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今回は、エレミヤ書から2回目のメッセージです。前回は、エレミヤが神によって召された出来事を学びました。その時神がエレミヤに、「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知っている」と語られました。あなたを知っているとは、選び出したと訳されている言葉が使われています。選び出した、知っている、との意味を持つ言葉を用いることで、神はエレミヤを選び、彼を親しい交わりにおいて育てて行こうとされたのです。神はエレミヤだけでなく、私たち一人一人の人生も知っておられます。そして、私たちをエレミヤ同様に有用な信仰者として育てようとされるのです。神は私たちを愛しておられ、私たちの信仰を育てようとされています。そのような信仰を持つ者でありたいと願っています。今回はエレミヤ書2章の内容に入ります。まず2章からは、エレミヤは民の罪を告発します。それは、神の恵みから離れてしまったイスラエルの民に、彼らの現実の姿を明らかにする必要があったからです。私たちはこのエレミヤのみ言葉から、神の恵みによって生かされていることに気づく者でありたいと願っています。それではエレミヤ書2章お読みください。

前回私は、ヨシヤは宗教改革を成した王であったことを述べました。具体的に述べますと、エルサレムにある神殿を修復した時に律法の書が偶然に見つけられます。神の民であったイスラエルの民も長年偶像礼拝に陥り、聖書のみ言葉に触れることがなくなってしまっていたのです。ヨシヤは神のみ言葉に触れ、自らも、また民全体もこのみ言葉によってもう一度歩んで行こうとチャレンジをすることとなります。第二列王23章の2節の後半から3節には、「そこで彼は、主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。それから、・・・主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、精神を尽くして、主の命令と、あかしと、おきてを守り、この書物にしるされているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみな、この契約に加わった。」と書かれています。もう一度神の民として歩んでいこうと、ヨシヤは民に向かってチャレンジしています。このような出来事がエレミヤ書の背景にあります。

エレミヤ2章2節には、「私はあなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。」とあります。イスラエルの民はかつて神に誠実であり、従順であったのです。ところが5節には、「あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、私から遠く離れ、むなしいものに従って行って、むなしいものとなったのか。」と問いかけています。むなしいものに従ってとは、偶像に心を向けて生きることです。偶像礼拝は虚しいものです。また8節の後半には、「預言者たちはバアルによって預言して、無益なものに従って行った。」とあります。ここで、無益なものとはむなしいものと同様に偶像を指し示しています。祖父であるマナセの時代、このような偶像がエルサレムに溢れていたのです。当時の偶像礼拝は性の乱れと、幼児を犠牲にするような礼拝行為を含んでいます。これらは、神が最も嫌う礼拝の姿なのです。無益なものに従って生きる生き方は、人生に悲劇をもたらします。私たちも偶像礼拝のむなしさに気づきたいものです。7節には、「しかし、わたしはあなたがたを、実り豊かな地に連れてはいり、その良い実を食べさせた。」とあります。エレミヤは神の守りが豊かに注がれていたことを民に示して、もう一度真実な神に立ち返るように民を励ましています。

11節には、「かつて神々を神々でないものに、取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は、その栄光を無益なものに取り替えた。」とあります。イスラエルの民は真の神から離れ、無益な物を拝んでいる、そのような民になってしまったのです。さらに、13節には、「わたしの民は2つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを自分たちのために掘ったのだ。」とあります。これも偶像礼拝に没頭して、虚しさの中に生きている彼らの心をよく表しています。みなさん、サマリアの女性とイエスの会話を覚えておられますか。ヨハネ4章14節には、「しかし私が与える水を飲むものは誰でも、決して乾くことがありません。私が与える水は、その人のうちでいずみとなり、永遠の命への水が湧き出ます。」と書かれています。み言葉を信じる者には、聖霊が働き、湧き水である泉が与えられているのです。反対に、偶像礼拝は、こわれた水貯めのように、私たちの心も魂もダメにしてしまいます。私たちの信仰はイエスから泉をいただいて生きる信仰です。イエスに絶えず目を注いで生きたいです。

神様との関係が崩れてしまったイスラエルは、周りの人たちにより頼む生き方を始めて参ります。18節ではエジプトやユーフラテス川の水を飲むとありますから、神に信頼する代わりに、外国の民に頼り、一時的な平和を得ようとして参ります。彼らは、神にではなく、人により頼む生き方を始めたのです。さらにエレミヤは、彼らの偶像礼拝を、姦淫の姿を通して表現しています。20節には、「寝そべって淫行を行なっている。」と表現しています。

29節では、「なぜ、あなたがたは、わたしと争うのか。あなたがたはみな、わたしにそむいている。」と書かれています。神は民が悔い改め、立ち返る機会となるように、様々な試練や困難をイスラエルに与えます。しかし、それでも神に立ち返ろうとはしないのです。それが、イスラエルの民の姿なのです。しかし、ヨシヤ王の宗教改革の働きのためには、これらのエレミヤの民の罪の指摘は必要であったのです。

私は、試練に出会った時に「主はどこにおられるのか」との問いかけをするべきであると思っています。一度立ち止まって、神の恵みをもう一度覚えて行きたいです。奴隷とされたイスラエルがエジプトから解放された時のように、エジプトの国から上らせた方がおられるのです。イスラエルの民も、神の恵みによって、緑豊かな土地に入ることができたのです。そのような神の愛、また恵みに気づいて、神を信頼する生き方を目指して行きたいです。黙示録2章4節に、「しかし、あなたがたには非難すべきことがある。あなたがたは初めの愛から離れてしまった。」と書かれています。主はどこにおられるのかと問いかけ、日々初めの愛を意識して生きる者でありたいです。

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「主はどこにおられるのか」 (エレミヤ2章6節)