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今まで学んできたことを簡単に振りかえってみます。ミカ書6章8節には、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義(公正)を行い、誠実(恵み)を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」とあります。その箇所から、私たちは、神の御心は、まず、モーセの十戒に基づく公正を行うこと、そして、恵みによって救われ生かされていることを感謝すること、また、神の前にへりくだって生きることであることを学びました。

ミカ書の後に続くナホム書からは、へりくだって歩むことを忘れてしまったアッシリヤに神の裁きが下ったことを学びました。しかし、アッシリヤの滅亡は同時に、ユダヤの民にとって解放のメッセージであったのです。解放だけにとどまらず、ユダヤの民には過越の祭りを祝い、自分たちのアイデンティティーを回復する、そのような幸いな時の訪れとなりました。そして、前回はこのナホム書から、私たちも、悪と戦い、信仰者としての人生を全うしていこうとのチャレンジを受けました。神は終わりの時、すべての民を裁かれます。信仰者も例外ではありません。しかし、私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです。

新約聖書の黙示録も神の裁きについて、同様なメッセージを伝えています。力強く、大バビロンは滅んだと私たちに語りかけるのです。必ず、神に敵対する勢力は神によって裁かるのです。サタンもキリストによって裁かれ、滅ぼされるのです。神の裁きの時がいつか来る、そのような理解を持つことは大切です。それは、私たちクリスチャンにキリストへの信仰を強く持ち、信仰を守り通すようにとチャレンジするからです。

マタイの福音書25章31節から46節までに、イエスは羊とヤギを分けることをたとえで話しています。それは、最後の審判のたとえです。そして羊を自分の右に置き、王はその右にいる者たちに言います。「さぁ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが乾いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」(34‐36節)と。
このたとえで、イエスは弟子たちに、神を愛する生き方、そして隣人を愛する生き方をするようにと励ましています。私たちは、イエスを愛するので、キリストの戒めを守るのです。そして、他者を、キリストを愛するように愛し、助けるのです。羊とヤギとを分ける事は、明らかに最後の審判が行われることの言及です。

信仰を守り通しなさい。これは、弟子たちに十字架を前にして語ったイエスの強いメッセージでもあります。イエス様は、マタイ25章で、花婿を待つ賢い娘になるように、一人一人が賜物を活用して天に宝を積むように。そして、その後で、この羊とヤギのたとえを語っておられます。イエスは、そのようなたとえ話を弟子たちに伝え、あなた方の生き方を、神は関心を持って見ておられるのです、と語りかけています。天国への目標を失わない人生を目指すようにと励ましておられるのです。

今日は、最後の審判のたとえの前に語られたイエスの2つのたとえを見てみます。最初のたとえは、花婿を待つ賢い娘のたとえです。マタイの福音書25章の1節から13節まで、賢い5人の娘と愚かな5人の娘のたとえが出てきます。1節に、「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。」とあります。そして3節には、「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。」と説明されています。4節には、「賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。」とあります。 夜中に花婿であるイエス・キリストが戻ってこられるのです。賢い者は入れ物に油を入れて持っていたので、ともしびに火をつけてイエスを迎えに行くことができるのです。油とは、この文脈から聖霊であると理解できます。5人の娘たちの信仰は聖霊に満たされ、生き生きとしていたものであったのです。現代の言葉で表現すると、彼女たちは、礼拝に出席し、兄弟姉妹との交わりを楽しみ、伝道のためにお互いに励ましあい、神への感謝をことばや献金を持って表すことを選んだのです。神を愛し、隣人を愛する、そのイエスの教えを忘れないで、この娘たちは生き生きとクリスチャンの人生を生きていたのです。反対に油を用意していないその娘たちは、信仰を失い、ただ教会に集っている形式的なクリスチャンとも理解できると思います。イエス様は、私がもう一度戻ってくる時に、あなたたちは聖霊に導かれ、また聖霊に教えられ、生き生きと信仰者として生きていますかと問いかけておられるのです。終末に生きる私たちは、このたとえからキリストとの交わりを喜び、生きた信仰を持ち、信仰を証する。そのようなクリスチャンでありたいと願います。

次に、マタイの福音書25章14節からは、「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出ていく人のようです。」と、新たなたとえをイエスは語ります。15節には、「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりには2タラント、もう1人には 1タラントを渡し、それから旅に出かけた。」とあります。16節には、「5タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに5タラントもうけた。」とあるのです。タラントとはお金の単位ですが、文脈からその人の能力を表すお金であると理解できましょう。5タラント、それは大きなお金です。1タラントでも、当時は労働者の6000日分の給与であったからです。約20年分の給与にあたります。5タラント預かった者は、自分の能力や賜物を用いて、5タラントを2倍にするのです。同様に2タラント預かった者も2タラントの儲けを出します。自分の能力を精一杯用いて、利益を生み出したのでしょう。18節には、「ところで、1タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。」とあります。この者は、自分の能力を用いようとせずに地面に隠して、主人が帰ってくるのを待ったのです。ここで問われるのは、この者の姿勢です。それが24節に表現されています。この者は、この主人を蒔かない所から集めるひどい方であると思っていたとあるのです。主人への信頼が全く欠けています。ですからこの者は地を掘って、その主人の金を隠したのです。一人一人の働きを評価して、この主人は、5タラント預けた者に、また、同様に2タラント預けた者に、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びを共に喜んでくれ。(21節)」と語るのです。ところが、何もしなかった者には26節、27節で、「ところが、主人は彼に答えて言った。悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。」と語ります。地面に隠しておくより銀行に預けておく、誰でも判断ができることです。そうすれば利息がつくからです。何かの利益を生み出すからです。そして29節には、「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」とあります。ここに信仰の法則があります。神を愛し、神を信頼して歩む者を神は祝福してくださるのです。持っている者はさらに豊かになる、それは彼が神の祝福を分かち合って生きるからです。反対に持たない者は、たとえ与えられていてもそれにきづかずに、それを用いようとはしません。彼は、何も生み出さないのです。イエス様は私たちに問いかけます。あなたはどう生きますかと。信仰を持ってどう生きますか。神がともにおられるのですよ。あなたは何を生み出していくのでしょうか。良い忠実なしもべになりなさい。わずかなものに忠実だったから、私はあなたにたくさんのものを任せたい。これは天国の祝福の姿なのです。

私はアメリカで勉強していた時に、比較的に大きな教会に出席をしました。その教会は私を経済的に支えてくれました。教会スタッフや牧師も何人もおられて、それぞれに違った働きを担当し、教会に仕えていました。1人の高齢の牧師ですが、彼は会堂の管理を任されていました。決して前面に出る事は無いのですが、彼は自分の行いによってキリストを証しする、そのような牧師でした。会堂の清掃のためにボランティアの人たちを集めて率先して手本を示してくださいました。私にとって、彼の後ろ姿がとても輝いているように見えました。彼は1度も公の礼拝でメッセージは語りませんでしたが、主任牧師に仕え、自らが良い管理者として教会に仕える、その人生を全うしていたのです。そこに人を惹きつける魅力があったと思います。

神様はあなたにたくさんの賜物お与えになっています。あなたの賜物、それはあなたの個性でもあります。自分の個性に気づき、自分に与えられた賜物に忠実でありたい、そのように生きる生き方こそ、神様は関心を持って見ておられるのです。終末に生きる私たち、また神の審判が近づいている時代、華やかな人生に目が行きやすい世界に生きています。それは教会においても同じでしょう。たとえ小さな教会でも、自分の賜物を地に隠さないで用いていく。キリストの愛に答えようとして生きる。そのようなクリスチャンがいるので、教会が祝福され残されて行く、そう私は思っています。

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マタイ25章21節「よくやった。良い忠実なしもべだ。」