↓メッセージが聞けます。
整理してみよう。弟子たちにはこの悪霊を追い出すことができない。それで、父親は、イエスに、できますならば、わたしどもをあわれんでお助けくださいと謙遜な願いをする。それに応答したイエスの言葉が、信じる者には、どんな事でもできるとの言葉であり、「信じます、不信仰なわたしを、お助けください。」との父親の言葉の後でのイエスの奇跡である。皆さんは覚えておられるだろうか?今までどんな病気や悪霊の支配からもイエスは人々を自由にしてこられたことを。悪霊との戦いにおいて、イエスが困難を覚えたことは一度もない。イエスは悪霊やサタンに対して絶対的な力をもっておられる。イエスは、けがれた霊をしかって言われる。「言うことも聞くこともさせない霊よ。わたしがおまえに命じる、この子から出て行け。二度と、はいって来るな。」と。イエスこそ神の子、キリストであり、神の力を持っておられることがこの出来事で再度明らかにされる。
ところで、皆さんはいかがでしょうか。悪霊や占いの霊、宗教的な圧迫に心を支配されたことはなかったでしょうか?私たちが、イエスに信頼する時、同様に、それらの圧迫からわたしたちを解放してくださる力をイエスは持っておられることに気付ていただきたいと願う。
この出来事を目撃した弟子たちは、イエスに尋ねる。「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか。」と。イエスは、「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできない。」とお答えになる。この同じ箇所に、マタイは2つのキーとある言葉を追加して、「あなたがたの信仰が足りないからである。・・このたぐいは、祈りと断食とによらなければ、追い出すことはできない。」(マタイ17章19-21節)とある。信仰、祈り、断食がこの出来事(物語)のキーである。
パウロも同じような表現を用いている。ピリピ人への手紙4章12-14節を読んでいただきたい。「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。しかし、あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれた。」とある。私は、パウロほど、信仰者として、苦しみや困難を味わった方を知らない。私も、パウロのように、あらゆる境遇に処する秘けつを心得たいと願う。そして、キリストが私を強めてくださるので、何事でもすることができるとの信仰をもって生きたいと心から願う。