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ヨハネの福音書9章1節~3節 
さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。 
 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
 イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」

 

①この日、主イエスとその弟子たちは、エルサレムのまちなか(街中)を歩いておりました。

・ある所まで来ると、主イエスは、足を止めて、一人の人をじっと見つめておられるのでした。

・主イエスの眼差しのその先には、生まれたときから目が見えず、物乞いをしている一人の男が座っていました。

・この人は、いつもここに来て、ここで、物乞いをしていたのです。
ですから、この光景は、この街の、この場所の、一つの風景となっていました。

・つまり、この、目の見えない人が、ここに座っているこの光景は、人々にとって、極極あたりまえの日常であったわけです。

・ですから、通り行く人も、またイエスの弟子たちも、特別にこの人を見つめるようなことはありませんでした。

・しかし、主イエス・キリストは、このような人にこそ、目を注がれる方であったのです。

・その主イエスの姿を見た弟子たちは、不思議に思う、と同時に、今まではただ通り過ぎていたそれだけの、この盲人を、改めて見つめ直すのでした。

・すると、弟子たちの心の中にある疑問が浮かびました。 
そして弟子たちは、そのことを主イエスに尋ねます。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか・・」

・皆さんでしたら、もしこのような状態にある人をご覧になられた場合・・どのようなことを思われるのでしょうか・・。

・弟子たちは、心の中でこう思ったのです。
「この人が、このようなみじめな人生になった、その原因は何か・・この人がこのような災いを受けることになったのは、なぜなのか・・」 彼らは、その「因果」を知りたかったのです。

・もし、この時、誰かが近づいて来て、「この盲人はね、実は、昔悪い事ばっかりやっていた人なんですよ。それでね、神さまはその罰として、この人を盲人の物乞いにしちゃったのですよ。
自業自得ってもんですよ。」こんな風に説明してくれたら弟子たちは納得したのかもしれません。

➁しかし、この人の目が不自由であったのは、生まれながらのことでした。 このことは、周りのみんなが知っておりました。

・そこで、弟子たちはわからなくなったのです。 どんな因果で、この人がこのような災いを受けることになったのか、です。

・この弟子たちのような考えのことを、日本語では「因果応報(いんがおうほう)の考え方」と言います。

・ここにいた者たちは、イエス・キリストについてきた、一応、弟子でした。であるのに、彼らは、未だ未だ、どこにでもいるような人々の考え方を捨てきれずにいたのです。

・「人が不幸になるのは、人が災いを受けるのは、その人に、何かの因果があるに違いない!
 神さまの罰がこの人に下ったのでないだろうか・・その因果は何なのだろうか・・」 
こういう考え方です。

・いったい、この因果応報の考え方とは、何なのでしょうか・・一つの文化の問題なのでしょうか・・・
それとも、もっと根深く、人間の本質の問題なのでしょうか‥

・私は若いころ、「これは文化の問題なのかもしれない・・日本人独特な考え方なのかもしれない・・」
そのように思いまして、アメリカの宣教師のピーターソン先生と、ドイツの宣教師のメンツエル先生に同じ質問をしてみたことがありました。

・「この弟子たちと同じ考え方は、古イスラエル人や、日本人独特のものなのでしょうか?」
「それとも、先生のお国の方でも、こういう考え方をしてしまう方はおられるのでしょうか?」

・すると、どちらの先生方もほぼ同じようなお答でした。
 「確かに日本ではそういう考え方が強いと感じます。では、私たちの国にはこういう考え方がないか・・と聞かれると・・そんなことはないです。アメリカ人にもドイツ人にもこの考え方はあります。」

・どうやら、この考え方は単に文化の問題でなくて、時代や国や文化を超えた、私たち人間の本質に関わる問題であるようです。

③ではこの弟子たちの、このゆがんだ質問に、主イエス・キリストは、どうお答えになられたのでしょうか

・主はこうお答えになられました。→ 3節、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。 この人に、神のわざが現れるためです。」  

・私は、この御言葉に激しく感動するのです・・。 そうです。主イエス・キリストの、この盲人への眼差は、弟子たちの、その盲人を見る眼差とは、全く違っていたのです。

・主イエス・キリストの、この生まれたときから目の見えない人への眼差しは、弟子たちとはまったくの真逆でした、いや、真逆というより・・まったくの別次元のまなざしであったのです・・。

・そもそも、主イエスは、この生まれたときから目が見えない、この人のことを、災いとは言っておられないのです。では、何と言っておられるか、といいますと・・「この人の目が見えないのは・・この人に、神の業が現れるためです。」このようにおっしゃったのでした。

・「この人が、このような苦しい状況にあり、大きな課題の中に置かれている・・それは、神さまの栄光が、この人を通して表わされていくためなのです。」 
何という、優しい御言葉なのでしょうか・・ 何という、励ましと、希望と、愛に満ちた御言葉なのでしょう・・

④この、主イエス・キリストの御言葉、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
この人に神の業が現れるためです。」この御言葉は、私たちが今まで持っていた、古い人生観を激しく揺さぶり・・私たちが、そういう冷たい眼差から離れ、主イエス・キリストと同じまなざしへと大きく向きを変えてゆく、そういう御言葉であると思うのです。

・では、主イエス・キリストは、不幸な人とはどういう人のことだと思われているのでしょうか・・。
幸せな人とは、どういう人のことだと思われているのでしょうか・・。

・きょうの聖書箇所の出来事は、単純に言いますと、この人が、主イエスによって癒された、という出来事なのですけれども・・

・実は、この先の・・この人が「その後どうなっていったのか」について、そこまで見て行きませんと、主イエス・キリストのメッセージが見えてこないのです。

・幸いなことに、ヨハネの福音書は、この盲人だった人の、その後について、詳しく書き記しています。

・この盲人は、癒されてゆきます。

・では、この出来事を目の当たりにした街の人たちは、彼の所に集まって来て、「よかったねえ・・おめでとう!」そう言って大喜びしたのか、といいますと・・実はそうではなかったのでした。

・人々は、いままで、盲人で物乞いをしていたその人の目が明けられたことに仰天し・・
「これはいったいどういうことなのか」そう言い出して・・この人を、当時、敬虔な信仰者であると思われていた、当時の宗教指導者を多く輩出していた、パリサイ人の所に、まるで物でも持ってゆくかの様に、連れて行ったのでした。

・そこでパリサイ人たちは、何をしたのかといいますと・・この元盲人を厳しく詰問(きつもん)し始めたのです。「まさか、イエスがお前の目を治したなどと言うのではないだろうな!」
そう言わんばかりに、この元盲人に、無理やり「そういうことではありません。」と言わせようとしたのです。

・しかし、この元盲人は・・噓をつくことをしませんでした。そして、自分の身に起こった事実をそのまままっ直ぐに証言するのでした。

・すると、パリサイ人たちは困り果て・・結局この元盲人であった人を、「会堂からの追放処分」とするのでした。

・「会堂から追放」といいますのは、ユダヤ社会からの追放を意味しました。 あのルターと時と同じ社会からの追放です。

・普通・・、このように、社会から捨てられた人を、人々は不幸な人と考えます。では、彼の人生は、」この先、さらに不幸な人生となっていったのでしょうか・・。

・そうではありませんでした。 この追放された彼を見つけ出した方がおられたのです。それは言うまでもありません。主イエス・キリスト、その方でした。

・私は、その時のその場面を記した聖書個所が大好きです。 →
 同じ9章の35節~38節です。
 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。
 「あなたは人の子を信じますか。」 その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。 その人はどなたですか」
 イエスは彼に言われた。「あなたはその人を今見ています。」 あなたと話しているのが、その人です。」 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。

⑤ところで、皆さんがよく知っておられる、あのベートーベンは、こんなことを言い残しています。
 「最も美しいこととは、どんな事か」についてです。

・ベートーベンはこう言い切っています。 「神性(神のご性質のことですが・・)この神のご性質に、近づいて・・、その輝きを、人類の上に拡げる仕事以上に、美しいことはない。」

・確かに、神さまのすばらしさ、神さまの美しさを人々に広げて行く・・そういう考え方、そういう生き方をしてゆく人・・それは幸いな人、美しい人である、と、私も、そう思います。

・そして、ベートーベンという人は、正に、そういう仕事ができた人でした。

・しかしです。では・・、私の様な凡人はどうなのでしょうか・・

・私のような凡人は、この神さまの輝きを表すことができずに、ただわびしく人生を終えてゆくだけなのでしょうか・・

・きょうの聖書箇所を読んでゆきます時に、まったく、そうではない、ということがわかります。

・この個所に登場してきた、この人は、どういう人であったのかということを考えてみますと・・
目が見えず、その為に、物乞いしかできずに、毎日、街の片隅に座っていただけの人でした。

・彼は目が見えるようになっても、彼は別に、天才的才能の持ち主に変わったわけではありませんでした。

・しかし、その、何も出来ないと人々が思っていたその人に、主イエス・キリストは、こうおっしゃったのでした。 「この人に神の業が現れるためです。」

・そうです。主イエス・キリストは、誰が何と言おうと、皆さんお一人一人のことを、じっと見つめられて、このようにおっしゃるのです。 

・この人たちによって「神のすばらしさ、神さまの美しさ、神さまの真実さ、神さまの愛の深さ・・そういう神さまのすばらしさが現れるのです。」

・この主イエス・キリストのメッセージを心に秘めながら、新しい週も、一歩一歩、主にあって、歩んでゆきたいと思います。

「神のわざが現れるためです。」ヨハネの9章1節~3節