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マルコの福音書を読んでいますが、先月、先々月はたとえ話についてお話ししました。今日からは、イエスが奇蹟を起こす力を示すことで、ご自身の教えを証明し、自らを神の御子と明らかにするところを読んでいきたいと思います。イエスは自然、悪魔、病、死を超える力を持っておられます。今日は、マルコ4章の自然を超越するイエスの力について見ていきましょう。まずお祈りします。

マルコ4:3536

マルコ4章35節から41節までを読みましょう。

最初の35節36節で、「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われた。そこで弟子たちは、群集をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。」とあります。

ここでイエスは、たとえ話を通して群衆に教えられ、ちょうど終わったところです。イエスは岸の近くに船を停めて、その上から教えていました。(4:1)夜になり、イエスは湖の対岸に行くように弟子に言います。対岸は異邦人が多い地域です。(5:1)

ここでイエスは初めて異邦人の地域に足を踏み入れていきます。そしてその後何度も訪れます。(6:45、7:31、8:13)このことから、御国はイスラエル人を超えて広がっていくのだというイエスのお心が見えてきます。

マルコ4:3738

37節と38節には嵐のことが書かれています。「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか。』」

ガリラヤ湖は突風や暴風で有名で、イエスや弟子たちが乗っていたような小型の漁船は危険でした。波は船を転覆させてしまうような荒波でした。ところが、イエスは眠っておられました。

イエスは、一日の宣教が終わったところで、実は一週間の宣教をようやく終えたところでした。イエスの非常に疲れている様子から、イエスが弟子たちと全く同じ人間であったことがわかります。先月、クリスマスをお祝いしましたが、神は人間の肉体を持ってこの世に来てくださいました。イエスは神のご性質と人間の性質の両方をお持ちです。

イエスはお疲れになっていましたが、弟子たちが「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか。」と言って、イエスを起こしたので、貴重な眠りから目を覚ましました。私たちも、「こんなことになっているのに気にしてくださらないんですか?どうして助けてくださらないんですか?」と、どれだけ神に尋ねるでしょうか。

マルコ4:3941

続いて39節から41節です。「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。』 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」

イエスは神に、嵐を静めてくださいとは祈っておられません。イエスは、マルコの福音書の前の方にあったように、悪魔を叱るように、ただ嵐をりつけます。この奇蹟を目の当たりにした弟子たちは詩編107篇を思い浮かべたかもしれません。「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。主があらしを静めると、波はないだ。」(詩編107:28-29)

神だけが海を超越する力を持っておられます。(詩編65:8、89:10、ヨブ38:8) ですから当然、弟子たちは恐れと尊敬の思いでいっぱいになりました。弟子たちは『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」と思いました。ほんの少し前には彼らは嵐におびえていました。しかし、嵐を静めたイエスが共にいてくださって、彼らはイエスに対する畏敬の念で満たされました。

嵐を静めてから、イエスは質問を投げかけます。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」と。イエスは必ずしも弟子たちが恐れていることを叱ったのではないと思います。もしも死にそうな目にあったら、人間だったら怖いと思うのは当然ですよね。十字架刑の前にゲツセマネの園で、イエスでさえ恐怖の瞬間を経験しました。ルカの福音書22章44節には「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とあります。イエスは父なる神に完全な信頼をおいていたとはいえ、痛みや苦しみへの恐怖という人間的な感情にやはり影響をされたと思います。

恐れは信仰に対して疑念を抱かせます。恐れることや疑念を抱くこと自体は間違いではありません。恐れによって、燃える火には触らないようにするし、疑念を抱くことで詐欺にだまされるようなことから身を守ります。しかし、恐れによって正しいことができなくなったり、善なる神を信じられなくなるとしたら、それは悪影響をもたらす、ネガティブな力となってしまいます。

弟子たちの運命は嵐の手の中ではなく、神の御手の中にあることを、イエスは弟子たちにわかってほしかったのだと私は思います。自然は恐るべき力を持っているかもしれません。しかし、神は全ての自然の主なのです。支配しておられるのは神なのです。

イエスが「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」とお聞きになった時、つまりイエスは「あなたは本当に神が全能であることを信じているのか。神があなたのことを心配しておられることを信じているのか」とおっしゃっていたのです。

信仰を持つことは恐れがないことではありません。信仰を持つということは、神を見上げようと決心すること、神の教えを信じることを選び取ることです。

ある聖書学者はこう言っています。「眠っているイエスに信頼し、そのように思えないときでも神が私たちを心配して、私たちのために働いてくださるということがわかるには、大きな信仰が必要です。そのような信頼、信仰こそ、神が私たちの中に築き上げたいものなのです。」

恐れについて最近考えたこと

最近、神が恐れについて私に語ってくださったと感じたことがあったので、皆さんにお話ししたいと思います。昨年8月に母を亡くしてから、私は実はどんよりと暗い日々を送っていました。

「母の死というものがこんなにつらいのなら、また次に大切な誰かが死んでしまったらもう耐えられない。もし妻や娘が突然死んでしまったらどうしよう。もし父が、もし助言してくれる信仰の先輩が死んでしまったら?どうやってそのつらさに向き合っていけばいいのか」というようなことを思いめぐらしていました。毎日、私は誰かが死ぬことを想像して怖くなり、夜眠れなくなるほどでした。

この恐れの根底には、もう一つの考えがあったと思います。それは「もし神が力ある、よいお方であるなら、苦しみが何故存在するのか。」という考えです。神は本当によいお方で私を大切にしてくださっているのか、信じられなくなってしまったのです。

私の信仰が恐れによって揺さぶられたことは、ある意味よかったかもしれません。それは実は私は、苦しみやつらいことから自分を守ってほしいと、神に期待していたのだと、改めて気付くことができたからです。でも神はいつも私たちを苦しみから守ってくださるでしょうか。イエスご自身がヨハネ16章33節で「あなたがたは、世にあっては患難があります。」とおっしゃっています。パウロでさえ第二コリント1章8節で「兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危なくなり、」と書いています。

神は、クリスチャンの人生がいつも順風満帆な船の航海であるとは、決して約束しておられません。時に私たちは人生において、荒波にあい、船が難破してしまうというような経験をします。

私は聖書の神を改めて理解しようとすることで、自分の信仰の足元を固め始められていると感じています。そして詩編23篇4節「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」から、新たな励ましを受けました。これからの私の人生に苦難がなくなるとは神は約束しておられませんが、申命記31章8節で「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」と約束してくださっています。

先日、ちょうど日が暮れた夕方に私は3歳の娘を連れて公園に行きました。するとオートバイに乗った暴走族、一人でしたが、やって来て、ぶんぶんと爆音でエンジンをふかして、公園の周りを走りだしたのです。娘はその大きな音におびえて、大泣きしてしまいました。私は娘をぎゅっと抱きしめながら、「パパはここにいるよ。だからこわくないよ。」と言いました。でも娘をどんなにしっかりと抱きしめて、大丈夫だよと言い聞かせても、娘は慰められることを拒みました。恐れで娘の心はいっぱいになってしまって、私の腕の中で自分が安全であることがわからなくなってしまったのです。

神は私たちが恐れるものを必ずしも取り除いたり、防いだりなさいません。でも神はそのようなことが起こった時、私たちを優しく抱きしめてくださるお方です。

いずれ、愛する人の死に直面する日がまた来るでしょう。それはとてもつらいと思います。でも私は恐れにちゃんと向き合って、恐れで自分が打ちのめされないようにしたいと思います。何故なら、私は全世界をお造りになった神が、恐れに立ち向かう私の手を握ってくださることを信じるからです。

英語にこういう言い回しがあります。「最後には全てうまくいく。うまくいかないなら、それは最後じゃない。」クリスチャンにとって、物語の結末は、神が新しい天と地を創造し、全てを再び正しくするというものです。その新しい世界では悲しみも苦しみも死もありません。私たちはこの世で激しい嵐を耐え忍びながら、忍耐強くその日を待つのです。

結び

マレーシアの教会ではよく「目を上げて主のみ顔を」という賛美歌が歌われます。この賛美歌の後半の歌詞は「目をイエスに向け  そのみ顔見れば  栄光と恵みは照り 地のものは消え去る」です。普通はこの後半のみを歌うのですが、前半の1番の歌詞は、今日の宣教のテーマにとても関係していると思います。それは「心弱り悩み 闇を歩く時  救い主を仰ぐ  命与えられ」という歌詞です。

真っ暗闇の中でも、イエスの御顔(みかお)を見るための光は十分にあるはずです。暗すぎてイエスを見ることができない時でも、イエスはあなたを見つけることができて、あなたを抱きしめてくださいます。目が見えなくて、つまずいても、イエスはあなたを暗闇の中で導いてくださるお方です。

祈ります。

最愛なる父なる神様

あなたは望んでおられます。私たちが全てのものに感謝をするように。私たちが自分を失うことを除いては何も恐れることがないように。そして私たちを大切にしてくださるあなたを愛することができるように。

どうぞ私たちが信仰心のない恐れやこの世の心配事に支配されることがないようにお守りください。嵐の雲が、あなたのとこしえの愛の光をさえぎることがないようにしてください。あなたはその光を私たちの主、一人子イエス・キリストにおいて、見せてくださいました。感謝します。

父なる神、聖霊と共に今も、そしてとこしえにおられ、全てをすべおさめる私たちの主、イエス様の御名によってお祈りします。

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嵐を静めるイエス (マルコ4章35節~41節)