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今日は、ミカ書から2回目のメッセージです。前回と同じテーマを選びました。特に、誠実(恵み)を愛することに視点をおいて考えてみたいと思います。6章8節には、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」とあります。

まず、公義ですが、公義とは、神の律法に基づいた正しさであることを前回学びました。公義との言葉には、その背景に神の律法があります。律法の中心であるモーセの十戒には、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。人を殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない、などと神のみこころが示されています。この十戒の教えに基づいた正しさ、それがここでの公義の意味です。公義を行う、その視点で私たちも世界、また日本の指導者を見てみたいと思います。そして、民のために、公義に基づいた行政を行うことができるように、私たちも指導者のために祈る者でありたいです。同様に私たちも、神の律法に基づいた正義を意識した行動を目指して行きたいと願います。

次に、今日のテーマである恵みについて考えてみましょう。特にキリストの恵みに視点をおいてみたいと思います。ミカ書の中に、キリストの預言をいくつか見出すことができます。まず、イエス・キリストの誕生の預言です。5章2節には、「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」とあります。ベツレヘムとは、パンの家との意味があり、エフラテとは、ちりとの意味があります。ベツレヘム・エフラテとはエルサレムから南西に8キロほど離れた所にある町の地名です。救い主イエスは、ちりのような小さな町ベツレヘムで生まれる、そのことをミカは預言しています。そして、3節では、「彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。」とあります。救い主であるイエスが、家畜小屋で生まれ、仕える僕として生き、同時に大いなる力をもって群を導いてくださるのです。ミカはイエスの誕生と、イエスの羊飼いとしての働きを預言しています。

7章18節には、「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。」とあり、19節では、ミカの祈りが続いています。「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。」と。18節の言葉はイエスの姿をよく表しています。イエスは、私たちをありのまま受け入れてくださり、私たちの罪を赦してくださる方です。それも、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてくださるのです。そのような恵みにあふれる大いなるお方が、救い主イエスです。この救い主が、私たちを含めた残された民の先頭に立たれて、彼らを祝福し、一緒に歩んでくださるのです。

5章7節には、「そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。」とあります。主イエス・キリストが残りの者を祝福し、ちょうど露や夕立が草花を潤すように、神の豊かな恵みを彼らに注いでくださるのです。そして、残りの者は勝利の人生を歩むのです。そのような内容が、8節に預言されています。ヤコブの残りの者は、「森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。」とあるのです。残りの者は、キリストにあって、このように力強く神の業をなす者たちに変えられるのです。9節には、「あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。」とあるのです。クリスチャンはキリストとともに、いつかこの地上をおさめる者となるのです。そのような希望を、これらの箇所は私たちに与えています。

ミカと同じ時代に、イザヤも預言しましたが、イザヤはこの救い主が仕える僕として、私たちの罪を背負い、十字架で苦しみ、罪の贖いをなされる、そのように預言をしています(イザヤ53章)。救い主イエスは、仕える僕の姿を取り、十字架での贖いをなされるのです。ちょうど旧約聖書は影のようなもので、その実態はキリストにあるのですが、旧約全体を通して、私たちは救い主の働きの全体を理解することができます。

ミカは私たちに、力強く変えられたクリスチャンの姿を見させてくれます。クリスチャンはサタンに勝利します。それは、エペソ人への手紙の中で美しく表現されていますが、ミカ書のなかでも見ることができます。5章2節から、もう一度、丁寧に見てみましょう。終末の視点から見てみます。最初に救い主はベツレヘムで生まれることが預言されています。そして救い主の誕生は、ユダヤの民だけではなく、異邦人にとっても大きな希望であることが、3節に表現されています。まず、「それゆえ、産婦が子を産む時まで、彼らはそのままにして置かれる。」とあります。イエスの誕生まで、イスラエルの民は神の守りの中におかれるのです。そして、続いて、「彼の兄弟のほかの者は、イスラエルの子らのもとに帰るようになる。」とありますが、兄弟の他の者とは、新約時代のキリスト者であると理解できます。この救い主の誕生によって、異邦人である私たちが信仰持ち、イエスに立ち返って行くのです。そしてこの方は、4節で、良い羊飼いとして、信仰者の群れを養われるのです。

5章5節からは、アッシリアとの関係で平和を取り扱っています。アッシリアは、非常に悪名高い国でありました。その残虐性は、ちょうどサタンに支配されていた民のようです。しかし、そのサタンの働きにキリストは勝利するのです。それも残りの者を用いてです。神は残りの者たちを祝福して、神の御業を成すのです。5,6節には、サタンに勝利する7人の牧者と8人の指導者が描かれています。7,8との数字にとらわれる必要はありません。多くのサタンに勝利する牧者や指導者を神は起こしてくださると理解できます。彼らは、イエスの助けによって、サタンの攻撃に勝利を収めるのです。そのような視点でこの箇所を見ると、イエスを信じて歩む者たちへの神の勝利の業を見ることができます。

パウロの手紙であるエペソ人への手紙2章1,2節を見てみましょう。「あなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」とあります。人は、キリストを信じるまで、サタンの支配の中で生きているのです。実に悲しい現実です。そのような人間観をパウロは持っています。しかし、キリストの十字架の恵みによって、2章5,6節には、「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、― あなた方が救われたのは、ただ恵みによるのです。― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらされ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とあるのです。サタンの支配からキリストの恵みの支配に移されている、これがクリスチャンの姿です。

エペソ人への手紙2章7節には、「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」とあります。皆さん、私たちは、恵みによって、キリストを信じる信仰によって救われています。大胆に私は、サタンに勝利していますと、信仰の告白をいたしましょう。私たちのクリスチャンの人生は、キリストの贖いの技のゆえにスタートしたのです。キリストの恵みを大いに喜び、聖霊の助けをいただいて、神に栄光をお返しする。そのような人生を歩んで参りましょう。

もう一度、今日の聖書の箇所を読んでみます。6章8節には、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実(恵み)を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」とあります。ただ公義を行い、キリストの恵みを愛する。そして、へりくだってあなたの神とともに歩む、そのような人生を目指して行こうではありませんか。神の豊かな恵みがあなたにも今注がれているのですから。

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「主は何をあなたに求めておられるのか。」第二 ミカ書6章8節