↓メッセージが聞けます。
最初に、パリサイ人とヘロデ党の者数人との議論がある。彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、会話を始める。彼らの質問は、カイザルに納める税金についてである。パリサイ人は、ローマに納めるこの税に反対であり、ヘロデ党の人たちは賛成である。意見の違う2つのグループがイエスをわなに陥らせようとしての悪意のある質問である。もし、納めるべきであると言えば、ローマ帝国からの解放を願う群衆を失望させることにもなる。反対に納める必要がないと言えば、ローマ帝国に対する反逆罪で訴えられることにもなる。そのようなわなを含んで、彼らは、「カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか。納めるべきではないのでしょうか。」(14)と問いかける。イエスは彼らの偽装を見抜いて言われる。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来てみせなさい。」と。そして、彼らに問いかける。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言い、イエスは、「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい。」と言われる。このイエスの言葉は、きっと皆様もどこかで聞いたことがあるのではないかと思う。それほど有名な言葉である。その時、彼らは、イエスに驚嘆したとある。整理してみよう。カイザルとは、ローマ皇帝の帯びる称号の一つであり、当時のデナリ銀貨には、ローマ皇帝ティベリウスの胸像が刻まれており、ティベリウス、カイザル、大祭司というような銘が刻まれていたようである。ティベリウスの胸像が刻まれているコイン、それを使用しているユダヤ人も、その社会に、積極的に納税の義務を果たすべきである。同時に、神のものは神に返すべきである。これがイエスの教えである。神は、すべてを創造し、支配しておられる。そう理解すると、私たちの肉体も心も神の支配下にあると言えると思う。カイザルでさえも、全能の神に許されて、人間社会に秩序をもたらすために用いられている器にすぎない。上に立たされている者は、どんな権力者であっても、一時的な権力を神に許されているにすぎない。イエスのこれらの言葉から、この社会への責任と神への感謝を同時にもって生きるべきではと私は信じる。すべての権力者は、民に仕える使命が神から与えられていることに気づいて、謙遜な歩みをしてほしいものである。そのような者となれるように、日本の、いや世界の政治家や権力者のためにも祈っていこうではないか。
次に復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問する。要約すると以下のようになる。7人の兄弟が一人の妻と結婚し、すべての者が亡くなった時には、その女性は復活の時には誰の妻となるのだろうかと。実に人間的な思考である。それゆえ、復活はないと主張する彼らの論理には、わたしでさえも違和感を覚える。サドカイ人たちは、モーセ五書だけを律法と認めていたようで、そこに教えられていない復活の教理は受け入れることができなかったようである。復活については、イザヤ書26:19やダニエル書12:2節に言及されているが、モーセ五書からは、そのような教理を得ることはできない。彼らは、貴族階級に属し、大祭司や、有力者からなり、経済的には恵まれていたが、実にこの世的でもあった。肉体の復活や、未来の審判や報いも信じないし、天使の存在も認めていない。そんな彼らに、イエスは答える。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天のみ使いたちのようです。」(24,25)と。天のみ使いたちのようですとの言葉に私はとても励まされている。私もいつか、復活の命が与えられる、これは聖書に約束されていることである。天のみ使いたちのように変えられる、何と言う希望であろうかと思う。パウロは、復活のからだを、天上のからだ(Ⅰコリント15:40)とか栄光あるもの、御霊のからだ(Ⅰコリント15:44)とも表現している。皆さんも復活の希望を持とうではないか。このサドカイ人に、イエスはモーセの書から、神がモーセにどう語られたかを取り上げて、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とあると語りかける。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」と語りかけている。ユダヤ人の祖先であるアブラハムもイサクやヤコブも復活の希望を与えられていることを疑う者はいないのではと私は思う。
3番目の会話は、一人の律法学者との会話で、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに、「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」と尋ねた。とある。この律法学者は、以前の者たちと違って、イエスへの尊敬の思いをもって尋ねたようである。イエスは、旧約の申命記6章4,5節を引用してお答えになる。「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」と。この聖句はとても有名で、敬虔なユダヤ人は毎日のように暗唱していた聖句の一つでもある。当時のユダヤ人も、現代の私たちも同様に、100%の愛をもって、全身全霊で神を愛する生き方の大切さに気づかされる。これが一番たいせつな戒めである。続けて、イエスは語る。次にはこれです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。この二つよりも大事な命令は、ほかにありません。」と。この第二の戒めは、レビ記19章18節からの引用である。イエスは、ユダヤ人だけではなく、異邦人をも含めてこの言葉を使っておられる。神を愛し、隣人を愛するこの教えが、イエスを信じる者たちを通して今でも、世界に拡大している。この律法学者も、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。」ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずってすぐれています。と賢く返事をする。この律法学者は、旧約聖書にあらわされた神のみこころを知っておられたようである。ホセヤ書6章6節には、「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」と書かれている。これが神のみこころである。イエスは、この方に、「あなたは神の国から遠くない。」と語りかける。この言葉は今日のメッセージのテーマであるが、神の国は私たちの力や努力でもたらされるものではない。神の国は、救い主イエスを心に迎える者に神が与えてくださるものである。イエスを信じる者は、罪の赦しの喜びが与えられていく。神への感謝や、礼拝の喜びが与えられていく。神をこころから愛していくこと、そして、隣人を愛していくことも、自然に自分たちの一部になっていく。その決断をこの律法学者も迫られることとなる。きっとこの方も後にイエスを信じる者の一人になったのではと私は信じている。神の国は将来に与えられる約束だけではない。現実の生活の中でも、私たちクリスチャンは神の国を体験できる側面もある。いつか招かれていく天国の希望をしっかりと握りながら、真の信仰者として、神を愛し、隣人を愛する生き方を通して、神の国をこの世にも実現して行きたいと心から願っています。