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今回は、「これはわたしの契約の血です。」(マルコ14:24)からのメッセージです。

弟子たちとの最後の晩餐でのイエスの言葉です。最後の晩餐の背景に過ぎ越しの祭りがあることを今日のメッセージで語っていきたいと願っています。加えて、ベタニアのマリアの感謝とイスカリオテ・ユダの裏切りについても言及していきたいと思っています。マルコ14章1-25節を読んでいただきたい。

3節からは、イエスに香油を注ぐ女性が登場する。「ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」と書かれている。頭に香油を注ぐ行為は、祭司や王の就任の時にする行為である。この女性の行為は、イエスこそ王であるとの思いがあったと理解することもできるし、持て成しや感謝の現れであったと理解することもできる。

ヨハネ12章3節には、「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」と書かれている。ここでは、足に塗ったとあるが、頭か足かは、弟子たちの見方や強調点の違いがその背景にあると私は理解している。

ヨハネは、ラザロが死人の中からよみがえったことを11章で記録している。ラザロの姉妹の一人が、マリヤであったことを理解する時に、この女性の感謝な思いが高価な香油を注ぐ背景にあったことが分かる。マリヤが悲しみの中で、イエスに、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:32)と語りかける。その姿をみて、「イエスは涙を流された。」とある。このようなマリヤの心を理解して、イエスはラザロを死からよみがえらされる。イエスの力と優しさに触れたこのマリヤは、自分のできる精一杯の感謝をこの油注ぎで表現しようとしている。そして、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐったとの表現に、彼女の感謝と持て成し、そして、このイエスと少しでも一緒に時を過ごしたいとの思いが表されていると私は理解している。彼女の献身的な信仰から私たちも多くのことを学びたいと願っています。

さて、それを見ていたイスカリオテ・ユダは、他の弟子たちと憤慨して言う。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。と書かれている。三百デナリとは、当時の人の一年間の給与に値する。

お金に支配されている人には、こんな無駄なことはできない。そう思うと、彼らがこの女性を責めるのも理解できる。イエスは言われる。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。・・・この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」(6-8節)と。

埋葬の用意にと、と表現されているが、何度もご自身が十字架に着くことと、三日目によみがえることを語ってこられたイエスを覚えておられると思う。十字架に着き、人類の罪の贖いをすることがイエスの使命であるからである。

お金に心を支配されているユダは、10,11節を見ると、イエスを売ろうとして祭司長たちのところに出向いて行った。とあり、お金の約束を取り付けると、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。と書かれている。ユダがイエスを裏切った動機には、金銭欲があったようである。(参照マタイ26:15)それ以外にも、政治的なメシアを期待していたのに裏切られたとの理解もあるが、サタンの誘惑に負けてしまった事実があることも忘れてはいけないと思う。(参照ヨハネ13:2、27)

12節からは、最後の晩餐の出来事が書かれている。16節には、その晩餐を過越しの食事と表現している。それでは、過越しの祭りとは、どのような祭りであろうか。その背景には出エジプトの出来事がある。エジプトで奴隷とされてしまったイスラエル人を解放するために、神はモーセとアロンをエジプトの王に遣わされる。神は9つの災いでエジプトを打たれるが、それでも心をかたくなにしてイスラエル人を解放しようとしないエジプトの王パロに10番目の決定的な災いが臨む。それは、初子の死という超自然的な力による災害である。同時にイスラエル人にとっては過越しの救いの時であり、解放の時となる。詳しくは出エジプト記12章を読んでいただきたい。

その主な内容は次のようである。イスラエルの全家族は、家族ごとに傷のない、一歳の子羊を取り、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱とかもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べることを命じられる。その夜、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子が主の使いに打たれる。しかし、子羊の血が塗られた門柱のある家は、過ぎ越され、災いから解放されるという出来事が歴史的な背景である。

この出来事をイスラエル人は、決して忘れずに自分たちのアイデンティティを保つためにも祭りとして祝うことが神から命じられ、イスラエルの3大祭りの一つとなっている。子羊の血の犠牲によって自分たちは解放され、救われたことを自覚する祭りである。種の入れないパンは、罪のない人生を考える手助けになり、苦菜を添えて食べることで、罪がどんな苦しみを自分たちの人生にもたらすかを考える手助けとなっている。

エレミヤ書31章31節には、「見よ。その日が来る。-主の御告げ。-その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。」と新約の時代が来ることが預言されている。新しい契約は、イエスが人類の罪を背負って、十字架に着くことからスタートする。十字架で神の子であるイエスが体をさかれ、血を流すことによって、人類の罪の贖いがなされていく。そのことを信じる者は、罪の赦しと永遠の命が与えられていく。行いではなく信仰による、新しい神との契約がなされようとしている。イエスはそのことを明らかにするために、弟子たちとの最後の晩餐で、最初の聖餐式を弟子たちと持たれる。

22-24節には、「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。『これはわたしのからだです。』また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これは、わたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』」と。最後の弟子たちとの晩餐で、最初の聖餐式が持たれたことは実に興味深い。

私たちも、聖餐に預かる時に、イエスの十字架を覚えて、イエスの尊い犠牲の故に救われていることを心から感謝するものでありたいと願う。

これはわたしの契約の血です