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大工であり王であるイエスを褒め称える

聖書箇所:マルコの福音書6章1節~6節

皆さんは店員さんと顔見知りになっているような、よく行く店はありますか。もしある日、その店員さんがいきなり、実は自分は日本の天皇なんですと、あなたに言ったら、どうですか。想像してみてください。あなたはどうしますか。想像すると、多分、今日の聖書箇所マルコの福音書6章に出てくる人々の気持ちを理解できるのではないかと思います。

マルコの福音書6章1節~4節

まず、マルコの福音書6章1節から4節までを読みます。

「イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。

安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。『この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。

この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。』こうして彼らはイエスにつまずいた。

イエスは彼らに言われた。『預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。』」

この箇所の前までは、イエスの行くところどこでも、イエスの教えや奇蹟は群衆に好意的に受け止められていたとマルコの福音書では記されています。イエスのことに懐疑的だったのは宗教指導者だけでした。しかしマルコの福音書6章に入り、イエスに反感を持ち、つまずく郷里の人たちが出てきます。

イエスのどの教えが彼らの反感を買ったのか、マルコの福音書では明らかにされていませんが、ルカの福音書で全体像が見えます。イエスはイザヤ書の巻物61章を読み、言いました。「わたしの上に主の御霊(みたま)がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」と。そしてイエスは「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と言いましたが、そのことで、郷里の人々は驚きました。(ルカ4:14-30)

イエスが幼い頃から大きくなっていくのを見ていた人々は、イエスがそんなことを言うとは信じられませんでした。ユダヤ人にとって、イザヤ書のこの箇所は、これから来るであろう王について述べている預言でした。ですから郷里の人々は、イエスがユダヤ人の王であり救い主メシアだと宣言しているとわかりました。

イエスの言動は郷里の人々の怒りを招き、彼らはイエスを侮辱しました。ユダヤ人の文化において、息子は父の名前を用いて呼ばれます。イエスが(「ヨセフの息子」ではなく)「マリアの息子」と呼ばれることは、イエスが婚姻関係外で生まれた私生児だと言われていることです。そのような呼び方で、当時ユダヤ人は何か不名誉な行いをした者を侮辱しました。

イエスはただの大工の息子なのに、イスラエルの将来の王だと自ら言うとは、家族を辱める行いだとみなされました。

イスラエルの長い歴史において、多くの預言者たちが人々に受け入れられなかったように、イエスもまた自分の郷里の人々に受け入れられませんでした。

それでは5節6節を読みましょう。

マルコの福音書6章5-6節

「それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。…」

前までの章と比較すると、イエスは、郷里では奇蹟のみわざを多く行うことができませんでした。郷里の人々の信仰がなかったために、イエスの奇蹟のみわざが抑制されてしまったと多くの聖書学者は解釈しています。

私は、イエスの御力(みちから)は私たちの信仰から引き出されるようなものではないと考えています。神であるイエスの力は、私たち人間の行動に左右されないと確信しています。むしろイエスが郷里で多くの奇蹟を行わなかったのは、郷里でイエスに助けを求める人があまりいなかったからだと思います。郷里の人々はイエスのことを、偉大な存在の振りをするただの大工だと思っていたからです。

この箇所で「信仰がないこと」や「不信仰」について書かれているので、少し時間をさいて、「信仰」という言葉を調べたいと思います。「信仰」という言葉は何を意味するのでしょうか。

古代ギリシャローマ世界、マルコの時代、「信仰faith」(ギリシャ語ではpistis)という言葉は、charisという言葉と一緒によく使われていました。Charisはgrace恵みと訳される言葉です。Pistisとcharisはパトロン(保護者、支援者)とクライエント(保護や支援を受ける人)との関係を表す時に使われる言葉でした。古代において、パトロンは王、クライエントは家来というのが普通でした。

古代、保護者であるパトロンはクライエントのためにcharis恵みの行為をほどこします。それに対しクライエントはpistisをお返しするという関係でした。このpistisは忠誠、忠実という意味を持っています。(Jason Georges and Mark D. Baker 参照)保護を受けるクライエントが忠誠を示すことで、パトロン(保護者)に名誉がもたらされます。

ですから、マルコの時代の「信仰faith」という言葉は、真実なものを信じるという意味だけではありませんでした。それは保護者や上位階級の人を称える目的で、クライエントが忠誠心や忠実さを示す行為でもありました。

イエスの郷里の人々は、イエスがイスラエルの約束された王であることを信じませんでした。そしてイエスに助けてもらう必要は感じなかったので、イエスを褒め称えませんでした。褒め称えずに、人々は「この人は大工で、マリアの息子ではありませんか」とイエスをあざけったのでした。

適用

今日の箇所の適用として、3点お話ししたいと思います。第一に、私たちの王だと言うイエス、そしてイエスの語るメッセージは多くの人々の反感を招くだろうということ。第二に、信仰は知的な信念だけでなく、忠誠、忠実の関係性があるということ。第三に、自分の過去を知る家族や昔からの友人にイエスのメッセージを伝えることは、難しいかもしれないということです。

第一の点、私たちの王だと言うイエス、そしてイエスの語るメッセージは多くの人の反感を招くだろうということについて説明します。クリスチャンがイエスは善良で、賢い教師で、示唆に富んだ人物だと言うのを、多くの人はよしとするでしょう。そしておそらく、癒し主であり奇蹟のみわざを行う人物としても認めるでしょう。しかし神としてはどうでしょうか。イエスが万物の王だって?ええっ?それはちょっとないな、クレージーだよと言うかもしれません。

現代では、権威、例えば両親、教師、政府というような権威に対して少し否定的な見方をしているように思います。欧米のメディアが主張するのは、自分が何をするべきか誰にも口を出させないようにした方がよいというものです。ですから、イエスのメッセージは反感を招きます。イエスは、私たちの命にまさる権威はイエスにあるとおっしゃっているからです。当然、人々はこう言うでしょう。「一体、あなたは自分を何様だと思っているんだ。これは私の人生だ。」と。これは理解できます。何故ならこれまでの歴史において、権力を濫用(らんよう)する権力者たちに人々はしいたげられてきたからです。

人々は王を受け入れないだけでなく、他人に頼ることさえも時に不快に感じます。神なんていらないと多くの人々は考えています。神に頼らなくても、自分の日々の人生をそつなくやっていくことができます。危機もうまく乗り越えられます。

しかし、イエスが私たちの王であるということを受け入れるかどうかは、私たちの今の人生、そしてこれからの人生を大きく左右するかもしれません。イエスがただのペテン師だと結論づける前に、イエスが私たちに語りかけていることをしっかり吟味することは極めて重要だと思います。

イエスの郷里の人々は、マリアとヨセフの息子であって、大工であるイエスのことを知りすぎていました。彼らはイエスの一面しか見られずに、受け入れることができませんでした。

時にクリスチャンも同じではないでしょうか。例えば、イエスは愛に富み、寛容なお方であると受け入れるのは簡単ですが、世の終わりにイエスが戻ってきて、私たちを裁くことを受け入れるのは難しいです。誰しも自分が間違っていて、神の御怒りに価する存在だなどと想像したくはないでしょう。

クリスチャン作家のC.S.ルイスはナルニア物語という子ども向けの本をシリーズで書きました。その中に出てくるアスランは、キリストを表しています。アスランは登場人物である4人の子どもたちを導き、守ります。アスランは実はライオンだと、一番幼いルーシィが気付き、驚き尋ねます。「アスランは安全なの?」ルーシィにとって、ライオンは危険な野生動物です。彼女は答えをもらいます。「もちろん、アスランは安全ではないよ。でも彼はよいお方なんだ。」アスランはおとなしいライオンではありません。

詩編2篇12節には「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」とあります。私たちはこの箇所で王の二つの面を見ます。それは、敵にとって王は危険な存在だという面、一方で王に保護を求める者にとっては、王は安全な場所であるという面です。

次に第二の点、信仰は知的な信念だけはなくて、忠実な関係性でもあることについてです。 クリスチャンとして、私たちはキリストの御名を背負って生きています。私たちがイエスの恵みcharis、つまりイエスの愛、イエスの愛に満ちた行いを受け入れるなら、私たちがどう生きるか、その生き方によってイエスを褒め称えることができます。(イエスの愛はあまりに大きいので)私たちがその愛に全てをお返しすることは不可能です。イエスが望んでおられるのはお返しではありません。イエスが望んでおられるのは、私たちがイエスとの交わりの中に生きることです。その交わりを通して、私たちは自然にイエスの望むことを実行できるようになるはずです。

また、イエスは誰かに仕えてもらうのを待って、ただ御座(みざ)に座っておられるような王ではありません。私たちが王なるイエスに仕えるのは、まずイエスが私たちに仕えてくださったからです。私たちがイエスを知らない時に、イエスは私たちの罪のために十字架にかかり、ご自身の命を差し出してくださいました。そしてイエスは私たちがまだふさわしくないのに、神の子どもとなる栄誉を授けてくださいました。ですから、私たちはイエスを仰ぎ、褒め称えるのです。

三点目の、家族や長い付き合いの友人にイエスのメッセージを伝えるのは難しいかもしれないことについてです。家族や古い友人たちは、まだ未熟だった、かつての私たちのことをよく知っています。おそらく私たちは自分がイエスの代理としてはふさわしくないと感じるでしょう。

しかし元気を出してください。心を変えることができるのはいつも神のみわざによるからです。人の心を変えることや、時には自分自身の心さえも変えること、それは人間の力ではありません。結局、人は神の恵みによって、イエスがどなたなのかを知り、イエスが必要であることに気付き、この賢く善良な王の支配の下(もと)にいたいと願うのです。

結び

ここまでをまとめます。信仰は単なる知的な信念だけではなく、私たちの王であるイエスに対する忠誠の関係性です。イエスのみことばに従うことを通して、この忠誠が目に見える形で示されます。私たちの忠誠はイエスを褒め称えることです。時にイエスへの忠誠によって、私たちは自分の評価を落としたり、命を危険にさらすことさえあるかもしれません。

イエスが私たちの人生の王であると認めるための十分な理由を、イエスは私たちに与えています。イエスは、ただで受け取ることができる恵みを私たちにお与えくださいます。でも、その恵みは決して安っぽいものではありません。そのために、イエスは十字架で命を捧げてくださいました。私たちがその恵みを受け取ることを決心したなら、私たちはその恵みに感謝し、イエスを褒め称える生き方をします。さて、皆さんはイエスを褒め称えますか。それとも自分の人生を自分でコントロールすることを選びますか。

時にイエスに仕え、従うことは難しいです。しかし、イエスにゆだね、イエスに従う関係でいることは、最も平安な場所にいることです。そして最も心が安らぐ時です。矛盾しているようですが、イエスに従うとき、私たちは最も自由です。そして最後には最も実り多い人生となるでしょう。

お祈りして終わります。

とこしえにおられる全知全能の 父なる神様、

その御旨(みむね)はあなたの愛する一人子、王の王、主の主によって

全てを新しくすることです

罪によって分断され、罪にとらわれている地上の人々が

イエスの恵み深き支配の下(もと)で

解き放たれ、一つになりますように

今も、そしてとこしえに、すべ治(おさ)める

主なるイエスさまのお名前によってお祈りします

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「大工であり王であるイエスを褒め称える」(マルコ6章1~6節)