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今日の聖書箇所で、私たちはイエスの地上の家族を垣間(かいま)見ることができます。そしてイエスは、もっと広い、グローバルな家族について語り始めます。マルコの福音書3章から3か所、読んでいきましょう。最初は3章7節から12節です。

(3章7節から12節を読む)

この箇所で、イエスがどんどん有名になっていくのを見ることができます。ガリラヤやユダヤ、エルサレムといったユダヤ人の領土内だけではなく、イドマヤ、ヨルダン、ツロ、シドンといったユダヤ人の領土を超えた地域でも、イエスは有名になっていきました。イエスの宣教がユダヤ人だけでなく、ユダヤ人以外の人種やユダヤ人の敵にあたる民族にさえ、行われていたことが、後の章にも書かれています。

この段階では、多分人々はイエスの教えというよりも、イエスが自分たちにしてくれることに興味を抱(いだ)いたようです。それでもイエスは彼らを叱(しか)りませんでした。

人々は、イエスが本当は一体誰なのか、多分わからなかったと思いますが、悪霊たちは気付きました。3章11節で、悪霊たちはイエスを見てすぐにひれ伏(ふ)し、イエスの権威を認め、「あなたこそ神の子です」と叫んだとあります。イエスは、私たちの世においても、変わらずにサタンの王国を支配下に治めてくださっています。

次は13節から19節です。

(3章13節から19節を読む)

イエスは山に上(のぼ)り、12人の男性を弟子として任命しました。この12人はイエスとの繋がりが最も深い弟子たちとなります。山の上で12人の弟子が選ばれたことは、たまたまの出来事ではありません。これはモーセがシナイ山に上(のぼ)って、神の律法を受け取った歴史的な出来事と対比しています。モーセ契約と呼ばれる神の律法は、イスラエルの12部族に伝えられました。12弟子を任命することで、イエスは新しいイスラエルのための新しい霊的なリーダーシップを作り上げているのです。そしてその後、十字架の死によって、イエスは神とイスラエルとの新しい契約を完全なものとするのです。

この12人の弟子たちはどのようにリーダーシップを取っていくのでしょうか。まず、彼らはシンプルにイエスと一緒にいて、共に時間を過ごすことから始めました。14節でイエスは弟子の役目を大きく2つ、短い言葉で言い表しています。それは「彼らを身近に置き」、「彼らを遣わす」ことです。

ヨハネの福音書15章4節から7節で、イエスはご自分をぶどうの樹に例えています。そして弟子たちはその枝であると表現しました。ぶどうの樹と繋がっていない枝は実をつけることができません。同じように、もし弟子たちがイエスと親しい関係でなければ、弟子たちは神が望むような実をよく結ぶことができなかったでしょう。イエスのことを直接知っていたからこそ、彼らは遣わされたのです。神がイエスを遣わした使命と全く同じ使命のために、イエスは弟子たちを遣わしました。つまり、言葉で御国を伝え、行動で御国の真実を伝えることです。

この12人の男性たちはその後、12「使徒」として知られていきます。ギリシャ語で「使徒」という言葉は「遣わされた者」という意味で、王の代理として権限を持つ使者を表します。使者として、彼らは人々に伝えました。「神の国は近づいた。悔い改めて信じなさい」と。

最後の箇所は20節から35節です。

(3章20節~35節を読む)

この箇所では、イエスの家族のことが書かれています。イエスの家族はイエスがしていることを認めていませんでした。21節ですが、日本語の新改訳聖書では、「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出てきた。」とあります。この「イエスを連れ戻しに」のところが、英語の聖書New International Versionでは、イエスを「管理、監督する」という意味の言葉、take chargeが使われています。また、他の英語の聖書English Standard Versionでは、泥棒や犯人を「捕まえる」という意味があるseizeが使われているんです。
イエスの家族はイエスのことを心配していました。それにはもっともな理由がありました。まず、イエスはその日とても忙しく、食事を取る時間がないほどでした。第二に、人々の間で有名になるにつれて、宗教指導者たちから疑念や憎しみがイエスに向けられるようになっていたということ。人に教えたり、癒しを行うことで物議をかもすよりは、大工という静かな職業に戻った方がよいと、イエスの家族たちは多分考えたのだと思います。

また、同じ21節で「『気が狂ったのだ』と言う人たちがいたからである。」とありますが、イエスの家族がこれを言ったのか、または他の人々から聞いたのかわかりませんが、とにかく、イエスの時代には「気が狂っている」、つまり、精神的な病をわずらっていることや奇妙な行動を取ることは、悪霊の影響と考えられていました。

ですから22節にあるように、律法学者たちがイエスは悪霊に操(あやつ)られていると訴えたことも無理からぬことでした。この律法学者たちは多分、イエスの癒しや教えを判定するために、エルサレムから派遣された律法学者たちでした。いずれにしても、彼らはイエスのことをこう判定しました。「確かにイエスは悪霊を追い出す力を持っている。しかしこの力は神からではなくベルゼブルからだ。」と。ベルゼブルはサタンのもう一つの呼び名です。

それに対してイエスは答えました。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。」 そして国の内戦を例に挙げて、内戦は国を弱体化させるだけで、国力を強めることはないということを言いました。

イエスはご自身をサタンの敵と表現します。サタンは強い男性のように、多くの人々をコントロールし、所有します。イエスはサタンの領域に侵入し、サタンを縛り、人々を自由にするためにやって来られました。

最後にイエスは、聖霊を汚すことについて話します。聖霊を汚すとはどういう意味でしょうか。ある批評家によると、それは心を完全にかたくなにして、神の御業(みわざ)を認めないことです。これまでのところ、律法学者たちはイエスを正しく評価できませんでした。彼らはイエスを見て、神ではなく、悪魔の印を見たというのですから。ですから、イエスは彼らに気をつけなさいと警告しました。

聖霊を汚すことが、聖霊を拒(こば)み続けることであるならば、この罪が決して許されない理由が理解できるでしょう。神が私たちを許す憐(あわれ)みのお心が足りないからではありません。そうではなく、神を拒(こば)む人が許しを受け取らないからです。何故なら彼らが許しを求めていないか、彼らが許される必要を感じていないからです。

31節から35節で、イエスの家族についての話に戻ってきます。イエスの母であるマリアのことが、マルコの福音書で初めて出てきます。マリアは天使ガブリエルから神のメッセージが伝えられた時に、イエスのことを聞いていました。しかし、マリアは未だに息子の行動や使命について、完全には理解できていません。
イエスは何をするために来たのでしょうか。それは血の繋がりを超える新しい家族を造るためです。35節でイエスは言っています。「神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」ですから、イエスを信じる者には血の繋がった家族もいるし、霊的な家族もいます。このことで血の繋がりのある方(ほう)の家族や彼らの思い、健康をないがしろにしてよいという言い訳にはなりません。

神は私たちの王ですと崇めるのならば、私たちは自分の家族や健康に気を使い、大事にするべきです。何故なら、それらは神からの贈り物であり、大切にする責任があるからです。同時に私たちは、全家族の一番上に立つ神の声に最も耳を傾けます。

これこそイエスがなさったことです。つまり、イエスは、天の父の御声(みこえ)と人間の家族の声が対立する時、必ず天の父の御声(みこえ)に従われました。

(適用)

今日のメッセージの結論に入る前に、神の家族であることについて3つ質問します。

第一に、神の家族に加わりなさいというイエスの招きにあなたは応(こた)えましたか。イエスの招(まね)きはユダヤ人にだけではなく、あらゆる国の人々に対するものです。ガラテヤ人の手紙3章28節で「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」とあります。神の家族は、国境も様々な違いも超えて結びついている家族なのです。

第二の質問は、イエスの家族としてどのように生きるべきか、です。35節でイエスが言われるように、「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

ここで神のみこころを行うとは、心をかたくなにしないで、イエスの教えを聴き、信じ、それに従って行動することです。

第三の質問は、イエスを信じない人々に誤解されてもかまわないという覚悟を持っていますか、です。イエスの家族であることで、狂信的だとか, 非論理的だとか, 偏屈(へんくつ)だなどと非難されることがよくあります。

実は今年の夏、母が亡くなりまして、お葬式があったのですが、私は仏教の儀式的なことはちょっと遠慮したいと言ったんです。例えば、線香を上げる代わりに私は敬意を込めて礼をします、とか。そうしたら、そのことを快く思わない親戚(しんせき)もいました。息子としてちゃんと義務を果(は)たしていないと思われたと思います。

ある親戚は、線香を上げることはただ親孝行や敬意を表すことだから、宗教的な行為じゃないよ、と説明しました。それに対して、私は、もし線香を上げることが敬意を象徴するだけなら、例えば花を捧げるとか他の方法で敬意を表すことができないでしょうかと、その親戚に答えました。でも実は、線香を上げることには宗教的な意味、とても重要な意味があるんです。

仏教の世界観において、線香を上げることは、自分のしたよい行い、仏教では功徳(くどく)と言いますが、これを亡くなった人に移してあげるという意味があります。線香を上げることで、私の母はこの功徳を必要としていると皆に言っていることになるのです。十分な功徳がないと、亡くなった人は死後の世界にちゃんと渡ることができなくて、平安のない、飢えに苦しむ霊、餓鬼(がき)になってしまうと仏教では言われています。キリスト教の儀式にもその背後(はいご)に大切な意味があるように、お葬式で線香を上げることにも大切な意味が背後にあるのです。キリスト教の葬式では、未信者の方に讃美歌や祈りを求めることはありません。未信者の方に聖餐式への参加や洗礼を求めることもありません。未信者の方たちは、これらのことをまだ信じていないわけですから。

とにかく、一部の人に誤解されることで、とても口惜(くちお)しい気持ちになりました。でも神は私が母を愛していていることをご存知で、それだけで十分です。

お葬式で感謝したいこともありました。私が仏教の儀式的なことをしない時、私の兄が私のかたわらに立ってくれたのです。父は私たちの決断を尊重してくれました。また父は私のために、キリスト教式のお葬式の時間を少し取ってくれました。私が所属する教会は、具体的な形で私たち家族をサポートしてくれて、それは父と兄にとって意義深いことだったのではないかと思います。私の霊的な家族を通して、父と兄が真実なもの、そして神の愛を感じてくれていたらいいなぁと思います。

イエス様に忠実に従うことで、いつか皆さんも周りから反対を受けることもあるかもしれません。私はマルコ10章29節、30節のイエスのみことばに慰められました。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」

今回、実際に私の人生の中で、このみことばが証しされたように思います。私には今、神の家族であるたくさんの父、母、兄弟姉妹がいます。そして血の繋がりのある家族も与えられていますから、私たちは彼らを愛し、彼らのことを神の御手にゆだねましょう。

(結び)
最後に今日のメッセージをまとめたいと思います。イエスはサタンの国を終わらせ、御国をもたらすために来てくださいました。イエスは私たちを霊的な自由、そして霊的な家族へといざなってくださいます。神の家族の一員であることで、周りに誤解されることもあるかもしれません。それは辛いかもしれませんが、どうか私たちが正しいことを行い、私たちの信仰を理解しない人々をも愛することができるよう、神の助けがあるよう願います。

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イエスの家族 (マルコ3章7節~35節)