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今日のメッセージは、イエスのお誕生、そしてその喜びをテーマにした、従来のクリスマスのメッセージではありません。ここのところお話している、マルコの福音書から引き続き語らせていただきたいと思います。

今日の話の中心は、キリストの弟子になることは犠牲を伴うという重い内容となります。イエスを信じる人々に、イエスが与えてくださる祝福については簡単に話すことができます。しかし、イエスの弟子であるために、試練を伴うこともあります。喜びも試練も両方あるという全体像を捉えていることが大切です。

今日のテーマは、クリスマス前の24日間のアドベントに関係ないとはいえないと思います。今日はアドベントの最終日ですね。

アドベントを祝うために、12月に入ってから、毎週日曜日に伊野牧師は、新しいキャンドルに火を灯してきました。アドベントは「到着すること」の意味で、1500年以上前に始まった伝統です。アドベントの時期にクリスチャンは、イエスキリストの到来に備えて三つことをします。一つは、ベツレヘムでお生まれになったイエスのお誕生をお祝いする。二つ目は信仰と悔い改めをもって、イエスを心にお迎えする、三つ目は、イエスがいつか戻って来られるのを待ち望む、です。

今日はマルコの福音書から、どのようにイエスの到来に備えるかについて考えていきましょう。今日の聖書箇所に基づくと、三つの備え方があります。第一に、イエスはどなたかを知ること。第二に、イエスの価値観を理解し、それに従って生きること。第三に、今日の私たちの選択が、将来どのような結果をもたらすかを考えることです。

(マルコの福音書8章27節~9章1節まで読む)

〈イエスがどなたかを知る〉

29節でイエスは、「ではあなたがたは私を誰だと言いますか。」と尋ねます。それは、私たち一人ひとりが答えなければならない質問です。イエスのお考えによれば、イエスがどなたかを理解していることは、生きるか死ぬかに関わるくらい重要な事柄なのです。

もし、イエスは肉体を持った神であるという考えを否定し、イエスの教えに従おうとするなら、ほとんどのイエスの教えをないがしろにするようなものです。イエスの教えの要(かなめ)となる部分や、イエスの使命の本質には目もくれないということになってしまいます。イエスは、私たちが自分で償うことができない罪を贖(あがな)うために来てくださり、死んでくださいました。そしてイエスはこの世に来て、王となってくださいました。どんな人間の王もかなわない形で、王となってくださったのです。

指導者というものは、その多くが自分の権力と支配を必死で維持しようとしますが、イエスが選んだのは、地上で権力を持つチャンスを手放すことでした。十字架での死は、たまたまそうなってしまったとか、失敗だとかいうのではありません。それは正にイエスのご計画なのです。人類に対する罪と悪魔の力を打ち砕き、私たちと神との関係を建て直すために、十字架の上で死んでくださったのです。

福音書を読むと、イエスがただの道徳を教える教師ではないことに気付くと思います。道徳の教師というより、詐欺師とか狂った男と呼ぶ方がむしろ正しいのかもしれません。

イエスの主張は大胆ですし、イエスの行動はユニークでした。救い主であり、神であるというイエスの主張を退けることはできません。イエスは、ご自分のことを愛のある羊飼い、力強い王、裁き主であると言っています。

イエスは賢い道徳的な教師であると、多くの未信者の方は言いたいでしょう。未信者の方たちが、イエスを神とは呼びたくないことは理解できます。神は何が正しいか、間違っているかを決めることができます。神は、私たちに生き方を教えることができます。私たちの安心感は、それによって脅かされます。何故なら、私たちは、自分で自分のことを決める権利が欲しいからです。この怖れは、神が本当はどんなお方なのかを知らないことや、神の善、神の愛がどんなに深いものなのかを知らないことから、来ています。もし、神のことが本当にわかったら、怖れは少なくなるでしょう。神は、あなたに何かを求める前から、まずあなたのために全てを犠牲にしてくださったお方です。

イエスが真にどんなお方なのかを知るために、私たちは、神の権威に対して、自分の殻を全て取り去って無防備になる必要があります。 神の前に無防備になることで、私たちは、この世で最も安全で自由な場所にいることに気付きます。それはクリスチャンの信仰の逆説の一つです。神に対して、自分の権利を手放した時に、私たちは初めて真の自由を手に入れるのです。

〈イエスの価値観を知り、それに基づいて生きる〉

次のポイントに移ります。イエスの価値観を知り、それに従って生きることによって、私たちはイエスの到来に備えます。イエスの価値観の中には、この世の価値観と全く逆のように思えるものもあるかもしれません。弟子たちでさえ、イエスを理解することが難しい時がよくありました。

31節に「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」とあります。弟子のペテロはこれを聞いて、イエスをいさめました。多分ペテロはこんな感じて言ったのではないでしょうか。「イエス様、そんなことをおっしゃるのは止めてください。あなたに従う者はとても多いのです。あなたを守るために私たちは戦います。」

ペテロは、当時のユダヤ人がそうであったように、メシア(救い主)は軍事力によってローマ帝国を打倒する政治的なリーダーだと期待していたのでしょう。

しかし、イエスは、政治的な権力と善意だけでは、世界をよりよい場所にすることはできないことを知っています。私たちに必要なのは、全ての問題の根底にあるものを直す治療法なのです。問題の根底にあるものとは、罪、そして神と人間との壊れてしまった関係です。神のご計画はその治療法を与えることで、その中心が十字架のイエス・キリストの贖いの死です。

イエスの多くの教えは、社会の教えとは逆のことを言っています。イエスの教えは、リーダーになるには仕える者になりなさい。自分を捨てることは、命を得ることです。

34節の「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」は解釈が難しい教えの一つです。

自分を捨てるとはどういうことだと、イエスは言っているのでしょうか。それは、仏教の僧侶のように、快楽を捨て、欲望を断ち切ることではありません。それは自分の欲求を抑えることではなくて、自分の欲求より神を大切にして、神を愛することです。自分の欲求を進んで神に委ねて、神がその欲求を満たすかどうかは関係なく、それを受け入れることです。興味深いことに、私たちがそのように自分を捨てる時、痛みはあるかもしれないけれども、神は私たちの人生を更に満たし、思いもよらないほどよいものとしてくださるのです。自分の意志よりも神のご意志を大切にすることで、私たちの欲求はより健全でよいものとなっていきます。

それでも、神が与えてくださる喜びと共に、私たちは物理的身体的に苦しむこともあるかもしれません。神が私たちの心に与えてくださった愛のために、命を落とすクリスチャンもいるかもしれません。ポーランド人のマキシミリアノ・コルベ神父がそうでした。彼は第二次世界大戦中、死の収容所と言われたアウシュビッツ収容所に囚われました。彼はドイツ人の家系でしたが、ドイツ人として登録することを拒否し、ナチス下で市民権を得ませんでした。

戦争前には、コルベ神父は日本で宣教師をしていて、長崎にカトリック修道院を建てました。その後ポーランドに帰国し、ポーランドでも修道院を設立しました。しかし、反ナチスの出版物を発行したことから、閉鎖されました。そしてコルベ神父はアウシュビッツ収容所に送られました。守衛に嫌がらせされても、ぶたれても、彼は他の囚われた人々ために神父として仕えました。

ある時、ついに何人かの人々の死刑執行が決定した時、家族がいると言って、一人のポーランド人の男性が、泣きながら憐みを請いました。するとコルベ神父は、自分がその男性の代わりになると進み出ました。そのポーランド人の男性は生き残り、コルベ神父がどのように彼を救ってくれたかをいろいろな所で、その後語り続けました。コルベ神父は、自らを犠牲にして、他の人を愛するという真の人生を送ったのです。自分を捨ててイエスについていく、そのためには苦しみを通ることも進んで受け入れなさいというイエスの教えを、コルベ神父は命をかけて全うしたのでした。

イエスの足跡をたどるコルベ神父のような方もいますがが、歴史には、その反対のことを為した人物も出てきます。クリスチャンと名乗りながらも、権力で人々を搾取するような者も現れます。ですから、私たちは、ただよい道徳的なことを教える教師以上の存在が必要なのです。私たちを救い、内側から変えることのできる神の力が必要なのです。

福音書の別の箇所で、イエスは約束しています。それは、私たちの心を変えて、自分自身の力では不可能と思われることができるように、助け手である神の霊を送るという約束です。イエスの真の弟子ならば、「イエス様、あなたにお従いしたいです」と言うのに加えて「イエス様、わたしはあなたの助けがなければ、あなたにお従いすることができません」と言うでしょう。

〈自分の選択が将来どうなるかを考える〉

イエスの弟子になることは、心の中で将来のことをいつも意識しながら生きることです。ここでいう将来は5年10年20年後ではなく、永遠の意味です。今日の自分の選択が、将来、永遠の結果を左右することを理解する。そうすることで、私たちは、イエスの再臨に備えます。これが3番目の方法です。

イエスは36節で尋ねます。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」 私たちが今日する決断に対して、長期的な将来の結果が待っています。イエスが再び戻って来られる時、私たちの地上での短い人生は終わりを告げ、永遠の人生が始まります。イエスは、この世で得られるものだけを追い求めて生きる生き方を望んでおられません。私たちには永遠があるという思いを持ちながら、選択していく生き方をイエスは願っておられます。

また、イエスは38節で将来についてこのように語っておられます。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます」

ある日、イエスは世界を裁くために、父の栄光をまとって戻って来られます。

イエス・キリストが主だとわかり、イエスに従った人々に、栄光が授けられます。しかし、そうしなかった人々のことをイエスは恥じると書いています。自分を捨てなさいというイエスの教えと同じように、裁きとか死後の命の教えは、多くの現代人にとっては受け入れがたい内容です。しかし、それらは注目するに値します。何故ならそれらを聴くという選択と、耳を閉じる選択のその後の結果には、雲泥(うんでい)の差があるからです。

すでにイエスに従うことを決心したのに、従うことの難しさを感じている方がいるのなら、私はヤコブ1章12節のみ言葉で励ましたいと思います。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」また、ローマ8章18節も励ましのみ言葉です。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」

〈結び〉

かなりシリアスなクリスマスのメッセージとなってしまいましたが、ここからは余談として少し聞いてください。最近、私の親友が父親になりました。親友は、その生まれた男の子の赤ちゃんについて、こう言っていました。「赤ちゃんは本当にかわいいんだ。この子が生きるためだったら、僕は死んでもかまわないよ。」

子どものためだったら時間もエネルギーも惜しまないという本能が、ほとんどの親に生まれつき備わっています。それも、子どもが親の愛に応えられるようになるずっと前の赤ちゃんの頃から、親は子どものために何物も惜しみません。これは驚きです。

誰かをイエスに導きたいと思う時、クリスチャンになってほしいと導く時、こんなふうに聞くことがあります。「あなたは心にイエスをお迎えしたいと思っていますか。イエスのために喜んで死ねますか。」 でも、先程言ったように、イエスはあなたに何かを求める前に、自ら進んであなたのために全てを犠牲にしてくださいました。イエスがまず私たちを愛してくださったのです。まず最初にイエスがご自分を捨て、私たちのために十字架に架かってくださいました。

クリスマスに備える時、私たちは、新しくお生まれになったイエスと、幸せなイエスの両親の平和な光景を思い浮かべますね。でも、私たちはそれだけではなくて、大人になったイエスが私たちのために為してくださった犠牲、そして、イエスの故に犠牲を伴う生き方を私たちが選ぶことを、イエスは求めておられる、そういうことにも思いを向けたいと思います。

クリスマスでは、イエスを信じる者たちに、救いという無料の贈り物が送られることが語られます。その贈り物は確かに無料ですが、支払いはイエスがしてくださいました。それは高価な贈り物なのです。

有名なドイツ人の牧師であるディートリッヒ・ボンヘッファーは、ナチスに捕らわれ命を落としましたが、神の恵みの値段についてこう言いました。「(神の恵みの値段は)とても高価な真珠のようだ。そのために人は喜んで行き、持ち物全てを売り払う。そのような恵みは高価だ。何故なら、その恵みは私たちに従うことを求めるから。よい主人であるイエスキリストに従うことを求めるのだから、それは恵みだ。」

「(神の恵みは)高価だ。何故なら、その恵みのために、人は命をかけるから。そして、唯一の真実の命を与えてくださるのだから、それは恵みだ。その恵みは高価だ。何故なら、それは罪をとがめるから。そして罪人を裁いてくださるのだから、それは恵みなのだ。」

イエスのみ言葉に従うことは難しく、犠牲を伴うかもしれませんが、まことの命へと私たちを導いてくださいます。

祈りましょう

全知全能の神様。暗闇の業(わざ)を打ち破り、光の武具をつける恵みをお与えください。死すべき人生のこの時に、あなたの御子イエスキリストは大いなる謙遜をもって、私たちのところへと来てくださいましたから、ありがとうございます。そして最後の日に、栄光なる威厳をまとって、イエスキリストが再び来られ、生きる者も死んでいる者も全てが裁かれる時、私たちは永遠の命へと上げられることを信じ、感謝します。神、聖霊と共に永久(とわ)におられ、ご支配する主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン

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今日のメッセージは、イエスのお誕生、そしてその喜びをテーマにした、従来のクリスマスのメッセージではありません。ここのところお話している、マルコの福音書から引き続き語らせていただきたいと思います。

今日の話の中心は、キリストの弟子になることは犠牲を伴うという重い内容となります。イエスを信じる人々に、イエスが与えてくださる祝福については簡単に話すことができます。しかし、イエスの弟子であるために、試練を伴うこともあります。喜びも試練も両方あるという全体像を捉えていることが大切です。

今日のテーマは、クリスマス前の24日間のアドベントに関係ないとはいえないと思います。今日はアドベントの最終日ですね。

アドベントを祝うために、12月に入ってから、毎週日曜日に伊野牧師は、新しいキャンドルに火を灯してきました。アドベントは「到着すること」の意味で、1500年以上前に始まった伝統です。アドベントの時期にクリスチャンは、イエスキリストの到来に備えて三つことをします。一つは、ベツレヘムでお生まれになったイエスのお誕生をお祝いする。二つ目は信仰と悔い改めをもって、イエスを心にお迎えする、三つ目は、イエスがいつか戻って来られるのを待ち望む、です。

今日はマルコの福音書から、どのようにイエスの到来に備えるかについて考えていきましょう。今日の聖書箇所に基づくと、三つの備え方があります。第一に、イエスはどなたかを知ること。第二に、イエスの価値観を理解し、それに従って生きること。第三に、今日の私たちの選択が、将来どのような結果をもたらすかを考えることです。

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〈イエスがどなたかを知る〉

29節でイエスは、「ではあなたがたは私を誰だと言いますか。」と尋ねます。それは、私たち一人ひとりが答えなければならない質問です。イエスのお考えによれば、イエスがどなたかを理解していることは、生きるか死ぬかに関わるくらい重要な事柄なのです。

もし、イエスは肉体を持った神であるという考えを否定し、イエスの教えに従おうとするなら、ほとんどのイエスの教えをないがしろにするようなものです。イエスの教えの要(かなめ)となる部分や、イエスの使命の本質には目もくれないということになってしまいます。イエスは、私たちが自分で償うことができない罪を贖(あがな)うために来てくださり、死んでくださいました。そしてイエスはこの世に来て、王となってくださいました。どんな人間の王もかなわない形で、王となってくださったのです。

指導者というものは、その多くが自分の権力と支配を必死で維持しようとしますが、イエスが選んだのは、地上で権力を持つチャンスを手放すことでした。十字架での死は、たまたまそうなってしまったとか、失敗だとかいうのではありません。それは正にイエスのご計画なのです。人類に対する罪と悪魔の力を打ち砕き、私たちと神との関係を建て直すために、十字架の上で死んでくださったのです。

福音書を読むと、イエスがただの道徳を教える教師ではないことに気付くと思います。道徳の教師というより、詐欺師とか狂った男と呼ぶ方がむしろ正しいのかもしれません。

イエスの主張は大胆ですし、イエスの行動はユニークでした。救い主であり、神であるというイエスの主張を退けることはできません。イエスは、ご自分のことを愛のある羊飼い、力強い王、裁き主であると言っています。

イエスは賢い道徳的な教師であると、多くの未信者の方は言いたいでしょう。未信者の方たちが、イエスを神とは呼びたくないことは理解できます。神は何が正しいか、間違っているかを決めることができます。神は、私たちに生き方を教えることができます。私たちの安心感は、それによって脅かされます。何故なら、私たちは、自分で自分のことを決める権利が欲しいからです。この怖れは、神が本当はどんなお方なのかを知らないことや、神の善、神の愛がどんなに深いものなのかを知らないことから、来ています。もし、神のことが本当にわかったら、怖れは少なくなるでしょう。神は、あなたに何かを求める前から、まずあなたのために全てを犠牲にしてくださったお方です。

イエスが真にどんなお方なのかを知るために、私たちは、神の権威に対して、自分の殻を全て取り去って無防備になる必要があります。 神の前に無防備になることで、私たちは、この世で最も安全で自由な場所にいることに気付きます。それはクリスチャンの信仰の逆説の一つです。神に対して、自分の権利を手放した時に、私たちは初めて真の自由を手に入れるのです。

〈イエスの価値観を知り、それに基づいて生きる〉

次のポイントに移ります。イエスの価値観を知り、それに従って生きることによって、私たちはイエスの到来に備えます。イエスの価値観の中には、この世の価値観と全く逆のように思えるものもあるかもしれません。弟子たちでさえ、イエスを理解することが難しい時がよくありました。

31節に「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」とあります。弟子のペテロはこれを聞いて、イエスをいさめました。多分ペテロはこんな感じて言ったのではないでしょうか。「イエス様、そんなことをおっしゃるのは止めてください。あなたに従う者はとても多いのです。あなたを守るために私たちは戦います。」

ペテロは、当時のユダヤ人がそうであったように、メシア(救い主)は軍事力によってローマ帝国を打倒する政治的なリーダーだと期待していたのでしょう。

しかし、イエスは、政治的な権力と善意だけでは、世界をよりよい場所にすることはできないことを知っています。私たちに必要なのは、全ての問題の根底にあるものを直す治療法なのです。問題の根底にあるものとは、罪、そして神と人間との壊れてしまった関係です。神のご計画はその治療法を与えることで、その中心が十字架のイエス・キリストの贖いの死です。

イエスの多くの教えは、社会の教えとは逆のことを言っています。イエスの教えは、リーダーになるには仕える者になりなさい。自分を捨てることは、命を得ることです。

34節の「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」は解釈が難しい教えの一つです。

自分を捨てるとはどういうことだと、イエスは言っているのでしょうか。それは、仏教の僧侶のように、快楽を捨て、欲望を断ち切ることではありません。それは自分の欲求を抑えることではなくて、自分の欲求より神を大切にして、神を愛することです。自分の欲求を進んで神に委ねて、神がその欲求を満たすかどうかは関係なく、それを受け入れることです。興味深いことに、私たちがそのように自分を捨てる時、痛みはあるかもしれないけれども、神は私たちの人生を更に満たし、思いもよらないほどよいものとしてくださるのです。自分の意志よりも神のご意志を大切にすることで、私たちの欲求はより健全でよいものとなっていきます。

それでも、神が与えてくださる喜びと共に、私たちは物理的身体的に苦しむこともあるかもしれません。神が私たちの心に与えてくださった愛のために、命を落とすクリスチャンもいるかもしれません。ポーランド人のマキシミリアノ・コルベ神父がそうでした。彼は第二次世界大戦中、死の収容所と言われたアウシュビッツ収容所に囚われました。彼はドイツ人の家系でしたが、ドイツ人として登録することを拒否し、ナチス下で市民権を得ませんでした。

戦争前には、コルベ神父は日本で宣教師をしていて、長崎にカトリック修道院を建てました。その後ポーランドに帰国し、ポーランドでも修道院を設立しました。しかし、反ナチスの出版物を発行したことから、閉鎖されました。そしてコルベ神父はアウシュビッツ収容所に送られました。守衛に嫌がらせされても、ぶたれても、彼は他の囚われた人々ために神父として仕えました。

ある時、ついに何人かの人々の死刑執行が決定した時、家族がいると言って、一人のポーランド人の男性が、泣きながら憐みを請いました。するとコルベ神父は、自分がその男性の代わりになると進み出ました。そのポーランド人の男性は生き残り、コルベ神父がどのように彼を救ってくれたかをいろいろな所で、その後語り続けました。コルベ神父は、自らを犠牲にして、他の人を愛するという真の人生を送ったのです。自分を捨ててイエスについていく、そのためには苦しみを通ることも進んで受け入れなさいというイエスの教えを、コルベ神父は命をかけて全うしたのでした。

イエスの足跡をたどるコルベ神父のような方もいますがが、歴史には、その反対のことを為した人物も出てきます。クリスチャンと名乗りながらも、権力で人々を搾取するような者も現れます。ですから、私たちは、ただよい道徳的なことを教える教師以上の存在が必要なのです。私たちを救い、内側から変えることのできる神の力が必要なのです。

福音書の別の箇所で、イエスは約束しています。それは、私たちの心を変えて、自分自身の力では不可能と思われることができるように、助け手である神の霊を送るという約束です。イエスの真の弟子ならば、「イエス様、あなたにお従いしたいです」と言うのに加えて「イエス様、わたしはあなたの助けがなければ、あなたにお従いすることができません」と言うでしょう。

〈自分の選択が将来どうなるかを考える〉

イエスの弟子になることは、心の中で将来のことをいつも意識しながら生きることです。ここでいう将来は5年10年20年後ではなく、永遠の意味です。今日の自分の選択が、将来、永遠の結果を左右することを理解する。そうすることで、私たちは、イエスの再臨に備えます。これが3番目の方法です。

イエスは36節で尋ねます。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」 私たちが今日する決断に対して、長期的な将来の結果が待っています。イエスが再び戻って来られる時、私たちの地上での短い人生は終わりを告げ、永遠の人生が始まります。イエスは、この世で得られるものだけを追い求めて生きる生き方を望んでおられません。私たちには永遠があるという思いを持ちながら、選択していく生き方をイエスは願っておられます。

また、イエスは38節で将来についてこのように語っておられます。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます」

ある日、イエスは世界を裁くために、父の栄光をまとって戻って来られます。

イエス・キリストが主だとわかり、イエスに従った人々に、栄光が授けられます。しかし、そうしなかった人々のことをイエスは恥じると書いています。自分を捨てなさいというイエスの教えと同じように、裁きとか死後の命の教えは、多くの現代人にとっては受け入れがたい内容です。しかし、それらは注目するに値します。何故ならそれらを聴くという選択と、耳を閉じる選択のその後の結果には、雲泥(うんでい)の差があるからです。

すでにイエスに従うことを決心したのに、従うことの難しさを感じている方がいるのなら、私はヤコブ1章12節のみ言葉で励ましたいと思います。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」また、ローマ8章18節も励ましのみ言葉です。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」

〈結び〉

かなりシリアスなクリスマスのメッセージとなってしまいましたが、ここからは余談として少し聞いてください。最近、私の親友が父親になりました。親友は、その生まれた男の子の赤ちゃんについて、こう言っていました。「赤ちゃんは本当にかわいいんだ。この子が生きるためだったら、僕は死んでもかまわないよ。」

子どものためだったら時間もエネルギーも惜しまないという本能が、ほとんどの親に生まれつき備わっています。それも、子どもが親の愛に応えられるようになるずっと前の赤ちゃんの頃から、親は子どものために何物も惜しみません。これは驚きです。

誰かをイエスに導きたいと思う時、クリスチャンになってほしいと導く時、こんなふうに聞くことがあります。「あなたは心にイエスをお迎えしたいと思っていますか。イエスのために喜んで死ねますか。」 でも、先程言ったように、イエスはあなたに何かを求める前に、自ら進んであなたのために全てを犠牲にしてくださいました。イエスがまず私たちを愛してくださったのです。まず最初にイエスがご自分を捨て、私たちのために十字架に架かってくださいました。

クリスマスに備える時、私たちは、新しくお生まれになったイエスと、幸せなイエスの両親の平和な光景を思い浮かべますね。でも、私たちはそれだけではなくて、大人になったイエスが私たちのために為してくださった犠牲、そして、イエスの故に犠牲を伴う生き方を私たちが選ぶことを、イエスは求めておられる、そういうことにも思いを向けたいと思います。

クリスマスでは、イエスを信じる者たちに、救いという無料の贈り物が送られることが語られます。その贈り物は確かに無料ですが、支払いはイエスがしてくださいました。それは高価な贈り物なのです。

有名なドイツ人の牧師であるディートリッヒ・ボンヘッファーは、ナチスに捕らわれ命を落としましたが、神の恵みの値段についてこう言いました。「(神の恵みの値段は)とても高価な真珠のようだ。そのために人は喜んで行き、持ち物全てを売り払う。そのような恵みは高価だ。何故なら、その恵みは私たちに従うことを求めるから。よい主人であるイエスキリストに従うことを求めるのだから、それは恵みだ。」

「(神の恵みは)高価だ。何故なら、その恵みのために、人は命をかけるから。そして、唯一の真実の命を与えてくださるのだから、それは恵みだ。その恵みは高価だ。何故なら、それは罪をとがめるから。そして罪人を裁いてくださるのだから、それは恵みなのだ。」

イエスのみ言葉に従うことは難しく、犠牲を伴うかもしれませんが、まことの命へと私たちを導いてくださいます。

祈りましょう

全知全能の神様。暗闇の業(わざ)を打ち破り、光の武具をつける恵みをお与えください。死すべき人生のこの時に、あなたの御子イエスキリストは大いなる謙遜をもって、私たちのところへと来てくださいましたから、ありがとうございます。そして最後の日に、栄光なる威厳をまとって、イエスキリストが再び来られ、生きる者も死んでいる者も全てが裁かれる時、私たちは永遠の命へと上げられることを信じ、感謝します。神、聖霊と共に永久(とわ)におられ、ご支配する主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン

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「イエスの弟子となることは犠牲も伴うこと、イエスの再臨に備えること」(マルコの福音書8章27節~9章1節)