも、人々が、そういう冷たいまなざしであなたを見てゆくことになるでしょう・・。しかし、あなたは、生きてゆくのです! 罪教えられた者として・・罪赦された者として、生き抜いてゆくのです・・。
・また、私は、この「行きなさい」という言葉には、もう一つの意味が含まれていると思います。
あなたは、「私は、石打ちの刑になるべき罪を犯しました。」と、告白しなければならない人がいるのではないだろうか・・
・そうです。あなたの夫のにです。あなたを愛する家族のにです。 あなたの為に祈ってくれている、
あなたのことをずっと案じてきた一人一人の所に、行きなさい! そして、洗いざらい、告白し・・赦しを請いなさい!そうすれば、そこから、罪を示されたあなたの、本当の再生した人生がはじまって行くのです。
・私は、この後、この人がきっと、この御言葉に従い、そして、再生していったに違いない。そう思います。
赦された者だからこそ、もう二度と、そのような空しい行為をしない、というよりも・・そのようなことは、二度とできない者にさせられていったに違いない。そう思うのです。
・今週も、私たちは、他人の罪を見るのではなく、己の罪を見つめながら・・しかし、その罪の根深さをも圧倒してしまう、主イエス・キリストの赦しを賜った者として、けして他の人を裁かず、いや裁けず・・
ただ主のその哀れみ深さを讃美しつづけてゆく、そういう一人一人でありたいと思います。
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