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ある漫画を見終わってから、娘が私に言ってきました。「おばけって本当にいるの?おばけ、こわいな。」

今日の聖書箇所で、イエスの弟子たちは、イエスが水の上を歩くのを見てびっくりしました。イエスが幽霊だと思ったからです。人間は水の上を歩きませんよね。日本の忍者だったらできるかもしれませんが。

ともかく、この超自然的な出来事を通して、イエスは普通の人間では決してないことが明らかにされています。

聖書を読む前に、まずお祈りします。

(マルコの福音書6章45節から56節を読む)

もう一つの船の話

私が今年話したメッセージに、今日の内容と似ている話がありました。それはマルコ4章の、イエスの弟子たちが船に乗っていた時、嵐で船が沈みかけたという箇所です。

大昔は、船は今に比べて壊れやすく、船の航海の技術もそれほど高くはありませんでした。悪天候で船に乗っている人々が命の危険にさらされることもありました。人々はまさに自然のなすがままという状況でした。ですから、嵐が来て、弟子たちは慌てふためきました。しかし、イエスが嵐をお静めになると、弟子たちは、一体この方はどなたなのかと、イエスに対して恐れと畏敬の念を抱きました。

今日の箇所では、嵐ではありませんが、強い風が吹きます。今回も弟子たちは慌てます。それは一人の人間が水の上を歩くのを見たからです。イエスの御力をたくさん見てきているのに、弟子たちは、イエスが本当はどなたなのかをまだちゃんと理解していなかったようですね。

イエスがどなたか、理解できない

イエスは彼らに話しかけました。「わたしだ。恐れることはない。」 イエスは

「わたしだ」と言う時、「エゴ エイミ」という言葉を使いました。これは神の名をギリシャ語に訳したものです。出エジプト記の3章14節で、神がご自身をモーセに現した時の「わたしはある」と同じ言葉です。

それはまるでイエスが弟子たちに「わたしは神だ。だから恐れないでいなさい」と言っているようです。つまりイエスは、単にモーセやエリヤのような力ある預言者ということだけではなく、肉体を持った神だということです。

イエスは、神しか為しえないことを為しました。イエスは嵐や波や風をも従える王です。たった五つのパンと二匹の魚で何千人もの人々の空腹を満たすお方です。

6章51-52節では、「…彼ら(弟子たち)の心中の驚きは非常なものであった。というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。」とあります。

「その心は堅く閉じていた」というのは、弟子たちはイエスがイスラエルの神であることを理解できなかったということです。その点では、弟子たちはパリサイ人と似通っていました。

マルコ3章5節で、パリサイ人は「心がかたくな」であり、イエスの権威に気付くことができなかったと書かれています。

懸命にイエスから学ぶ

しかし、弟子とパリサイ人との違いは何だったかというと、弟子たちは、イエスの言葉や行動を完全には理解できていなかったけれども、イエスから学びたいという強い思いがありました。弟子たちはイエスを受け入れ、イエスを通して神に対する理解や経験を大いに深めていきました。一方、パリサイ人は、イエスが自分たちの期待通りのメシアではないと、イエスを受け入れようとしませんでした。パリサイ人はイエスを脅威とみなし、この世から消し去ろうと思うほどでした。

弟子たちはイエスに対する理解を深めることがなかなかできなかったために、批判されることがありますが、私たちはもっと弟子たちのことを評価してもいいのではないでしょうか。何故なら、弟子たちはよくわからない中でも、一生懸命イエスから学ぼうとしていたのですから。

ヨハネの福音書の中で、イエスの教えが難しく、挑発的とも捉えられたために、イエスに従う多くの人々が離れ去っていったと書かれています。イエスは近しい12人の弟子たちに、「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」と尋ねました。(ヨハネ6:67) するとペテロは答えました。

「主よ。私たちがだれのところに行けましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68-69) ペテロはイエスの言うことを完璧に理解しているとはいえませんでしたが、イエスに従うと心に誓っています。何故なら、ペテロはイエスの御言葉が真実で、イエスの為さることが善なるものであるとわかっていたからです。

ペテロはイエスが「神の聖者」、メシアであると気付いていました。しかし、ペテロはまだイエスが神であることは理解できずに、葛藤していたんです。これは私たちも理解できます。食べて、飲んで、トイレにも行く、人間としての神と出会うことなど、イエスに会う以前には、ペテロは想像もしていなかったと思います。父なる神、子なるイエス、そして聖霊という神の3つの位格、三位一体のような複雑な概念を理解するのは、ペテロにとっても、私たちにとっても難しいです。ですから、多くの人々が受け入れて理解するのは当然難しいです。

しかし、謎が多く、わかりにくいことだらけですけれども、あきらめずに神のこと、イエスのこと、聖書のことを学んでいきましょう。100パーセントわからなくてもいいのです。私も完璧に理解しているわけではありません。そして疑いや疑問を持ってもよいのです。イエス様を通して神様のことを知っていく旅路を続けていけばよいのです。

ゲネサレでの癒し

さて、ゲネサレという場所でイエスが行った癒しを見ていきましょう。ここでの癒しは前の章の内容と二点、共通点があります。一点目は、イエスが異邦人の領域に入った点です。異邦人の領域とはつまり、ユダヤ人ではない人々が住んでいた地域です。

当時、ユダヤ人は異邦人と友好的な関係にはありませんでした。何故なら、異邦人と交わりを持つことで、道徳的に汚れるとユダヤ人は信じていたからです。清さを保つことで、神の御国は早く到来し、神はユダヤ人をローマ帝国から解放してくださると、ユダヤ人は信じていました。しかしイエスは、神の御国は全ての人々のためのものだと教えました。そしてイエスは神の御国をゲネサレという異邦人の土地にもたらしたのです。

神の御国は、ある特定の民族や特定の社会階級のものではないし、男女の区別もありません。このことは、日本では当然と受け止められるかもしれませんが、一般的に人間というのは、特定の民族を排除したり、その排除した人たちを見下したりします。ですから、神は全ての人々を受け入れてくださり、そして平等に見てくださることを、私たちはいつも覚えておかなければいけません。

二点目の共通点は、イエスやイエスの服に触れただけで人々が癒された点で、マルコの福音書で前にもこのような箇所があります。

56節に注目したいのですが、「…そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。」とあります。

ここで使われている「癒された」という言葉は、前の章で12年間出血が止まらなかった女性に対して、イエスがおっしゃった、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。…」と同じ言葉です。

この「癒された」という言葉はギリシャ語では、sozoとかsoteriaという言葉で、「救い」という意味があるんです。文脈によって、このギリシャ語は、癒すとか、完全にするとか、危険から救い出す、救いという意味を持っています。つまり、この「救い」を意味する言葉は、霊的な意味でも、また物質身体的な意味での救い、両方を持っているということです。

確かに、救い主としてイエスは、霊的な問題だけ、または物質身体的な問題のどちらか一方ではなく、両方の救い主としての使命を担っておられます。

神の癒しがない時

癒しについて考えると、常にわきあがってくる疑問があります。何故、神によって癒される人と癒されない人がいるのか、という疑問です。

個々人のケースの背後にある答えは誰もわかりません。病気の具合や癒され方は一人一人違って、まるで大きなジグソーパズルの一つのピースのようですね。なくなっているピースもあります。答えが全てわかるわけではありません。でも、絵全体がどんな絵になるか、それは知っています。その完成した全体の絵が、人類にとって最終的にどんなものか、聖書は私たちに教えているからです。

今、私たちは、神の御国が私たちの世界に到来したけれども、完全な頂点にはまだ達していない、狭間の時に生きています。ですから、私たちは癒しと病、善と悪の両方を見ています。神は、いつ病と悪を根こそぎ消し去るのか、言っていません。しかし、神は必ずそうなさると言っています。

今あるピースで見る絵では考えられませんが、これから完成される絵は美しいものとなるでしょう。そして、最終的に完成される絵は、神に祈り信じる一人一人にとって素晴らしい絵となるでしょう。

たとえ今のところは神の癒しがなくても、神は私たちの中で働いておられます。神は、私たちをいつも神の形に変えようとなさっておられます。私たちは、体の痛みの方がより差し迫っていて深刻に感じますが、実は霊的に病気の時もあります。神は、人間の罪の故にこの世に存在する病(やまい)や苦しみを用いてくださいます。それは私たちと神との関係が病んでいることを、私たちに気付かせるためでもあります。

Scott Cairnsという詩人は、彼のお父さんが癌を患ってから変えられたということを書いていました。彼のお父さんはとても気が短くて、いつもいらいらしているような人だったそうです。しかし、神は病(やまい)を用いて、お父さんの心を変えてくださいました。結局、癌でお父さんは亡くなったのですが、亡くなる前には、お父さんは穏やかで、愛情深い、よく祈る人に変えられたそうです。お父さんは神の慰めを経験したのでした。

また、作家であるAnne Lamottは、クリスチャンであり、サポートしてくれる教会の人々がいたにもかかわらず、精神的な病とアルコール依存症にずっと悩まされていたことを書いています。しかし、自分の弱さ、また多くの人を通して経験した神の恵みを書いたことから、たくさんの人が励まされたそうです。彼女の本は、不安や鬱、自己嫌悪に悩む未信者の人々にも励ましを与えました。

救いとは何か?

「救い」という言葉に戻りましょう。聖書が言う救いは、全体的な大きな視点を持っていることをお話ししたいと思います。救いは、ただ魂を救って、地獄は避けて、天国に行くことだけではありません。救いは、私たちの知性、心、体のためでもあります。救いは未来のこと、また一回きりのことでもありません。それは現在進行形で継続的なことなのです。

更に、神は個人を回復し新しくするだけではなく、世界全体をも新しくしたいと考えておられます。神は、私たちの地球や社会、創造物のあらゆる側面に関心を持たれています。

では、このことは、クリスチャンとして私たちの日常生活にどんな意味があるでしょうか。一つの考えとしては、人々に伝道をしようとする時、私たちはその人たちが天国に行けるようになることだけを考えているでしょうか。その人たちがこの地上で困っていること、必要とすることも気にかけているでしょうか。

罪や十字架について、未信者の方と話すことは難しいかもしれません。特にあまり親しくなかったりすると難しいですよね。でも癒しは、誰もが興味あることだと思います。未信者の人たちは、癒しは神の奇蹟だという考えには賛成しないかもしれませんが。

英会話の生徒さんに何故私がクリスチャンになったか聞かれると、私はよく、ひどい状況だった私の家族を神が救ってくれた話をします。私の家系は、精神的な病を抱えることが多い家系らしいんです。もし私がクリスチャンになっていなければ、私は今、精神的に健康な状態ではなかったかもしれません。この私の話には、罪とか十字架の話は出てきませんが、確かに私の人生に起きた神の救いであり、神の救いの一つの側面であると思うんです。

私のこの個人的な人生の経験が、周りの人々にとって神の存在と神との関係を考えてくれるきっかけになってくれるように、神に願っています。

結び

最後に今日の話をまとめます。イエスは、神しか為せないことを為しました。何故ならイエスは神ご自身だからです。神は一部の人々だけではなく、あらゆる人々を救うために来てくださいました。イエスは身体的精神的な病から救い出し、そして私たちを罪から救い出すために、来てくださいました。しかし私たちはいつも完全な癒しを経験するとは限りません。神の定めた時ではないからです。でも未来は確かです。神はいつか、この世界を新たに建て直し、神の救いを待ち望む人々を新しくしてくださいます。

時々、私たちは、信仰と現実に目にすることとのギャップに葛藤を覚える時があります。クリスチャンが苦しみ死んでいくのを目にします。クリスチャンが戦い、人を傷つけるのを見ることもあります。聖書にも「どうしてこんなことが…」と問いかけるような内容が書かれています。

でも、たとえこのようなことで不安になることがあっても、聖書の弟子たちのように、イエスから学び続ける旅路を続けていきましょう。どうか私たちが神の手足となり、世界に癒しを届けられますように。

では祈りましょう。

神様、水の上を歩くイエス様を通して、あなたは神の御臨在を明らかにしてくださいました。全ての人々対するあなたの救いの御計画を私たちは知っています。あなたの救いは、私たちの体、心、霊を新しくします。大きな視点での、あなたの救いを受け入れ、感謝できるように恵みをお与えください。救われた者として、あなたの使いとして福音を知らせ、この世をよいものとするための働き手となれるよう、力を与えてください。どうか私たちを通して、イエス様の愛と恵みが表され、私たちの周りの問題のあるところに癒しをもたらすことができますように。私たちの全ての行いによって、あなたの御名を崇めることができますように。私たちの主、イエス様のお名前によってお祈りします。

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「神秘、癒し、救い」 (マルコ6章45~56節)