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今日は、ゼパニア書を取り上げます。今までヨシヤ王が宗教改革を行った、そのことを何度か語ってきました。ヨシヤ王の置かれた南ユダ国の環境はとても困難なものでした。特に、彼の以前のマナセ王とアモン王は悪政を行った王であり、偶像礼拝がエルサレムに浸透し、また神の教えから離れた治世が公然と行われていたのです。そのような中で、ヨシヤ王は宗教改革にチャレンジするのですが、その励ましになった預言者の一人がゼパニヤです。そして今日のメッセージで、どのような言葉がヨシヤ王を動かしたのか、そのような問いかけをしながら、このゼパニア書を読んでみたいと思います。まず、ゼパニア書は大きく3つの内容からなります。1つは、エルサレムに対する神の審判です。2つ目は諸外国に対する審判です。3番目は終末における救いの約束です。特にその中でも、私の心に残るいくつかの箇所を選んでみます。

1章1節には、「ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼパニヤにあった主のことば。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒゼキヤの子である。」と書かれています。ヨシヤの時代に、ゼパニヤが活躍したことが言及されています。そしてゼパニアは、ヒゼキヤの子孫であつたと書かれています。ヒゼキヤは良い王として知られていますので、その王の血筋を継ぐ者として、ゼパニアは、ヨシヤ王の近くでこれらの預言の言葉を語ったと理解できます。

その語った内容ですが、まず、エルサレムに対する神の裁きです。ヨシヤの時代はマナセの悪政のゆえに、民の心がすさみ、民は神の教えを忘れ、偶像に心を奪われていく、そのような時代であったのです。今の日本は、本当に大変な時代です。政治が乱れ、また、大きな震災も起こっています。そのような2024年のスタートですが、もう一度この聖書から神に信頼することを私たちはチャレンジされたいと願っています。

1章4節には、「わたしの手を、ユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。わたしはこの場所から、バアルの残りの者と、偶像に仕える祭司たちの名とを、その祭司たちともに断ち滅ぼす。」とあります。5節と6節には、「また、屋上で天の万象を拝む者ども、また、主に誓いを立てて礼拝しながら、ミルコムに誓いを立てる者ども、また、主に従うことをやめ、主を尋ね求めず、主を求めない者どもを断ち滅ぼす。」と書かれています。天の万象を拝むとか、ミルコムとありますので、古代メソポタミア地方で盛んに行われた天体礼拝や、アモン人の偶像がエルサレムに持ち込まれていた様子がわかります。7節の前半には、「神である主の前に静まれ。主の日は近い。・・」とあります。主の日とは、神の裁きの日です。14節、15節には、「主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、」と表現しています。神の大いなる裁きがエルサレムに近づいている、これが最初のメッセージです。

2章3節で、「主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」とあります。神の激しい怒りの日を前にして、ゼパニアは、へりくだりを求め、主を尋ね求めることを求め、義を求め、柔和を求め、主の助けを求めています。大いなる裁きの日が来る、その前に悔い改めを求める、このこともヨシヤ王の心に迫ったメッセージではと思います。

この主の裁きは、イスラエルに向けたものだけではありません。その周りの諸国にも及んでいます。これが2番目の内容です。2章4節からは、イスラエルの周りの国々への裁きが言及されています。ガザとは地中海に面したペリシテ人の町です。そして8節には、モアブとありますのでイスラエルの東の国、そして12節にはクシュ人とありますので、南のエチオピアの民への言及です。また13節では、北に離れたアッシリアへの裁きが預言されています。神の裁きはイスラエルだけではなく、その周りの国々、特にアッシリアさえも裁かれるとゼパ二ヤは語るのです。このような大きな世界観を持って、彼は神の裁きを伝えています。

3章に入りますと、もう一度エルサレムに向かって預言者は語りかけています。1節、2節で、「ああ。反逆と汚れに満ちた暴力の町。呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない。」また4節には、「その預言者たちは、ずうずうしく、裏切る者。その祭司たちは、聖なる物を汚し、律法を犯す。」とあります。そのようなイスラエルの民の現実を、もう一度指摘します。ところが、3章9節から預言者のメッセージが大きく変わって参ります。その中には残りの者、へりくだった寄るべのない民とあり、そのような民を神は残してくださり、彼らを通してイスラエルが祝福されてゆく、そのような預言がなされています。残された民がいる、これは大きな希望であり祝福です。私たちクリスチャンもある意味、混乱した社会、混沌とした社会、そのような社会で光を放ち続ける、残された民なのです。それでは、彼らの希望や祝福を見てみましょう。きっとその希望にヨシヤ王も大いに励まされたのではないでしょうか。

11節には、「その日には、あなたは、わたしに逆らったすべてのしわざのために、恥を見ることはない。そのとき、わたしは、あなたの中からおごり高ぶる者どもを取り去り、あなたはわたしの聖なる山で、二度と高ぶることがない。」とあります。残された民は、キリストのように謙遜な歩みをするのです。12節には、「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。」とあります。へりくだり、寄る辺のないとは、弱く貧しい者の姿ですが、謙遜に主に信頼していく信仰者の姿そのものです。また残された民は、13節で、「イスラエルの残りの者は不正を行わず、偽りを言わない。彼らの口の中には欺きの舌はない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はない。」とあります。この信仰者の群れは、偽りの会衆ではなく、良い牧者に導かれて生きるのです。参照詩篇23篇。

ところで、3章で、ゼパニアは一時的な祝福を預言したのではありません。この預言は、終末の時の預言と理解できます。私たち信仰者はいつかイエス・キリストとお会いし、喜びや安らぎを得るのです。そして礼拝の喜びを共にするのです。14節には、「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。」とあります。15節には、「主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。」とあるのです。皆さん、神様があなたのただ中におられ、もう災いを恐れないとあります。それらの約束をヨシヤはしっかりと受け取ったのではないでしょうか。そして16節の後半では、「シオンよ。恐れるな。気力を失うな。」とあります。これらの言葉を信じて、ヨシヤは神に信頼して、気力を失わないで、宗教改革の道に進んだのではないでしょうか。17節には、「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主が高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」とあるのです。神の前に信仰を持って、勇気を持って立ち上がり、民を導いていく、そのようなチャレンジが与えられる言葉です。これらの約束は、終末の時代に生きる私たちにも与えられているのです。

また18節の前半には、「例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める。」とあります。例祭とはユダヤの3つのお祭りであり、過越の祭り、刈り入れの祭り、仮庵の祭りです。イスラエルの民はこれらの祭りからも離れてしまい、神への喜びを味わうことができなくなっていたのです。しかし、もう一度、これらの祭りを通して民の中に神への信頼が起こって行くのです。19節には、「見よ。その時、わたしはあなたを苦しめたすべての者を罰し、足なえを救い、散らされた者を集める。わたしは彼らの恥を栄誉に変え、全地でその名をあげさせよう。」とあります。たとえ一時的に神から離れ、大いなる試練や迫害にあったとしても、もう一度、神は恥を栄誉に変えてくださるのです。そしてその時、私はあなた方を連れ帰り、その時、私はあなた方を集めるとあります。

残された民、寄る辺のない者に与えられたその信仰のゆえに、もう一度回復が起こるのです。そのようなメッセージが、ゼパニアを通して語られています。私はどの言葉がヨシヤ王に信仰のチャレンジを与えたのか、そう理解したいと思いながらこれらの聖書の箇所を読んでみました。1つの言葉を選ぶ事は難しいです。しかしながら、私はあなた方のただ中におられる。神の前に静まれ。主の大いなる日は近い。きっとこれらの言葉はしっかりと、ヨシヤの心に届いたのではと思います。皆さんはどうでしょう。2024年、日本は大きな災害を経験して新しい年をスタートしました。しかしながら、どのような時代にも、謙遜に歩む寄る辺のない、残された者を神は選ばれているのです。これらの言葉を信じて、謙遜に、また大胆に、新たな年を歩んでいこうではありませんか。

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「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。」ゼパニア書3章12節