↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
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それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
 するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
 彼はイエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
 それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザーカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
 ザーカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
 しかし、ザーカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。
 だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

➀エリコという街に、「ザーカイ」いう名前の取税人がおりました。
この「取税人」いいますのは、税金を取り立てる人のことです。

・当時、この地方はローマ帝国の支配下にありましたので、当局は、通行税や人頭税などを、人々から集めてローマ本国に送金する為、税金の取立人を各地に配置していました。

・このザーカイは、その取税人の元締(かしら)でした。

・現代で言いますと、税務署の所長のような立場にあったと言ったらいいでしょうか・・

・しかし、当時の取税人のかしらは、集まってきたお金を勝手に運用して、金貸しもやっていたようですし・・

・そもそも、その税金の集め方は、現代の税務署とはまったく違っていて、かなり乱暴な取り立て方だったようですから・・、彼は、現代の税務署の所長というよりも・・ 現代で言うならば、「怪しい闇金融の元締め」と言った方がいいかもしれません・・。

・そういうわけで、彼は、街の人たちからとても嫌われておりました。

・ところで、この「ザーカイ」という名前の意味ですが・・これは「清い人とか、義人」という意味でした。 つまり、その自分の名前の意味と、彼の生き方は余りに違っていたのです。 

・名前は、清い人であったのですが・・、彼の日々の仕事は、貧しい人々からも、血も涙もなく税金を一方的に取りたて、その集めた金銭を利用して、金貸しをし、私腹を肥やしていたのです。

・そうです。彼は、大きな矛盾を抱えながら生きていたわけです。

・しかしよく考えてみますと・・ザーカイだけではなく、私たち、皆、大なり小なり、自己矛盾を心の内に抱えながら生きている、そういう一人一人ではないでしょうか・・
そういう意味で私たちは皆、ザーカイであると言えるのだと私はそう思うのです。

➁このザーカイは、ある日、「主イエス一行がやって来た」という人々の声を聞きます。

・この時期、主イエスは、人々から大変注目されていましたので、エリコの街の人たちは、この「今の人イエス」をなんとか一目見ようと、一斉に街の通りに集まって来たのです。

・一方、取税人のかしらであるザーカイは、その一行を見に行くのに少し遅れました。 
 仕事でもしていたのでしょうか。それとも、嫌われていた為、彼の所にこの情報が入ってくるのが遅かったのでしょうか・・(それはともかく・・)

・彼が道に出て来た時には、もう既に群衆がいっぱい道に繰り出していて、背の低かったザーカイは、群衆が壁となって、前がよく見えませんでした。

・そこで彼は、「このままでは、見過ごしてしまう。」そう思いまして・・、この一行が進んで行くであろう、その先の方に走って行き、そこにあったいちじく桑の木の所まで行き、そしてその木によじ登って一行を待ったのでした。

・この時、彼が何歳くらいであったのかはよくわからないのですが・・取税人のかしらになっていたことから考えると、30才~40才位ではなかったかと推測できます。

・つまり、いい大人です。 この、いい大人が、木に登って一行を待っていたというのです。
 子どもが木登りをしているというのならとても可愛い姿ですが・・いい年のおじさんが木に登っている、これは一般の人から見れば実に滑稽な姿であったに違いありません。

・しかし、そこに彼の必死さがにじみ出ていたのです。

③間もなく、主イエス一行は、エリコの街に入ってきたのですが・・その一行は、ありえない光景を見たのです。 何と、大の大人が木に登ってこっちを見ているではありませんか・・

・主イエスの弟子たちは、その滑稽さに、思わず笑ってしまったかもしれません。
しかし、主イエスはちょっと違っていました。 主は、恥も外聞もなく、木に登っている、その滑稽さよりも、その男の、その真剣さ、その切実さに、注目されたのでした。

・そこで、主イエスは、その男に向かって、このように声をかけます。 5節 「ザーカイ、急いで降りて来なさい。 わたしは、きょうあなたの家に泊まる事にしているから。」
・声を掛けられた、ザーカイは、一瞬、驚いて、木から落ちそうになります。
 自分の名前など知るはずもないのに、いきなり、「そこで木に登っているあなた」そのように声を掛けられたのではなく、自分の名前で呼ばれたからです。

・ザーカイは、その呼び掛けを聞き、大急ぎで木から降りてきます。そして、大喜びで、主イエスを自分の家にお迎えしたのでした・・。

④私が始めて教会の礼拝で、この聖書箇所からのメッセージを聞きましたのは、もう50年以上前になります・・

・その時の説教者は確かスイスからやって来た宣教師の先生だったと思います。
お名前などはすっかり忘れてしまったのですが・・兎に角、その先生は、終始ニコニコしながら、本当に嬉しそうに、この聖書箇所から語ってくださったのでした。
・この先生は、この時、メッセージの途中で何度もこうおっしゃいました。
「なんという愛なのでしょう!」

・しかし、素直でなかった私は、その言葉を聞く度に、だんだん引いてゆきまして・・、
「そうかなあ?どこが愛なんだろうか・・全然わからないなあ・・」そんな風に思うのでした。

・皆さんはいかがでしょうか? 木に登っていた男に掛けた、主イエスのこの言葉をどうお感じになられるでしょうか・・。ここで主イエスは、いきなり名前を呼んだかと思うと・・「あなたの家に泊まる事にしてあるから・・」そうおっしゃったのです。

・この、どこが愛なのでしょうか・・そのことよりも・・これは、あまりに一方的な言い方ではないでしょうか・・。

・一方的なことを言ってゆく・・その、どこが、愛だというのでしょうか・・。

○私を信仰に導いてくださったドイツ人宣教師のメンツエル先生も、よく言っておられました。
「神の愛とは、一方的なのです。」「その一方的な愛によって、私たちは救われるのです・・。」
しかしそういう説明を聞く度に、私は「そうかなあ・・?」と疑問に思うのでした。

・「愛と言うのは、もっと相手の事情を考えてくれて・・愛と言うのは、むしろ一方的ではなくて・・その人の、心の準備が出来てから・・その人の心が開かれるまで、づっとづっと、待っていてくれる・・そういうものではないだろうか・・」

・「愛と言うのは・・むしろ一方的なものではなくて・・相互関係によって、成り立つものなのではないだろうか・・」 そういう理屈が、私の心の中にどうしても湧いてきてしまうのでした・・。

➄しかしです。 この時のこの出来事を、ザーカイの立場になって、彼の置かれている立場の諸事情を考えながら、よく考えみますと・・このザーカイという男が、イエス・キリストと、真正面から向き合うことが出来るためには、この方法だけしかなかったのではないでしょうか・・。

・先程も申しましたが、ザーカイは街の人々から心底嫌われていました。ですから、もしも、ザーカイの方から、「イエスさま、私の家にどうぞお越しください。」などと申し出た場合、周りの人々の強烈な反発は必至でした。

・もし彼が強引にそのようなことを言い出したら、きっと、周りの人たちから猛反発が起こり、下手をすれば、暴動にさえなってゆく可能性さえあったと思います。 少なくとも、そんなことをザーカイが言い出したとしたら・・彼のその願いは簡単に潰されてしまったに違いありません。

・ですから、彼は、熱い思いを持ちながらも、遠くからイエスさま一行を眺めていることしか、できなかったのでした。
・もし、ザーカイが、主イエス・キリストと個人的に向き合うことができるとしたら、それは、たった一つの方法だけでした。 そうです。それは、イエスさまの方から、人々の前で、一方的に、断言的に、「ザーカイ。わたしはきょう、あなたの家に泊まることにしてあるから」と宣言される場合だけでした。

・昔の宣教師の先生が、「これこそ、主イエス・キリストの愛!」そう言っておられたのは、そういう意味だったのです。

〇さて、大喜びで主イエスを家に迎えたザーカイは、その結果どうなったのかといいますと・・

・:8 ザーカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。 だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」このように申し上げます。

・この言葉は、彼が、「私は今ままで、人々から税金と称して多額の金銭をかき集めていた、そういう人間でした。」という己れの罪の告白でした。

・またこの言葉は・・、「これから私は、そういう生き方とは、丁度180度反対の方向に生きてゆく者になります!」決心の表明でもあったのです。

・そうです。主イエス・キリストとの個人的な交わりを与えられたザーカイは、新しい人に生まれ変わったのでした・・。

・新しく生まれ変わった彼の内側には、新しい喜びが生まれました。 

・それまでのザーカイは、その名前の意味と、実生活が大きく矛盾していたのです。そして、その自己矛盾に彼は苦しんでいました。しかし主イエス・キリストをお迎えしたこの日から彼はその矛盾から解放されたのでした。ですからこの彼の言葉は、歓喜の言葉でもあったのです。 

⑥今日のこの聖書個所から私たちはもう一つ大事なことを読み取らなければならないと思います。

・このとき、主イエスは、このエリコという街にやってきたのですけれども・・エリコにいる、すべての人の救い主として・・やってきた・・という感じではありませんでした。

・「エリコにいる皆さん!私は、ただいま紹介されたイエスであります。きょうは、エリコにいるみなさんを・・罪と死の空しい世界から救い出すために・・こちらにやってまいりました・・」こんなことはおっしゃいませんでした。

・そうではありませんで・・主イエスは、一人の・・木に登っている男に向かって・・ 
「ザーカイ!急いで降りて来なさい。・・きょうは、あなたの家に泊まる事にしてあるから。」と、言われるのでした。 私は・・ここに感動します。 

・何でそんなことに感動するのか・・と、思われる方もおられるかもしれません・。

・よく、選挙に当選して政治家になりたいという方々が、こんな言い方をしていることをお聞きになったことがあるのではないでしょうか・・。
「私は、日本全国民の為に尽くしたいと思います。」とか・・「私は全人類の為に・・」とか・・

・しかしそういう言い方をしてゆく人たちの所に、果たして真実なものはあるのでしょうか・・。

・しかし主イエス・キリストは、そういう人たちの思いとは、ちょうど「真逆」でした。

・主イエス・キリストは、まるで街にこのザーカイしかいないかのように、彼を見つめ、彼の名前を呼んでゆかれたのでした。

・そうです。 救い主イエス・キリストこの方の、愛の容(かたち)は、このように、私たち一人一人を見つめ、そして、その私たち一人一人の名を呼んでゆかれる、そういう容(かたち)の愛なのです・・。

〇イザヤ書43:1にはこのように書かれてあります。
「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

・これは、大宇宙の中にあって、誠に小さな存在である私たち一人一人に、神さまは、かけがえのない一人一人としてしっかりと見つめおられる。 そして、その神さまはその一人一人の名を呼んでゆかれる方なのです。こういう意味です。

・そうです。きょうも、主は、あなたの名を呼んでおられるのです。

・私たちは、今週も引き続き、個人的で、特別で、一方的な、主イエスキリストの、その眼差しの中にある・・その喜びを心に秘めながら、一歩一歩、この方を仰ぎつつ、前進してゆきたいと思います。

ルカの福音書19章1節~10節「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」