今回も、ヨナ書を取り上げます。前回指摘しましたが、ヨナは、実に愛国心に溢れた預言者です。第二列王記14章25節で、ヨナは、ヤロブアム2世の治世の時に、北イスラエルは領土を拡大すると預言をしています。悔い改めることのない北イスラエル、それでも神は彼らを愛して、ヨナを通して領土が拡大するとの預言がなされたのです。神は、北イスラエルが滅ぶことを願ってはおられなかったのです。ヨナが、神の命令に聞き従がえなかったその理由の1つは、神の赦しが、北イスラエル同様に、敵国であるニネベにも及ぶのではないかとの心配があったと思われます。4章の2節で、彼のそのような思いが表現されています。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」と。ニネベの民へのわざわいを思い直される、そのことをヨナは恐れたとも理解できます。

ヨナ書は、私たち人類への神の大きな愛を実にユニークに表現しています。みなさん、私たち一人一人、神の大きな愛を受けているのです。どんな人でも、神の愛を受けて、悔い改めの人生を歩むことができるのです。今日私は、神の愛の大きさと、新約聖書とヨナ書の関係とに視点をおいて話したいと思っています。

ヨナ書3章には、ヨナは神のことばとおりに、二ネベに行き、神の裁きを語った様子が表現されています。3章4節には、「ヨナは初め、その町にはいると、1日中歩き回って叫び、『もう40日すると、ニネベは滅ぼされる。』と言った。」と書かれています。叫ぶとは神の裁きのメッセージとともに、悔い改めのメッセージを語ることです。すると、そこに大きな奇跡が起こります。5節には、「そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。」とあります。ニネベの人たちの悔い改めは、一般庶民から始まり、支配者階級にまで及んで参ります。6節には、「このことがニネベの王の耳にはいると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。」とあるのです。そして、この王は8、9節で、「人も家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いとを悔い改めよ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」と語るのです。驚くような悔い改めの姿です。神様はニネベの民、それも暴力的で悪名高いアッシリアの民に、こんな驚くべき悔い改めを起こされたのです。私は、ただただ驚くばかりです。そして、もしこのことが本当に起こったのなら、それこそ神の大きな奇跡の技、聖霊の働きであっただろうと思います。10節には、「神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」と書かれているのです。

続く4章1節には、「ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。・・」とあります。私はこのヨナの姿に、イエスの時代の民の指導者であった、パリサイ人や律法学者の姿を思い浮かべます。自分は律法を守っている、安息日を守っている、だからこそ神に愛されている。逆に、異邦人は神の教えを知らない、それゆえ、神に裁かれるために生きている。そのように信じる彼らは、民衆から愛され、赦しの愛を教えるイエス・キリストを受け入れることができなかったのです。神の愛、神の赦しの中に生きるのではなく、律法に従って生きることこそが大切である。そのように彼らは、固く信じていたのです。彼らは、イエスを強く非難したのです。それは、イエスに出会うまでのパウロも同じです。そのような当時の指導者は、哀れみぶかく、情け深く、怒るのに遅く、恵み豊かである神様に出会う事は難しかったのです。

パリサイ人のような理解を持つヨナは、神からの特別な導きを受けます。それが4章5節からの出来事です。不機嫌になったヨナのために、神は特別にとうごまの日傘を提供されるのです。その日傘は枯れてしまい、ヨナはその日傘を惜しむのです。不機嫌になったヨナに神様がもう一度語りかけます。それがヨナ書の大切なメッセージです。そこには、神の大きな愛が表現されています。4章10、11節に、「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない。12万以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」とあるのです。この御言葉でヨナ書は終わっています。この言葉をヨナはどう受け止めたのかは、それは私たちの想像に委ねられています。

旧約聖書を読む時に、新約聖書との関係を考えて読むことが大切です。ヘブル10章1節には、「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物は無いのですから…」とあります。また、コロサイ2章17節には、「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」と書かれています。言葉を変えて言うならば、旧約聖書の律法や、さまざまな規定は、すべて新約聖書を指し示していると言うのです。もちろん、それらは、第一にイエス・キリストの十字架を差し示しています。また、恵による救いを指し示し、新しい新約の時代が来ることを指し示しています。

キリストご自身が、ヨナ書に言及して語っています。マタイ12章38節から41節までを読んでみます。「そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。先生、私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。しかし、イエスは答えて言われた。悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」

ヨナの魚の腹の中の三日三晩を、イエスは、十字架での死の後に、墓に収められて復活するまでの三日三晩に関連する出来事としてとらえています。イエスは、ご自身の十字架、埋葬、そして復活の出来事をヨナの出来事を通して預言しておられます。また、神の愛を受けた者は悔い改めて生きること、その悔い改めの人生のよき手本として、このヨナ書にイエスは言及されています。そして、ニネベの民は、誠の悔い改めの模範である事が、ルカ11章32節でも言及されています。私たちは、ヨナ書からどんな民も悔い改めて、神に立ち返ることができることを教えられます。悔い改める、それは、神との正しい関係の中に生きることです。創造主である神との正しい関係の中に生きるようになることです。悔い改めた者は、神を礼拝し、神に感謝し、与えられている賜物を用いて、精一杯神に栄光をお返ししたいと願って生きるのです。そのように、神との新しい関係の中に生きるのです。神様は全世界の神様であり、あなたの神でもあるからです。

私たちは、ヨナはどのように神の愛をとらえたのか、想像することしかできません。かたくなになってしまったヨナに優しく語りかけてくださる神様がおられたことが示されています。神の思いに答えることができないと背をむけたヨナ、そんなヨナに新たなチャンスを与えてくださる神様がおられたのです。同様に、キリスト者を迫害したパリサイ人パウロも、復活のイエスに出会い、人生が全く変えられた体験をしました。ヨナもパウロのような福音の理解を持ってのではと、私は思います。

北イスラエルは、紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされますが、そのような時代にエレミヤはこのように、北イスラエルに対しての神の愛を語りかけておられます。そこには、永遠の愛との言葉がつかわれています。エレミヤ書31章3-5節には、「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出ていこう。再びあなたはサマリアの山々にぶどう畑を作り、植える物たちは植えて、その実を食べることができる。』」とあるのです。神は永遠の愛を持って、北イスラエルを愛されたのです。同じようにヨナも、この永遠の愛が異邦人に向けても注がれていると言うことに気づいたのではと私は思っています。

最後にもう一度、永遠の愛が注がれていることに気づいて、その愛に応答して、私たち一人一人、悔い改めの人生を全うしていこうではありませんか。神様との正しい関係の中に生き、日々神に感謝をささげる、そのような人生を歩んでいこうではありませんか。

「わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。」ヨナ書4章11節