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また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。
「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を残さなければならない。』 
  さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。
  こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。
  復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちだれの妻のなるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」
 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。
 死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
 死人がよみがえることについては、モーセの書にある芝の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。
 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」

① きょうの聖書箇所には、「サドカイ人と呼ばれていた人たちが、主イエス・キリストのところにやって来た」その時のやりとりが記されています。

・ここに登場した「サドカイ人」ですが・・、これは、日本人とか、アメリカ人というような、国籍を表す言葉ではありません。 また、民族や地域を表す言葉でもありません。

・彼らは、サドカイ派という「宗教的一派」に属していたので、サドカイ人と呼ばれていたのです。

・では、その「サドカイ派」とはどういう集団であったのかですが・・ 
 
・彼らは、当時の貴族、祭司、商人たち、つまり、裕福な階級の人たちによって構成されていました。 

・ですから彼らは、「今のままの社会がづっと続いてほしいと思っていました。
社会は変わらない方がいい。このように考えている、政治的に極めて保守的な人たちだったのです。

・その一方で、彼らの信仰はどのようなものだったのか、といいますと・・それは、実に世俗的であったのです。

・サドカイ人たちが権威を感じていたのは、神殿という建物と、モーセ五書といわれる、旧約聖書の、最初の5つの書だけでした。 

・つまり、彼らの信仰は、敬虔な信仰とは程遠く・・自分たちの都合にあわせた、かなりいいかげんな形ばかりのものだったようです。

・その表れとして、彼らには、復活信仰がまったくなかったのです。

➁そのような人たちが、この時主イエスのもとにやって来たのでした。

・この時彼らは、一つの作り話を用意してきました。 この作り話で、主イエスをやり込めようと計ったわけです。 

・おそらく、彼らが、このような形で主イエスに挑戦してきたのは、当時対立関係にあった、パリサイ派への妙な対抗意識があったからではないかと思います。

・それにしても、この時彼らが用意してきたこの話・・、現代の私たちからすれば、実に不潔な、作り話です。

・それはこのような内容でした。
「ある夫婦に、子供が無かった、しばらくすると、その夫は死んでしまった。」

・「残された妻は・・、子どもをもうけるために、夫の、その弟と、結婚した。しかし、子どもを残さず、その夫も死んでしまった。」

・「そこで、この妻は、その元夫の、さらに下の弟と結婚したが・・、同じように子供を残さずに、その夫もまた死んでしまった。」

・「こうして、この妻は、次々と7人の兄弟全部と、同じようにしたが、結局、子どもは生まれずこの妻も死んだ。」

・「この場合・・天国で、復活した時、この人はいったい、誰の妻となるのだろうか・・」

〇どうでしょうか、皆さんは、この彼らの変な作り話を聞いて、どのようなことをお感じになるでしょうか・・。

・私は、先ず、とても不快な気持ちになります。彼らは、「女は子を産む道具」そんな風に思っているだけでなく、動物たちでもありえないような実に不潔な話だからです。

・勿論、この様な人権無視の考え方は、今から2千年程前の人々の考えですから・・想定内といえば想定内かもしれません。 

③ では、このような作り話を聞いた主イエスはどのような反応をされたか、ですが・・

・主は、24節でこのように記されています。
「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているではありませんか」

・主はきっぱりとこうおっしゃったのでした。
「あなたがたは聖書の語っていることがまったくもってわかっていません。また、あなたがたは、神の力もまったく知らないので、そのために、あなたがたは、このような話を作り上げて来たのです。それは、あなたがたが、正に、思い違いの世界に入り込んでいるその証拠です。」

・彼らの思い違いとは、どういう思い違いなのでしょうか・・

・既にお気づきの方がおられると思います。
そうです。彼らは、この地上の生涯の、その先にある、次の世界を考える時に・・、正に、この地上での日頃の出来事を、そのまま、まるごとあてはめて考えているわけです。
ですから、ひどく滑稽な話になっているのでした。

・しかしこのような思い違いは、時代が変わった、現代の私たちには起こり得ることであると思います。

④私が、牧師の働きを始めて間もない頃、教会の婦人集会で、こんな発言をした方がおられました。

・このご婦人は、教会に来初めて、まだ間もない方で、60才位のご婦人でが・・私が赴任した最初の婦人集会で、いきなりこう言いだしたのでした。

・「前にいた、あの外人の先生は、最後に、<天国には私たちのために家が沢山用意されている>って言ってお国に帰っていったのですが・・私は、それって本当かなあ、と思うのですよね。」

・「まあ、天国には家があったとしてもですよ、その家がもし、4畳半ひと間くらいの家だったら、どうしよう・・そんな小さくて狭い家だったら嫌だなあ・・きのうの夜も、そのことをずっと考えていたんですよ・・」

・私は一瞬、冗談を言っているのだと思いまして、その方の目を見てみたのですが・・何と、その方は大真面目。正に真顔だったのです。

・そうです。この方は、ご自分の日頃見ている。そのご自分の生活、日常の経験・・その尺度をもって、次の世界である、天の御国を想像しているわけです。 
ですから話が、何か笑い話のようになってしまったのでした。 

⑤つまり、この方は、きょうの聖書個所に出て来るサドカイ人と、まったく同じ発想をしているわけです。
 
・ここでちょっと、新約聖書のエペソ3:18~19のところを開いていただきたいと思います。

・ここにはこの様に語られています。「あなたがたが、すべての聖徒たちと共に、その広さ、長さ、高さ、深さが、どれだけであるかを理解する力を持つようになり、人知を遥かに超えた
キリストの愛を知ることができますように。」

・ここは・・、少し前から読んでゆきますと、「祈り」であることがわかります。

・ここは、使徒パウロが、エペソの教会の人たちのためにこう祈っているところなのです。
「あなたがたが、人知を遥かに超えた、キリストの愛を知ることが出来ますように・・」です。

・別な言い方をしますと・・「人の知る範囲で、神さまの愛を考えている、そういう考え方をするのではなく、彼らが、人の知る所を、はるかに、はるかに超えた、神さまの愛を・・見つめていて・・神さまに全き信頼をしつつ生きてゆく・・そういう信仰者になってゆきますように・・」このように祈っているところです。

○先ほどのご婦人だけではなく、私たちは、誰も・・人の知る所・・その世界だけで・・神さまの事、その御国の事を考えてゆくという、そういう思い違いをしてしまう・・、そういうところがあるのではないでしょうか・・。

・50年も教会の牧師をしておりますと、この種の、真面目ですけれども、ずれている、そういうご質問を今までにたくさんお聞してきました。

・あるときは、「天国では、何語で話をしているのでしょうか?日本語でなかったらどうしましょう・・」とか・・

・あるときは、「天国では、みんなでハープを引いているのでしょうか?」と大真面目で聞かれたことがありました。

・では・・、そういう、思い違いの話に入ってゆかないで・・人知を超えた神さまの、御心を悟ってゆくにはどうしたらよいのでありましょうか・・

〇その答えは、先ほどお読みしました。24節の主イエス・キリストの御言葉にあると思うのです。

・ここで主イエスは、珍しく厳しく、きっぱりとこうおっしゃっておられます。それは・・
「聖書も、神の力もしらないからです。」

・では・・「聖書を知って歩んでゆく」というのは、どういう歩みなのでしょうか・・、

・それはこのような日々の歩みだと思います。
それは、実に地味ですが・・日々、聖書の語っているそのメッセージに、耳傾けながら・・、
また、その聖書の御言葉を、心に響かせながら、日々の実生活のその営みを続けて行く・・

・すると、その日常の、一コマ一コマに、神さまのご介入がある、ということに気づかされてゆく・・

・それは・・、ときには、力強い励ましの聖書の御言葉が響くときもあり・・誰かの口を通して、
語られることもあり・・どなたかの書かれた本の中にある言葉という場合もある・・

・そして、その、神さまのご介入は、・・いつも、時にかなってふさわしく、いつも、私たちの心の奥に染み入る言葉です。 

・それは、神さまならではの、哀れみ深さと、慰めと、励ましに満ちているのです。
 そしてそれは、私たちに、生きて行くための新しい力となってゆくのです・・。

・そういう、慰めと、励ましの言葉を受けながら生き方をしてゆきますと・・、私たちはいつの間にか・・人知をはるかにはるかに超えた御業をなさる神さまに、心の焦点が合ってゆくので不思議です。

・ですから、主イエス・キリストは・・ここで・・そういう、聖書も、神の力も実感しながら生きてゆく、その生き方を薦めておられるわけです。

⑥また、主イエスはここで、「聖書も神の力も知らないからです。」と言われただけではありませんでした。 何と、この不純な作り話を、何かいい話でもしているかのように語っている人たちに向かって、その質問に、正面からこう答えられたのでした。

・25節 「死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」
 ですから、あなたがたは勝手にあれこれと思いを巡らせてゆくことはやめて、私たちの知るところを、遥かに遥かに超えた神さまの愛とその御業に信頼していればいいのです。」

・そういえば・・あの使徒パウロも、ローマ書、第二コリント人への手紙、ピリピ書などで、何回も、御国で復活の恵みに与ったキリスト者のすがたについて、主イエスキリストと同じように
語っています。

・その代表的な所は、ピリピ3:21です。ここを改めて読んでみたいと思います。
→「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」

・そうです。 神さまが備えてくださる、次の世界。 それは・・、私たちが想像できる、そういうものを、遥かに遥かに超えて、恵みに満ちた世界なのです。

・主イエス・キリストこのように語られたのでした。
「死人の中からよみがえるときには、人は、めとることも嫁ぐこともなく・・、天の御使いたちのようです。」

・何という幸いなメッセージでしょうか・・。
 この地上に渦巻く、様々な、人間関係・・そこに発生する、様々な息苦しさ・・
 悲しみ、無念さ・・そのような言いようのない闇から・・神さまは、まったく解放された世界をあなたがたに用意されているのです。 主はこのように約束されているからです。

・この御言葉の、この希望をもって、私たちは、尚、尚・・、一歩、一歩・・、今週も・・聖書と、神の力を覚えつつ・・主にあって、この光の道を歩んでゆきたいと思います。

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マルコの福音書12章18節~27節 「聖書と神の力を知りつつ・・」